広瀬家の猫達は一番若いナッチでさえも13歳という高齢だった。人間で言えば余裕で還暦を越している歳だ。その母親であるピッチは14歳、祖母のクロは15歳だったので、年齢的にはどの子がいつ体調を崩してもおかしくはなかった。
先日に急激な血圧の低下で入院していたクロに代わって、次に調子が悪くなったのはピッチだった。少し筋肉質で穏やかな性格のピッチは、来客があればとりあえず顔を出してくるような人懐っこい子だ。
そのピッチがいつものようにカリカリを食べながら、やたらと口を気にして前脚で掻く仕草をしていることに有希が気付く。まるで歯茎に挟まった小骨でも取ろうとしているかのように、顔を顰めて口元を引っ掻いていた。
「ピーちゃん?」
抱き抱えて顔を近付けてみる。ヨダレを垂らし、有希が口を触ろうとすると爪を立てて嫌がって逃げようとしていた。すぐにキャリーに入れて動物病院へ連れて行くと、背の低い小太りな獣医からは歯周病と診断された。
手元のカルテを確認しながら、青色の手術着を着た獣医は淡々と説明する。
「傷んだ歯を抜いて、残った歯のクリーニングをするのに、全身麻酔が必要になりますね」
高齢なので身体への負担も大きいと言うことで、一旦は抗生剤を飲んで様子を見ることになった。いつものカリカリに混ぜて飲ませていたら、しばらくの間は症状が治まったかと思われたが、すぐにまた口を痛がり出しヨダレが止まらなくなった。
ご飯を食べる度に痛がっている様子はとても可哀そうで見ていられないし、ヨダレの匂いも日増しにきつくなっていた。世話好きなピッチなので他の二匹の毛繕いを請け負っていることも多く、あっと言う間に家中の猫全てからピッチのツンとした口臭が漂うようになってしまった。
さすがにもう放ってはおけない。
動物病院の受付で手術に関するたくさんの同意書にサインをしながら、有希は不安を隠せなかった。手術なんて1歳の時に受けさせた避妊手術以来なのだ。もしピッチが麻酔に耐えられなかったらと思うと、辛くて仕方がない。今はまだ家族の誰も欠けて欲しくはないし、そんな状況を受け止められる自信もない。
三匹の中でも一番よく有希の部屋を出入りすることがあるピッチは、少し間抜けだけどとても優しい穏やかな性格の子だった。
「頑張ってね、ピーちゃん」
「ナァー」
診察台の上にちょこんとお利口に座っている猫の頭を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らしながら返事をする。慣れない病院でも落ち着いている様は、あまり猫らしくはない。怖がってキャリーから出ようとしない他の二匹とは違い、ピッチはいつもされるがままだ。診察台の上に乗せられたら、そこでいつまでも大人しく座って待っている。
猫を預けて家に戻った有希は、翌日の午後に動物病院から手術が無事に終わった連絡を受けると、すぐにピッチの面会に訪れた。
「そこにおられますので」
「あ、ありがとうございます」
面会用に開けて貰った診察室の中を有希はキョロキョロと見回した。普段は犬の診察に使われている部屋は猫用のそれとは違って広い。その壁際に置かれた大きめのケージの中で、ピッチはいつも通りの掠れた声で有希のことを呼んでいた。
「ピーちゃん!」
「ナァー」
ケージの柵に擦り寄りながらゴロゴロと喉を鳴らして、ピッチは有希の面会を喜んでいるようだった。ケージの隙から指を入れると、それをクンクンと匂いを嗅いだ後、必死で顔を擦り寄せる。面会が終わるまで、ピッチはずっと同じ調子で有希に擦り寄ってアピールし続けた。
それは傍から見ても大袈裟過ぎるくらいの歓迎っぷりで、後ろで見ていた看護師が「すごい……」と驚きの声を漏らしていた。喜び方が猫よりも犬に近い。
そのあまりの必死な様子に、よっぽど家に帰りたいのかとピッチのことがとても可哀そうになって、有希は後ろ髪が引かれる思いで面会を終えた。
翌日には退院できるようになった猫を迎えに動物病院へ行くと、普段通りの猫用の診察室へと通される。少しばかり待っていると、白黒の鉢割れ猫を抱っこした看護師が入ってきた。
「すごくお利口だったから、帰られるのは寂しいです」
言いながらも、若い看護師はいつまで経っても猫を離そうとしない。抱きながら猫背を撫でて、名残惜しそうにしている。あはは、と乾いた笑いを返しながら、有希は呆れた。
――いや、入院費が安くはないので帰してもらわないと……。ピーちゃん、一体、病院で何やってたのよ?
結局、術後の説明にと獣医が現れるまで、その看護師はピッチをずっと抱き続けていた。退院して欲しくないというのはどうやら本音みたいだ。相当気に入って貰えたみたいなので、きっとピッチも入院中に寂しい思いをしないで済んだのかもしれない。
ケージの隅で微動だにしなかったクロの娘とは思えないほど、病院中で愛想を振りまいていたらしいピッチ。それでもやはり、診察台に乗せられると有希に向かって抱っこをせがんで後ろ足で立って登ろうとしてくる。ちゃんと家族は別物だと思って甘えてくれていることに安心した。
歯周病で傷んだ奥歯2本を抜歯して貰ったみたいだが、カリカリくらいはこれまで通りに食べられると説明を受けてホッとする。三匹いる内の一匹の食事だけを変えるとなると、食事場所を分けたりしなきゃいけないし結構大変なのだ。
家に帰ると真っ先にトイレに直行したところだけは、さすがにクロの娘だと感じた。病院のトイレとは何が違うのだろうか?
