診察室の丸椅子に腰掛ける姉の膝には1才の姪っ子、美鈴がちょこんと座っていた。有希と姉の間に挟まれるように座っている菜月は、大人達の深刻な表情に何かを察したのか、終始とても静かだった。加えて、外来の受付を全て終えた脳神経外科の診察室は、息を飲む音でさえも隣にいる者にまで聞こえてしまいそうなくらい、しんと静まり返っていた。
「これは治すことは出来ないんでしょうか?」
姉の由依が声を震わせながら、木下医師に質問する。由依も有希も真っ赤な目でその答えを待った。
「この状態だったら、2年前に診せて貰っていれば、状況は変わっていたかもしれません……今日は胸と頭だけしか診ていませんが、すでに他のところにも広がっているはずです」
「ってことは、2年前なら治ったってことですか?」
姉の言葉に、今それを聞いたところで何にもならないのにと思いながら、有希は黙って父のレントゲン写真を眺めていた。病状の見本のような真っ白に映った肺が父の物だと言われても簡単には信じられなかった。
「少なくとも今よりは、可能性は遥かに高いと思います」
無意味なタラレバな問いかけに、木下医師は困り顔を見せる。患ってしまった後に、もしあの時ならばは通用しない。
会社勤めをしている人なら、毎年の健康診断で早期発見できたかもしれないが、脱サラして起業してから、父は健診を一度も受けたことがなかった。起業したことで豊かな生活を送らせて貰えたし、大学へも通わせて貰った身だから、それ自体を否定するつもりは全くない。ただ、病院嫌いが故に母が予約した人間ドックをドタキャンしたりする父の頑固さを思うと、ただただ自業自得としか言えない。
「お母さんのお話では本人への告知はしないということなので、いわゆる抗ガン剤を使った癌治療や手術はできません。今ある痛みを薬で誤魔化すだけになります」
遅れて病院に着いたという母が、看護師に連れられて診察室に入って来る。丸椅子をさらに1脚追加して貰ってから、由依の隣に腰掛けた。
「とても弱い人なので、告知すれば自分で首を吊りかねません」
長年連れ添って来た母の目から、父はそういう風に映っていたのかと、有希は驚いて貴美子の方を振り返り見た。娘には見せない父の弱い部分を、母だけは知っているのだろう。ずっと父は強い人だと思っていたから、とても意外だった。
これまでの経験から、父と同じ状態で1年半以上もった人もいたという慰めのような話を医師から聞いた後、有希達は診察室を出た。そのまま買い物をして帰るという母とは病院の駐車場で別れ、来た時と同じように姉の運転する車に乗り込む。
互いにまだ整理できていない頭で、姉妹が話し合えることは少なかった。
「お姉ちゃん、もう少し家に顔出してあげて」
「うん、そうする」
菜月が幼稚園に通うようになってから、実家に遊びにくる頻度が減ったことを父はとても寂しがっていた。それ以前はほぼ毎日のように来て昼ご飯を食べて、菜月一人で何日も泊まりに来ることもあったから余計なのだろう。
帰宅すると、父は猫と一緒にコタツで昼寝をしていた。体調が悪くなってから寝て過ごす時間がとても多くなっていて、家で飼っている三匹の猫達は必ず父の傍に寄り添っていた。猫達からしてみたら、日中ずっとコタツの電気がついているから快適だったのだろう。
父から言わせれば、「ピッタリくっ付かれるから、全然寝られん」ということだったが。
キッチンに居る母のところへ行くと、有希は父には聞こえないトーンで確認する。これから自分はどうすれば良いのかと。
「外で仕事してた方がお父さん安心するなら、就職先探すけど?」
「ううん、家に居てあげて。あなたが家に居る方がお父さんは喜ぶし、別にお金に困ってないなら、有希が家に居てくれる方が私も助かるわ」
