父に歩行障害が出始めた頃に、広瀬家の階段には手摺りと滑り止めが付けられた。知り合いの工務店に頼んで半日ほどで付けて貰った手摺りも、腕にも力が入らなくなってくると意味を成さなくなり、父が二階に上がることはほとんど無くなった。
母と一緒に一階の和室に布団を敷いて眠るようになると、父の行動範囲は家の中でさえも最低限にまで狭まってしまった。
両親が二階の寝室を使わなくなれば、クロとナッチは当たり前のように和室の布団に潜り込みに行っていたので、猫達にとってはどの部屋で眠るかというよりも、誰と一緒に寝るかの方が重要なのだろう。ピッチだけは相変わらず有希の部屋に入り浸りだったが。
身体が思うように動かなくなってくると、父は目に見えて塞ぎ込むようになった。特に夜寝る時にオムツを履かなければいけなくなったことが父にはとてもショックだったらしい。そして、朝起きた時にオムツが湿っていると、さらに深く落ち込んでしまう。
「クロ、俺はもうダメかもしれん……きっと俺の方が先やろうなぁ……」
コタツ布団の上で伸びきって眠っている白黒猫に向かって、信一はそう呟いた。血圧の急激な低下で緊急入院していたクロだったが、あれ以来は何ともない。シニア猫用のカリカリも嫌がらずに食べるようになったので、腎臓の数値もかなりマシになっていたくらいだった。
目を瞑ったまま尻尾だけで返事する猫を撫でる手も、力が入らずにどこかぎこちない。どうして自分だけがこんなにも弱っていくのだろうか、もうどうにもできないのだろうかと、猫を相手につい弱音が漏れてしまう。家族には聞かせることができない本音も、猫になら吐き出せる。
「なんでやろうなぁ……」
どこで何を間違えたからこうなったのか、嫌いな病院にも通い、指示された通りに薬も飲んでいる。けれど日増しに弱っていく身体を嘆く。
撫でられ、声を掛けられる度にクロは尻尾だけを動かしていた。
二階の部屋でピッチと眠る有希のところへ、母が夜中に押しかけてきたのは父が退院してから1か月と少し経った頃だった。時計を見れば3時を回ったところで、いきなり点けられた部屋の電気に、有希のお腹にくっ付いて寝ていた猫も眩しそうな顔をしている。
「……どうしたの?」
「お父さんがお腹を痛がって、眠らないのよ」
父がお腹を抱えてずっと唸り続けているという。有希は枕の下からスマホを取り出すと、かかりつけの病院に電話を掛ける。夜中ということもあり当直には外科医しかいないらしいが、とりあえず診察はしてもらえるということだった。
急いで準備をして車を出した有希には嫌な予感しか無かった。ここ二日ほどはお腹が痛いと言って、父はまともに食事を取っていなかったのだ。
深夜の病院は必要最低限の照明だけで薄暗く、しんと静まり返っていた。救急用の入口で警備員に名前を告げると、唯一電気が点いていた内科の外来診察室の前、母と並んでベンチに腰掛けたまま有希は父の診察が終わるのを待った。
腹部の触診をしたという当直医は、少しばかり困った顔で告げる。
「お腹を触った感じでは、かなり便が溜まってますし、それが原因だと思います。今日のところは浣腸して帰って、また午前の診察で内科を受診して便のコントロールをして貰って下さい」
重度の便秘による腹痛。当直の医師はそう診断した。看護師に付き添われてトイレに向かった父は、お尻に浣腸して貰ったおかげで排便できたようで「もう大丈夫や」と少し恥ずかしそうに笑った。
「便秘で救急車を呼ばなくて良かったね」
帰りの車では三人で大笑いした。
父が便秘気味だったのは運動不足に加えて、腸機能が低下していることが原因なのだろう。そして、大腸にも転移してしまった癌が便で圧迫されたことで痛みは来ていた。
もう平気だからと午前の診察は受けたがらなかった信一だったが、その夕方にまた腹痛を訴えた。再び、有希の運転で時間外の診察を受けに行きレントゲンを撮って貰うと、腸内に大量の便がまだ溜まってることが発覚した。また浣腸をしてもらい、排便後は落ち着いた様子で自宅へと戻った。
けれどやはり、父はその晩も腹痛でうなされ続け、まともに眠ることができなかったようだった。当然、同じ布団で寝ている母も眠れる訳もなく、お腹をさすってあげても「お前には俺の気持ちは分からん」「こんなん、死んだ方がマシや」「殺してくれ」「意識なくなった時に死ねてたら良かった」と八つ当たりのような恨み言を吐かれる始末。
翌朝の診察でおとなしく内科を受診した父はCTを撮って貰ってから便秘薬を処方されて帰ってきた。そのCTにより、すい臓を中心にした臓器全てにガンが転移していることが分かった。父の身体は肺癌だけでなく、すい臓を含めたあらゆる癌が末期状態にまで進行していたのだった。ガンマナイフ治療で予想外に延命できたおかげで、大丈夫だったはずの内臓全てにも転移しているのは当然のこと。
腹痛だけでなく、脳腫瘍による頭痛も少し前から出ているらしく、父に残された時間は本当に少ないことを有希達は改めて思い知らされる。
