タミオスなりの気遣いなのかなんなのか、フィアナとナシオンは仲良く休暇となった。
 カリノの件もあり、連日、司令室に詰めていたのは事実。その前だって、別の案件の諜報活動をしていたため、休暇らしい休暇は十日ぶりだ。
 その二人は、大聖堂近くの川沿いを歩いていた。
「一応、第一のやつらが片づけはしていったようだな」
 聖女がここで殺されて五日が経とうとしていた。捜査の残滓など微塵も感じられない。
 それに、ここには誰もいない。
 犯人もわかっているし、必要最小限の確認さえ終われば、自分たちの役目は終わったとでも、彼らは思っているにちがいない。
 まだ真実の欠片すら掴みきれていないというのに。
「カリノさんの話では、こちらで聖女様を殺害したということですが……」
 川の近くは岩場になっていて、足場がいいとは言えない。
「こんな場所で聖女と追いかけっこでもしたのかね、あの王太子は」
 ナシオンの言葉からは、王太子に対する敬愛など微塵も感じられない。
「そうですね。仮にアルテール王太子殿下が、聖女様を殺害するために追いかけたというのであれば、お互いに走りにくい場所ではありますね」
 岩がごろごろ転がっているのだ。歩くだけでも、下手をすれば転ぶ。
「ですが、聖女様にはそういった抵抗したときにできるような傷がなかったと記憶しております」
 ラクリーアの遺体は、表面上はきれいだった。肌にひっかき傷や切り傷など、そういったものはなかった。ただ、内臓をめちゃくちゃに切り刻まれていただけで四肢の表面に擦り傷などはなかった。
「まあ、カリノちゃんの話によれば、あっちで聖女をやってしまったわけだな」
 川の近くは岩場だが、そこから少し離れると草が生えている茂みとなる。その一部分に土が剥き出しとなっている場所があった。
「雨が降ってしまいましたからね。血痕は流されていますよね」
 岩場から茂みに移動する。
「人が通ったようなあとは……まぁ、第一の人たちが捜査に入りましたからね」
 ところどころ草が倒れていた。
「場所的には、この辺でしょうか」
 流されたと思った血液だが、土に黒くにじんでいた。
「やっぱり、フィアナの言うとおりかもしれないな」
「何がですか?」
 見上げると、ナシオンの後ろの太陽が目に入り、おもわず目を細くする。
「なんだ、その顔」
 笑いながらも、彼は影を作ってくれた。
「まぶしかったもので、つい。今日は天気がよいですからね。こうやって外を歩き回る分にはいいのですが」
「そうそう、今日はデート日和というやつだ。だけど、夜はどうだ? ここは建物からも離れているし、人がいるほうからこちら側を見ても、気づかれないだろう? ある意味、夜は誰にも知られずに人を殺すには適している場所だ」
「カリノさんがここで聖女様を殺した。そのあと、首を切断して斧は川へ投げ込んだ。戻ってきて、首だけ持って、東分所へと向かう……」
「カリノちゃんが東分所へとやってきたのは、周囲が明るくなるような時間帯だろ? てことは、切断したときはまだ暗かった可能性がある。死亡推定時刻から考えても、そうだろうとは思うのだが。まあ、その暗闇の中、足場の悪い岩場を歩いて、斧を川に投げ捨てる。できなくはないが、なんか不自然なんだよな。殺害した凶器は隠したくせに、なんで斧だけはわざわざすぐに見つかるような川へ投げ込んだ? この川の流れの勢いなら下流まで流されないことくらい、わかるよな?」
 ナシオンがそう言葉にするくらい、川の流れは穏やかだった。きらきらと太陽の光を反射させ、表面は波打つ程度。
「まぁ、雨が降ったりして川が増水すれば別だが。さすがに、あの子に天気を操るような力はないだろう? まして、そんな魔石も聞いたことがない」
「ですが、聖女様の神聖力ならどうでしょう?」
「ん?」
 フィアナの声に、ナシオンが右目だけひくっと動かした。
「聖女様の神聖力であれば、天気を自由に操れるかとか、そういったことはできないのでしょうか?」
「それを俺に聞くか? 俺も知らん。だけど、聖女は殺されているだろう?」
「あっ」
 聖女の力を当てにしすぎていた。
「それよりも、だ。カリノちゃんが言っていた短剣を探そう。ほんと、タミオスのおっさんも素直じゃないというか、ひねくれているというか」
 ナシオンの言うこともわかるが、タミオスの立場を考えれば仕方ないことなのだろう。
 フィアナの暴走によって、情報部に所属する彼らに迷惑をかけてはならない。
「立場かわればってことですよ。ところで、ここから王城の方角は、あちらであっていますよね?」
 フィアナが指で示した方角には、真っ白い尖塔が見える。
