リビングにまたコタツが設置される季節になると、父は一日の大半を猫達と一緒にコタツへ潜り込んでいるか、ぼーっとテレビを見て過ごすようになった。たまに貴美子から相談を持ち掛けられることがある以外、仕事は妻と従業員に完全に任せきりになっていた。
「本屋に連れてってくれ」
「え、本屋? どうして?」
日が落ちる少し前、キッチンで夕食の準備をしていた妻へ信一が書店へ連れて行くよう願った。一度目のガンマナイフ治療後は近場くらいは自分で運転するようになっていたが、再び体調が悪くなってからは医師の注意もあって車の運転はしなくなっていた。
「家庭の医学みたいな、病気のことを調べられる本が買いたいんや」
家にある物は古過ぎるから、新しい本が欲しいと言う。確かに結婚当初に購入した昭和に刊行された本だと、自分が受けたガンマナイフ治療についての記述はないだろう。
「あ、うん……また後でね」
上手に誤魔化すことができない母は、父の要望を先延ばしにすることしか出来ないようだった。そういう非協力的な態度が父には気に食わなかったらしく、体調が悪化していくにつれ、信一が貴美子に強く当たることが度々出てきた。
「お前らには俺の気持ちは分からんよな……」
身体の不調を誰にも分かって貰えない辛さを、父は猫にだけは打ち明けていた。キッチンでも聞こえた夫の密かな愚痴を、母は黙って聞きながら涙を堪えていた。
母に連れられて向かった書店で2冊の本を購入してきた父だったが、自分の病状に合う病名を見つけることが出来なかったのか、それらはすぐにコタツの天板に積み重ねられるだけの存在になっていた。
本当の病名が癌だと気付かれてしまったらと焦っていた家族も、雑に扱われた本達にホッと胸を撫でた。
そんな父の体調を気にしつつも、有希は隣の市にある雅人のマンションで週末を一緒に過ごしていた。娘である有希や由依には彼氏や夫といった支えてくれる人が傍に居て、実家以外の居場所もある。けれど、母である貴美子はどうだろうか。夫の身体のことは実家にいる兄にすら知らせてはいない。
――お母さんは妻だから、どこにも逃げ場が無いんだ……。
まだ未婚の有希には、長年連れ添った配偶者が死に直面しているという状況は理解し難い。そして、夫の死に関わる全てを自分が主体となって決断し、対応していかなければならないというプレッシャーは想像できない。
――残されてしまうお母さんが、悔いのないように。
娘の有希に出来ることは、母が納得して父を見送れるように支えることしかない。余命3か月と言われた父の傍で奇跡的に過ごせた9ヶ月。親の死を受け入れる覚悟が出来たとはまだ言えそうもない。けれど、初めて告知を受けた時よりは少しだけ強くなった自信はある。
告知された際に木下医師は言っていた。「癌は家族にお別れする時間を与えてくれる病気です」と。まさにその通りだと思った。突然の事故や急死などではこうはいかなかっただろう。残される者が後悔しないように準備する期間が貰える、とても親切な病なのかもしれない。
雅人と並んでソファーに腰掛けてテレビのバラエティー番組を見ていた時、有希のスマホが実家からの着信を知らせた。
「もしもし?」
「あ、有希? クロちゃんがぐったりしてるのよ……ご飯も食べないし、起き上がりもしないし」
父が急変したのかと焦って電話に出てみると、オロオロした母の声。一番年長の猫の様子がおかしいと、家族の中で率先して猫の面倒をみている有希に報告してきた。
「病院は?」
「まだ……」
「急いで病院に連れていって! 今クロが死んだら、お父さんがさらに落ち込んでしまうから!」
父が一番可愛がっているクロが居なくなったら、間違いなく父は今以上に悲観的になってしまうだろう。かかりつけの動物病院の場所を説明すると、母は急いで行ってくると電話を切った。