内科での点滴と痛み止めのおかげで3日ぶりに眠る父を取り囲むよう、リビングでは3匹の雌猫が思い思いの恰好で寝転がっている。猫達はコタツでのぼせて出て来たところらしく、それぞれが身体を伸ばしてコタツ布団の上で埋もれていた。
母と一緒に一階の和室に布団を敷いて眠るようになると、父の行動範囲は家の中でさえも最低限にまで狭まってしまった。
両親が二階の寝室を使わなくなれば、クロとナッチは当たり前のように和室の布団に潜り込みに行っていたので、猫達にとってはどの部屋で眠るかというよりも、誰と一緒に寝るかの方が重要なのだろう。ピッチだけは相変わらず有希の部屋に入り浸りだったが。
身体が思うように動かなくなってくると、父は目に見えて塞ぎ込むようになった。特に夜寝る時にオムツを履かなければいけなくなったことが父にはとてもショックだったらしい。そして、朝起きた時にオムツが湿っていると、さらに深く落ち込んでしまう。
「クロ、俺はもうダメかもしれん……きっと俺の方が先やろうなぁ……」
コタツ布団の上で伸びきって眠っている白黒猫に向かって、信一はそう呟いた。血圧の急激な低下で緊急入院していたクロだったが、あれ以来は何ともない。シニア猫用のカリカリも嫌がらずに食べるようになったので、腎臓の数値もかなりマシになっていたくらいだった。
目を瞑ったまま尻尾だけで返事する猫を撫でる手も、力が入らずにどこかぎこちない。どうして自分だけがこんなにも弱っていくのだろうか、もうどうにもできないのだろうかと、猫を相手につい弱音が漏れてしまう。家族には聞かせることができない本音も、猫になら吐き出せる。
「なんでやろうなぁ……」
どこで何を間違えたからこうなったのか、嫌いな病院にも通い、指示された通りに薬も飲んでいる。けれど日増しに弱っていく身体を嘆く。
撫でられ、声を掛けられる度にクロは尻尾だけを動かしていた。
二階の部屋でピッチと眠る有希のところへ、母が夜中に押しかけてきたのは父が退院してから1か月と少し経った頃だった。時計を見れば3時を回ったところで、いきなり点けられた部屋の電気に、有希のお腹にくっ付いて寝ていた猫も眩しそうな顔をしている。
「……どうしたの?」
「お父さんがお腹を痛がって、眠らないのよ」
父がお腹を抱えてずっと唸り続けているという。有希は枕の下からスマホを取り出すと、かかりつけの病院に電話を掛ける。夜中ということもあり当直には外科医しかいないらしいが、とりあえず診察はしてもらえるということだった。
急いで準備をして車を出した有希には嫌な予感しか無かった。ここ二日ほどはお腹が痛いと言って、父はまともに食事を取っていなかったのだ。
深夜の病院は必要最低限の照明だけで薄暗く、しんと静まり返っていた。救急用の入口で警備員に名前を告げると、唯一電気が点いていた内科の外来診察室の前、母と並んでベンチに腰掛けたまま有希は父の診察が終わるのを待った。
腹部の触診をしたという当直医は、少しばかり困った顔で告げる。
「お腹を触った感じでは、かなり便が溜まってますし、それが原因だと思います。今日のところは浣腸して帰って、また午前の診察で内科を受診して便のコントロールをして貰って下さい」
重度の便秘による腹痛。当直の医師はそう診断した。看護師に付き添われてトイレに向かった父は、お尻に浣腸して貰ったおかげで排便できたようで「もう大丈夫や」と少し恥ずかしそうに笑った。
「便秘で救急車を呼ばなくて良かったね」
帰りの車では三人で大笑いした。
父が便秘気味だったのは運動不足に加えて、腸機能が低下していることが原因なのだろう。そして、大腸にも転移してしまった癌が便で圧迫されたことで痛みは来ていた。
もう平気だからと午前の診察は受けたがらなかった信一だったが、その夕方にまた腹痛を訴えた。再び、有希の運転で時間外の診察を受けに行きレントゲンを撮って貰うと、腸内に大量の便がまだ溜まってることが発覚した。また浣腸をしてもらい、排便後は落ち着いた様子で自宅へと戻った。
けれどやはり、父はその晩も腹痛でうなされ続け、まともに眠ることができなかったようだった。当然、同じ布団で寝ている母も眠れる訳もなく、お腹をさすってあげても「お前には俺の気持ちは分からん」「こんなん、死んだ方がマシや」「殺してくれ」「意識なくなった時に死ねてたら良かった」と八つ当たりのような恨み言を吐かれる始末。
翌朝の診察でおとなしく内科を受診した父はCTを撮って貰ってから便秘薬を処方されて帰ってきた。そのCTにより、すい臓を中心にした臓器全てにガンが転移していることが分かった。父の身体は肺癌だけでなく、すい臓を含めたあらゆる癌が末期状態にまで進行していたのだった。ガンマナイフ治療で予想外に延命できたおかげで、大丈夫だったはずの内臓全てにも転移しているのは当然のこと。
腹痛だけでなく、脳腫瘍による頭痛も少し前から出ているらしく、父に残された時間は本当に少ないことを有希達は改めて思い知らされる。
内科での点滴と痛み止めのおかげで3日ぶりに眠る父を取り囲むよう、リビングでは3匹の雌猫が思い思いの恰好で寝転がっている。猫達はコタツでのぼせて出て来たところらしく、それぞれが身体を伸ばしてコタツ布団の上で埋もれていた。