先日に急激な血圧の低下で入院していたクロに代わって、次に調子が悪くなったのはピッチだった。少し筋肉質で穏やかな性格のピッチは、来客があればとりあえず顔を出してくるような人懐っこい子だ。
そのピッチがいつものようにカリカリを食べながら、やたらと口を気にして前脚で掻く仕草をしていることに有希が気付く。まるで歯茎に挟まった小骨でも取ろうとしているかのように、顔を顰めて口元を引っ掻いていた。
「ピーちゃん?」
抱き抱えて顔を近付けてみる。ヨダレを垂らし、有希が口を触ろうとすると爪を立てて嫌がって逃げようとしていた。すぐにキャリーに入れて動物病院へ連れて行くと、背の低い小太りな獣医からは歯周病と診断された。
手元のカルテを確認しながら、青色の手術着を着た獣医は淡々と説明する。
「傷んだ歯を抜いて、残った歯のクリーニングをするのに、全身麻酔が必要になりますね」
高齢なので身体への負担も大きいと言うことで、一旦は抗生剤を飲んで様子を見ることになった。いつものカリカリに混ぜて飲ませていたら、しばらくの間は症状が治まったかと思われたが、すぐにまた口を痛がり出しヨダレが止まらなくなった。
ご飯を食べる度に痛がっている様子はとても可哀そうで見ていられないし、ヨダレの匂いも日増しにきつくなっていた。世話好きなピッチなので他の二匹の毛繕いを請け負っていることも多く、あっと言う間に家中の猫全てからピッチのツンとした口臭が漂うようになってしまった。
さすがにもう放ってはおけない。
動物病院の受付で手術に関するたくさんの同意書にサインをしながら、有希は不安を隠せなかった。手術なんて1歳の時に受けさせた避妊手術以来なのだ。もしピッチが麻酔に耐えられなかったらと思うと、辛くて仕方がない。今はまだ家族の誰も欠けて欲しくはないし、そんな状況を受け止められる自信もない。
三匹の中でも一番よく有希の部屋を出入りすることがあるピッチは、少し間抜けだけどとても優しい穏やかな性格の子だった。
「頑張ってね、ピーちゃん」
「ナァー」
診察台の上にちょこんとお利口に座っている猫の頭を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らしながら返事をする。慣れない病院でも落ち着いている様は、あまり猫らしくはない。怖がってキャリーから出ようとしない他の二匹とは違い、ピッチはいつもされるがままだ。診察台の上に乗せられたら、そこでいつまでも大人しく座って待っている。
猫を預けて家に戻った有希は、翌日の午後に動物病院から手術が無事に終わった連絡を受けると、すぐにピッチの面会に訪れた。
「そこにおられますので」
「あ、ありがとうございます」
面会用に開けて貰った診察室の中を有希はキョロキョロと見回した。普段は犬の診察に使われている部屋は猫用のそれとは違って広い。その壁際に置かれた大きめのケージの中で、ピッチはいつも通りの掠れた声で有希のことを呼んでいた。
「ピーちゃん!」
「ナァー」
ケージの柵に擦り寄りながらゴロゴロと喉を鳴らして、ピッチは有希の面会を喜んでいるようだった。ケージの隙から指を入れると、それをクンクンと匂いを嗅いだ後、必死で顔を擦り寄せる。面会が終わるまで、ピッチはずっと同じ調子で有希に擦り寄ってアピールし続けた。
それは傍から見ても大袈裟過ぎるくらいの歓迎っぷりで、後ろで見ていた看護師が「すごい……」と驚きの声を漏らしていた。喜び方が猫よりも犬に近い。
そのあまりの必死な様子に、よっぽど家に帰りたいのかとピッチのことがとても可哀そうになって、有希は後ろ髪が引かれる思いで面会を終えた。
翌日には退院できるようになった猫を迎えに動物病院へ行くと、普段通りの猫用の診察室へと通される。少しばかり待っていると、白黒の鉢割れ猫を抱っこした看護師が入ってきた。
「すごくお利口だったから、帰られるのは寂しいです」
言いながらも、若い看護師はいつまで経っても猫を離そうとしない。抱きながら猫背を撫でて、名残惜しそうにしている。あはは、と乾いた笑いを返しながら、有希は呆れた。
――いや、入院費が安くはないので帰してもらわないと……。ピーちゃん、一体、病院で何やってたのよ?
結局、術後の説明にと獣医が現れるまで、その看護師はピッチをずっと抱き続けていた。退院して欲しくないというのはどうやら本音みたいだ。相当気に入って貰えたみたいなので、きっとピッチも入院中に寂しい思いをしないで済んだのかもしれない。
ケージの隅で微動だにしなかったクロの娘とは思えないほど、病院中で愛想を振りまいていたらしいピッチ。それでもやはり、診察台に乗せられると有希に向かって抱っこをせがんで後ろ足で立って登ろうとしてくる。ちゃんと家族は別物だと思って甘えてくれていることに安心した。
歯周病で傷んだ奥歯2本を抜歯して貰ったみたいだが、カリカリくらいはこれまで通りに食べられると説明を受けてホッとする。三匹いる内の一匹の食事だけを変えるとなると、食事場所を分けたりしなきゃいけないし結構大変なのだ。
家に帰ると真っ先にトイレに直行したところだけは、さすがにクロの娘だと感じた。病院のトイレとは何が違うのだろうか?