月によっては収入が一桁のこともあるフリーランスよりは、以前のように定職に就くことを両親が望んでいるのなら、有希はすぐに職安に向かうつもりでいた。けれど、お小遣い程度の収入でもいいから、家に居て欲しいと願われホッとする。
――私だって、残りの時間をお父さんの傍で少しでも長く過ごしたい。
「お父さんを安心させたいなら、彼氏に結婚しますって挨拶に来てもらって欲しいわ。それは別に嘘でもいいから」
週末になると雅人のマンションに通う日々だったので、彼氏の存在自体は親公認だった。ただ、これまではちゃんと紹介したことも挨拶に来て貰ったことも無かった。母は偽りでも形だけでもいいから、父に娘の幸せな未来を見せてあげて欲しいと願った。
「うん、行くよ」
母の頼みを伝えると、雅人は二つ返事を返してくれた。結婚するのは別に嘘でもないし、いつか家へ行くつもりだったからと。父の病状がいつ急変するかも分からないので、雅人の次の休みの日に来て貰うよう約束する。
父親の余命宣告をキッカケにして、とんとん拍子に結婚への道筋が作られていく状況を、有希は複雑な想いを抱かずにはいられなかった。
――私の結婚は、父の死に直結している。
父が生きている内は家を出るつもりはない。だから、自分が結婚する時には父はこの世には居ないということ。雅人と一緒になるということは、父親を失うということ。どちらもという贅沢な未来は、有希には存在しないのだ。
一向に作業の進まないPC画面を眺めたまま茫然としていると、部屋の前で猫の鳴き声が聞こえてきた。少し掠れた鳴き声は、クロの娘のピッチだ。立ち上がって部屋の扉を開けてやると、白黒の鉢割れ猫が黒く長い尻尾を伸ばしながら、するりと足下に擦り寄ってくる。
有希の家にいる猫達は三匹とも血が繋がっている白黒のメス猫だ。15歳のクロを筆頭に、その娘のピッチ、ピッチの娘のナッチ。1歳違いの猫達はそれぞれが1度目の出産後に避妊手術を受けているのでもう子猫を産むことはない。他に生まれた子猫達は全て貰われて行ったけれど、ピッチとナッチだけは貰い手がつかずにそのまま広瀬家の飼い猫になった。
「これは治すことは出来ないんでしょうか?」
姉の由依が声を震わせながら、木下医師に質問する。由依も有希も真っ赤な目でその答えを待った。
「この状態だったら、2年前に診せて貰っていれば、状況は変わっていたかもしれません……今日は胸と頭だけしか診ていませんが、すでに他のところにも広がっているはずです」
「ってことは、2年前なら治ったってことですか?」
姉の言葉に、今それを聞いたところで何にもならないのにと思いながら、有希は黙って父のレントゲン写真を眺めていた。病状の見本のような真っ白に映った肺が父の物だと言われても簡単には信じられなかった。
「少なくとも今よりは、可能性は遥かに高いと思います」
無意味なタラレバな問いかけに、木下医師は困り顔を見せる。患ってしまった後に、もしあの時ならばは通用しない。
会社勤めをしている人なら、毎年の健康診断で早期発見できたかもしれないが、脱サラして起業してから、父は健診を一度も受けたことがなかった。起業したことで豊かな生活を送らせて貰えたし、大学へも通わせて貰った身だから、それ自体を否定するつもりは全くない。ただ、病院嫌いが故に母が予約した人間ドックをドタキャンしたりする父の頑固さを思うと、ただただ自業自得としか言えない。
「お母さんのお話では本人への告知はしないということなので、いわゆる抗ガン剤を使った癌治療や手術はできません。今ある痛みを薬で誤魔化すだけになります」
遅れて病院に着いたという母が、看護師に連れられて診察室に入って来る。丸椅子をさらに1脚追加して貰ってから、由依の隣に腰掛けた。
「とても弱い人なので、告知すれば自分で首を吊りかねません」
