元旦はいつも通りに過ごしたが、翌日には雅人が有希と初詣に行く前に実家へ顔を出してくれた。さすがに二度目ともなると両親共に平然としていて、玄関先で軽く挨拶しただけだったが、雅人は初めて対面した時と父の顔が大きく変わってしまっていることに驚いていたようだ。

「お父さん、前と全然顔が違ってた……」
「あー、うん。薬の副作用なのかな、浮腫んで別人みたいだったでしょう? 髪もかなり薄くなってるし」

 癌患者は病的に痩せるイメージがあったらしく、丸々とした父の顔は意外だったみたいだ。腫れか浮腫みかは分からないが、見る人によってはただの肉付きの良いおじさんに見えただろう。けれど見た目に反して、父の体重は最後までずっと変わらなかったので、浮腫んだ分と同じだけ何かが擦り減っていたのかもしれない。
 歳の割にフサフサしていた頭髪も放射線治療の一種であるガンマナイフを受けた影響でか随分と薄くなっているし、もし雅人に会わせるタイミングが違っていたら彼の父への印象は全く別の物になっていただろう。

 ――お父さんがお父さんらしい時に会って貰えて良かった。

 勿論、薬の副作用で顔の印象が変わってしまった父でも有希の父であることには変わりない。けれど、自分が一番よく知っている父の姿の時に会って貰えた意味合いは大きい。

「うちの親に有希のこと話したら、お父さんの体調の良い日にでも顔合わせさせて貰った方がいいんじゃないかって」
「え、いいの?」

 交際相手の家に挨拶に行ったと報告する際、雅人は両親へ有希の家庭の状況を話したという。
 広瀬の家の事情を理解した上で、両家の顔合わせをするのは雅人の実家への負担が大きい。それが分かっていたから、母は雅人が挨拶に来てくれただけで十分だと思っている。

 末期癌で今日明日にも何が起こるか分からない時限爆弾を身体中に抱えている父との対面は、雅人の両親には余計な緊張を強いることになるだろう。もし自分がその立場だったら、気は重くて何を話せば良いかも分からないし、気も使い過ぎて想像するだけで疲れてしまう。
 だから、雅人が家に来てくれただけで十分だと思っていたし、それ以上をこちらから催促するつもりは全く無かった。

「親同士も会ってきちんと話をした方が、お父さんも安心されるだろうしって言ってた」
「そっか、ありがとう。お母さんに聞いておくね」

 父が居る内に出来る限りのケジメを付けておくべきだという雅人の両親からの気遣いはとても嬉しかった。きっと母も喜ぶだろうとは思うが、父の体調だけがただただ心配だった。最近はさらに身体を起こしている時間が減っていて一日中横になっているし、通院以外の外出は一切していない。もう近所を散歩する気力も体力も無くなってしまったのかもしれない。
 一日の大半をコタツから離れないでいる猫達の方がよっぽど活動的だった。

 帰宅後、雅人の両親からの提案を伝えると、母は思った通りに喜んでいた。否、想像していた以上の喜びようだったかもしれない。雅人の時には挨拶は嘘でもいいからとか言っていたが、やはり本音は父の居る内に次女の結婚話を少しでも進めておきたかったようだ。

「分かった、次の休みに店の下見に行こう。うちの親はいつでもいいって言ってたし」

 残された時間がどれだけあるのかは分からない。のんびりしていると父の身体が動かなくなる可能性が高くなる。
 有希の結婚話は本人達の心の準備ができない内にどんどん進んでいった。

 雅人の実家とは高速を使っても車で2時間ほどかかる。向こうの両親も高齢だし、本来ならそれぞれの家の中間で場所を探すべきなのかもしれないが、信一に長時間の移動をさせたくないという我が儘を通させて貰い、有希の家から半時間ほどのホテルの和食レストランを予約することにした。

 お見合いや会食などにも使われることがあるような老舗ホテル内のレストランの個室は、下見に訪れて話を聞くだけでもかなり緊張してしまう。大きな一級河川が見渡せるように建てられたリバーサイドホテルは、客室は勿論だがレストランやバーからも緩やかに流れる川が一望できた。当然、ホテル側は慣れたもので、両家の顔合わせと伝えるだけで料理のコースから何まで手際よく説明してくれた。
 思っていた以上に本格的になりそうで、こんな勢い任せでいいんだろうかと少しだけ戸惑う。こうなったらもう、父を安心させる為というよりは母の気を楽にする為になってきているが、有希が今できることは他には思いつかなかった。

 両家の顔合わせの当日、有希と雅人はそれぞれの親を車に乗せてホテルで待ち合わせることになっていた。
 その日、緊張からか父はとても無口だった。約束の時刻に間に合うよう支度を終えた有希達が先に乗車して待っていても、いつまで経っても父が出て来ない。心配した母が車を降りて様子を見に行く。

「お父さん、何やってるの?」
「電話の転送が、出来ないんや」

 これまで何度も繰り返してきたはずの固定電話の転送設定が上手くいかないと、電話機の前で父は困惑していた。設定自体はそこまで難しいはずはなく、操作手順はメモ書きして電話機の傍にも貼ってあったし、いつもやっているから当たり前に覚えているはずだった。それが、何度試してもなぜか出来ない。

 焦って同じ操作を何度もやり直している父のことを、母は苛立った声で急かし、ようやく設定を終えて出て来た父は無言で後部座席に乗り込んだ。乗り物酔いしやすい母が助手席に座ったのを確認すると、有希はホテルへ向けて車を走らせた。