「あっちが大聖堂で、こっちが王城だな」
「では、ここからあちらに向かって歩けば、隠されている何かがあるということですね」
 カリノの話を信じれば、ここから王城へと向かう間に何かを隠したようだ。
「草、生えてるな」
 ナシオンの言葉のとおり、フィアナの腹部にまで届くような草がもさもさと生えていた。
「ものを隠すにはもってこいですね。この様子では、第一ではここまで調べてはいないようですね」
 草はしっかりと生えている。むしられた様子も、狩られた様子もない。
「ま、草が生えているからな」
 よっぽど草の中を歩きたくないのだろう。ナシオンからは、そういった不満な様子が伝わってきた。
 ぶつぶつと「草、生えてる。草、生えてる」と文句ばかり言っている。
 草を歩きやすいようにと根元から倒すようにして歩く。その後ろをナシオンがついてくるのだから、彼が歩くときにはさほど草も邪魔にはならないと思うのだが。
 それでもフィアナが先頭を歩いていてよかった。以前、誰かがここを通ったような、そんな草の倒れ方をしている場所が何カ所かあったのだ。相手もかなり気をつけて歩いたのだろう。意識しないとわからなかった。
「あ、ナシオンさん。あそこ……」
 明らかに土を掘り返したような、不自然な場所があった。
「おっ」
 ナシオンも察したようだ。
「現場からここまでけっこう距離があるな。あいつらじゃ、ここまで見ないよな」
 あいつらとは、もちろん第一騎士団の面々だ。犯人がわかっているから、形だけ捜査したようなものだろう。関係者からの話を聞くのだって、形式だけのもの。その形式的な話すら、聞けていないところはあるが。
「掘ってみます?」
 いつの間にかフィアナは、園芸用の移植ごてを手にしていた。今日は休暇ということもあり、帯剣は許されていない。そのかわり腰にぶら下げてきたのが小さなこてであった。
「か弱いレディに掘らせるのは、心が痛むな」
 その場にしゃがみ込んだナシオンが、フィアナから小さな移植ごてを受け取り、不自然に盛られている土を掘り起こす。
「子どもの土遊びみたいになってきた」
 童心に返るとでも言いたいのだろうか。ナシオンは、せっせと土を掘り起こしていた。
 ――カツン。
 こての先端が固いものに当たった。
「そういや、俺。宝探しが得意な子だった」
「そうですか、ここでもその能力を発揮してくださったようで。ありがたいですね」
 そこからは革手袋をした手で、ナシオンがゆっくりと土を掘る。
「フィアナ……やっぱり俺って天才かもしれない……」
 そう言った彼の手には、柄と鞘が金色の短剣が握られていた。柄の部分には赤色の宝玉が埋め込まれ、鞘には赤色で紋章が描かれている。
 土に汚れていなければ、太陽の光を受けて、まばゆく輝いていただろう。
「どうするんだ? これ……血痕だよな?」
「そうですね。土で汚れてはいますが、血痕ですね。おそらく、聖女様のものでしょう。詳しくは調べる必要がありますね」
「つまり、これが聖女を殺した凶器?」
「そうなるかと思います。少なくとも、斧は首切断にしか使われておりませんから」
 信じられない、とでも言うかのようにナシオンは顔を横に振る。
「仮にだ。これが凶器だとしたら、致命傷はなんだ?」
「腹部を刺されたか、頸動脈を切られたか、もしくは……」
 消えた左手も気になっている。あそこだって、切られた場所が悪ければ失血死に至る。
「詳しくは、調べてもらわないとわからないですが……」
 そこでフィアナも言い淀む。とにかく、聖女の遺体はきれいとは言えなかった。
「とにかく、これが王太子の短剣っていうのが問題だよな?」
 ナシオンの言うとおりだ。凶器が王太子アルテールの短剣。これを第一騎士団に手渡したところで、もみ消されるような気がした。
「……では、見なかったことにしましょうか」
「はぁ? わざわざ休暇にこんな草のところにまでやってきて?」
 ナシオンは草むらが嫌いなのだろうか。やけに草にこだわっている。
「ええ。ですから、こちらは第一騎士団には渡しません。これは、ここぞというときに使います」
「証拠物の隠蔽」
「お互いさまでは?」
 王国騎士団なんて、そもそも王族や貴族たちの子飼いだ。力ある貴族に睨まれれば、黒だって白になるくらいなのだから。
 その中でも異端児がフィアナだろう。入団してすぐ隣国グラントとの戦争。あれによって、フィアナの心にどこかがぽっかりと穴が空いた。その隙間を埋めるかのように生まれたのが、騎士団や王族に対する不信感。
 民のために存在する騎士団は、結局は国のために存在する。