落ち着かないまま母からの連絡を待つ有希の元に実家から着信があったのは、それから1時間も経たない内だった。
「クロちゃん、入院しました。血圧が下がってたみたいで、点滴して貰ってたわ」
二、三日の入院で済みそうだと聞いて、有希は胸を撫で下ろした。急患ということで待たずに診察して貰えたらしい。いつでもお見舞いに来てあげて下さいと病院から言われたと聞き、帰ったらすぐ顔を見に行くことにする。
可愛がっていた近所の猫が留守がちの自宅ではなく、有希の家で子猫を出産したのは15年前。一緒に生まれた2匹の雄は貰い手が見つかったが、雌のクロだけが残ってしまった。そしてそのまま広瀬の飼い猫になったのが始まりだ。
白黒で少し黒色の方が多いというだけで安直にクロと名付けたのは父だった。他の子達よりも甘え上手なクロは父の一番のお気に入りだった。だからか、父が気弱な愚痴を聞いて貰っていたのはいつもクロだったように思う。
今、クロという心の支えが無くなってしまったら、父がどうなるかは分からない。
「クロ……」
翌朝、仕事に行く雅人を見送ってからマンションを出た有希は寄り道もせずに動物病院へと向かった。
50センチ四方のケージの中で丸くなっていた白黒の猫は、名前を呼ばれてもピクリとも動かない。まるで有希の声など届いていないかのようだった。
「血圧は安定してるんですが、ご飯を全く食べようとしないんですよね」
高齢で腎機能が弱くなっている子向けのカリカリを用意して貰っているらしいが、嫌がって口にしないと看護師が嘆く。
他の2匹に比べるとクロは食べ物へのこだわりが強い。ピッチとナッチなら興奮してアムアムと喋りながら貪り食う猫缶も、匂いを嗅ぐだけでフイと顔を背けてしまう。
何種類かのご飯を出して試してみますと苦笑する看護師に、よろしくお願いしますと頭を下げてから、有希はケージの入口から腕を入れてクロの背を撫でてやる。体調が悪くて毛繕いもままならなかったのだろう、白黒の毛はパサついていた。
「本屋に連れてってくれ」
「え、本屋? どうして?」
日が落ちる少し前、キッチンで夕食の準備をしていた妻へ信一が書店へ連れて行くよう願った。一度目のガンマナイフ治療後は近場くらいは自分で運転するようになっていたが、再び体調が悪くなってからは医師の注意もあって車の運転はしなくなっていた。
「家庭の医学みたいな、病気のことを調べられる本が買いたいんや」
家にある物は古過ぎるから、新しい本が欲しいと言う。確かに結婚当初に購入した昭和に刊行された本だと、自分が受けたガンマナイフ治療についての記述はないだろう。
「あ、うん……また後でね」
上手に誤魔化すことができない母は、父の要望を先延ばしにすることしか出来ないようだった。そういう非協力的な態度が父には気に食わなかったらしく、体調が悪化していくにつれ、信一が貴美子に強く当たることが度々出てきた。
「お前らには俺の気持ちは分からんよな……」
身体の不調を誰にも分かって貰えない辛さを、父は猫にだけは打ち明けていた。キッチンでも聞こえた夫の密かな愚痴を、母は黙って聞きながら涙を堪えていた。
母に連れられて向かった書店で2冊の本を購入してきた父だったが、自分の病状に合う病名を見つけることが出来なかったのか、それらはすぐにコタツの天板に積み重ねられるだけの存在になっていた。
本当の病名が癌だと気付かれてしまったらと焦っていた家族も、雑に扱われた本達にホッと胸を撫でた。
そんな父の体調を気にしつつも、有希は隣の市にある雅人のマンションで週末を一緒に過ごしていた。娘である有希や由依には彼氏や夫といった支えてくれる人が傍に居て、実家以外の居場所もある。けれど、母である貴美子はどうだろうか。夫の身体のことは実家にいる兄にすら知らせてはいない。