長年連れ添って来た母の目から、父はそういう風に映っていたのかと、有希は驚いて貴美子の方を振り返り見た。娘には見せない父の弱い部分を、母だけは知っているのだろう。ずっと父は強い人だと思っていたから、とても意外だった。
これまでの経験から、父と同じ状態で1年半以上もった人もいたという慰めのような話を医師から聞いた後、有希達は診察室を出た。そのまま買い物をして帰るという母とは病院の駐車場で別れ、来た時と同じように姉の運転する車に乗り込む。
互いにまだ整理できていない頭で、姉妹が話し合えることは少なかった。
「お姉ちゃん、もう少し家に顔出してあげて」
「うん、そうする」
菜月が幼稚園に通うようになってから、実家に遊びにくる頻度が減ったことを父はとても寂しがっていた。それ以前はほぼ毎日のように来て昼ご飯を食べて、菜月一人で何日も泊まりに来ることもあったから余計なのだろう。
帰宅すると、父は猫と一緒にコタツで昼寝をしていた。体調が悪くなってから寝て過ごす時間がとても多くなっていて、家で飼っている三匹の猫達は必ず父の傍に寄り添っていた。猫達からしてみたら、日中ずっとコタツの電気がついているから快適だったのだろう。
父から言わせれば、「ピッタリくっ付かれるから、全然寝られん」ということだったが。
キッチンに居る母のところへ行くと、有希は父には聞こえないトーンで確認する。これから自分はどうすれば良いのかと。
「外で仕事してた方がお父さん安心するなら、就職先探すけど?」
「ううん、家に居てあげて。あなたが家に居る方がお父さんは喜ぶし、別にお金に困ってないなら、有希が家に居てくれる方が私も助かるわ」
月によっては収入が一桁のこともあるフリーランスよりは、以前のように定職に就くことを両親が望んでいるのなら、有希はすぐに職安に向かうつもりでいた。けれど、お小遣い程度の収入でもいいから、家に居て欲しいと願われホッとする。
――私だって、残りの時間をお父さんの傍で少しでも長く過ごしたい。
「お父さんを安心させたいなら、彼氏に結婚しますって挨拶に来てもらって欲しいわ。それは別に嘘でもいいから」
週末になると雅人のマンションに通う日々だったので、彼氏の存在自体は親公認だった。ただ、これまではちゃんと紹介したことも挨拶に来て貰ったことも無かった。母は偽りでも形だけでもいいから、父に娘の幸せな未来を見せてあげて欲しいと願った。
「うん、行くよ」
母の頼みを伝えると、雅人は二つ返事を返してくれた。結婚するのは別に嘘でもないし、いつか家へ行くつもりだったからと。父の病状がいつ急変するかも分からないので、雅人の次の休みの日に来て貰うよう約束する。
父親の余命宣告をキッカケにして、とんとん拍子に結婚への道筋が作られていく状況を、有希は複雑な想いを抱かずにはいられなかった。
――私の結婚は、父の死に直結している。
父が生きている内は家を出るつもりはない。だから、自分が結婚する時には父はこの世には居ないということ。雅人と一緒になるということは、父親を失うということ。どちらもという贅沢な未来は、有希には存在しないのだ。
一向に作業の進まないPC画面を眺めたまま茫然としていると、部屋の前で猫の鳴き声が聞こえてきた。少し掠れた鳴き声は、クロの娘のピッチだ。立ち上がって部屋の扉を開けてやると、白黒の鉢割れ猫が黒く長い尻尾を伸ばしながら、するりと足下に擦り寄ってくる。
有希の家にいる猫達は三匹とも血が繋がっている白黒のメス猫だ。15歳のクロを筆頭に、その娘のピッチ、ピッチの娘のナッチ。1歳違いの猫達はそれぞれが1度目の出産後に避妊手術を受けているのでもう子猫を産むことはない。他に生まれた子猫達は全て貰われて行ったけれど、ピッチとナッチだけは貰い手がつかずにそのまま広瀬家の飼い猫になった。