――お母さんは妻だから、どこにも逃げ場が無いんだ……。
まだ未婚の有希には、長年連れ添った配偶者が死に直面しているという状況は理解し難い。そして、夫の死に関わる全てを自分が主体となって決断し、対応していかなければならないというプレッシャーは想像できない。
――残されてしまうお母さんが、悔いのないように。
娘の有希に出来ることは、母が納得して父を見送れるように支えることしかない。余命3か月と言われた父の傍で奇跡的に過ごせた9ヶ月。親の死を受け入れる覚悟が出来たとはまだ言えそうもない。けれど、初めて告知を受けた時よりは少しだけ強くなった自信はある。
告知された際に木下医師は言っていた。「癌は家族にお別れする時間を与えてくれる病気です」と。まさにその通りだと思った。突然の事故や急死などではこうはいかなかっただろう。残される者が後悔しないように準備する期間が貰える、とても親切な病なのかもしれない。
雅人と並んでソファーに腰掛けてテレビのバラエティー番組を見ていた時、有希のスマホが実家からの着信を知らせた。
「もしもし?」
「あ、有希? クロちゃんがぐったりしてるのよ……ご飯も食べないし、起き上がりもしないし」
父が急変したのかと焦って電話に出てみると、オロオロした母の声。一番年長の猫の様子がおかしいと、家族の中で率先して猫の面倒をみている有希に報告してきた。
「病院は?」
「まだ……」
「急いで病院に連れていって! 今クロが死んだら、お父さんがさらに落ち込んでしまうから!」
父が一番可愛がっているクロが居なくなったら、間違いなく父は今以上に悲観的になってしまうだろう。かかりつけの動物病院の場所を説明すると、母は急いで行ってくると電話を切った。
落ち着かないまま母からの連絡を待つ有希の元に実家から着信があったのは、それから1時間も経たない内だった。
「クロちゃん、入院しました。血圧が下がってたみたいで、点滴して貰ってたわ」
二、三日の入院で済みそうだと聞いて、有希は胸を撫で下ろした。急患ということで待たずに診察して貰えたらしい。いつでもお見舞いに来てあげて下さいと病院から言われたと聞き、帰ったらすぐ顔を見に行くことにする。
可愛がっていた近所の猫が留守がちの自宅ではなく、有希の家で子猫を出産したのは15年前。一緒に生まれた2匹の雄は貰い手が見つかったが、雌のクロだけが残ってしまった。そしてそのまま広瀬の飼い猫になったのが始まりだ。
白黒で少し黒色の方が多いというだけで安直にクロと名付けたのは父だった。他の子達よりも甘え上手なクロは父の一番のお気に入りだった。だからか、父が気弱な愚痴を聞いて貰っていたのはいつもクロだったように思う。
今、クロという心の支えが無くなってしまったら、父がどうなるかは分からない。
「クロ……」
翌朝、仕事に行く雅人を見送ってからマンションを出た有希は寄り道もせずに動物病院へと向かった。
50センチ四方のケージの中で丸くなっていた白黒の猫は、名前を呼ばれてもピクリとも動かない。まるで有希の声など届いていないかのようだった。
「血圧は安定してるんですが、ご飯を全く食べようとしないんですよね」
高齢で腎機能が弱くなっている子向けのカリカリを用意して貰っているらしいが、嫌がって口にしないと看護師が嘆く。
他の2匹に比べるとクロは食べ物へのこだわりが強い。ピッチとナッチなら興奮してアムアムと喋りながら貪り食う猫缶も、匂いを嗅ぐだけでフイと顔を背けてしまう。
何種類かのご飯を出して試してみますと苦笑する看護師に、よろしくお願いしますと頭を下げてから、有希はケージの入口から腕を入れてクロの背を撫でてやる。体調が悪くて毛繕いもままならなかったのだろう、白黒の毛はパサついていた。