 民を守るためではなく国、すなわち王族と貴族を守るための存在。
 いくら彼らが罪を犯そうと、権力と金によってその事実はねじ伏せられる。
 それを間近で見てきたのだ。特に「情報」を扱う部署にいるからなおのこと。
 他の者と同じように、見て見ぬふりをすればよかった。いや、実際にはそうしてきた。
 だけど、そのたびに心の奥にはやるせない気持ちが込み上げてくるのだ。
「ナシオンさん。私を見捨てるなら今のうちです。私は、彼らの汚い部分をすべて、さらけ出そうと思っています」
「そんなことをしたら、君はこの国にいられなくなるぞ?」
「かまいません」
 ナシオンは「いてててててて……」と言いながら立ち上がり、「うぅっ」と腰を押さえて状態を後ろに反らした。
「ずっと座っていたから腰にきたわ」
 フィアナも、ふと、笑みをこぼす。
「しゃあないな。俺は君とコンビだからな。とことん付き合ってやるよ」
「え?」
 驚いたフィアナも立ち上がろうとしてみたものの、急な動きに身体がついていかず、くらりと目の前が暗くなる。
 気づけばナシオンの腕の中にいた。
「あ、ありがとうございます」
「だから。こういうところが目が離せないんだよ」
 ナシオンが、右手の人差し指でピンと額を弾いてきた。
「痛いです」
「そりゃそうだ。それなりに力をいれたからな。あ、赤くなってる。悪い」
 謝罪の言葉を口にした彼は、フィアナの額に唇を落とした。
 目的のものを探し終えた二人は、川辺へと戻り、大きな石の上に並んで腰をおろす。目の前の川は、太陽の光を反射させながら、ちろちろと穏やかに流れていた。
 二人の間にはバスケットがあるものの、並んでいるサンドイッチの数はだいぶ減っていた。
「だから、デート日和だって言っただろ?」
 ナシオンの手の中には、鶏肉を挟んだサンドイッチがある。
「そうですね」
 返事をしたフィアナは、ハムとチーズのサンドイッチをパクリと食べた。
「ナシオンさんって。紅茶を淹れるのはへたくそですけど、料理はまともなんですね」
 フィアナがそろそろ「お腹が空いたから帰りましょう」と言い出したところ、ナシオンが背負っていた荷物からいきなりバスケットを取り出したのだ。 
 そしてこうやって二人でサンドイッチを食べているわけだが。
「惚れ直した?」
「惚れ直すも何も。最初から惚れておりませんので」
 むすっと最後の一口を口の中に押し込めたフィアナは、両手を合わせて「ごちそうさま」と言う。
「休暇らしいことをしておこうという俺の心遣いだっつうの。休暇中に、二人で証拠を探してましたっていうよりは、デートをしてましたのほうがいいだろ?」
「そうですね。そのほうが偽装にはなりますね。ですが、何も殺人現場でデートなんてしなくても……」
「大丈夫だ。聖女が殺された事実は公表されていない。ここで殺人事件が起こっただなんて誰も知らない」
 このような場所に足を運ぶ者もいないのだろう。騎士団がうろうろしていても、気にならないくらいに。
 それがいいのか悪いのかわからないが、結局、まともな目撃証言だって得られなかったのだ。
「今日で五日目ですよね。カリノさんが自首してきてから」
「そうなるか? てことは折り返しか?」
 騎士団で預かるのは十日が限度。あとは王城へと移送される。
「だが、あの子の場合は十日も待たずして移送されそうだな。あいつらも相当焦っているようだからな」
 犯人が明らかなのになぜすぐに裁判をしないんだ、という意見も騎士団内部ではちらほらとあがってきているらしい。さらに、その意見に国王も同意し始めてるというのであれば、何かしらの意図があるのだろうとやはり勘ぐってしまうのだが。
「裁判になったら、私たちが証言できるように根回しをしましょう」
「根回し? 誰に?」
「カリノさんは大聖堂側の人間です。温情を訴えるのであれば、大聖堂の人間が出てきますよね」
 この国の司法権は貴族が持っている。立法権は国王のみで、行政権は貴族と国王。
 大聖堂はそれらとは独立した組織であるため、国の法律によって裁かれる者に対して手出しはできない。しかし、その対象が大聖堂側の人間であれば、司法の場で証言をすることは可能だ。
「フィアナ……もしかして……」
 フィアナはバスケットをのぞきこむと、残っていたサンドイッチに手を伸ばす。先ほど「ごちそうさま」と言ったことなどおかまいなしだ。
「最後の一つ、いただきますね」
 最後のサンドイッチはハムとチーズだった。

 フィアナが聖騎士のイアンに会いに行くと言うと、ナシオンもついてくると言葉にする。
 もしかして彼は、フィアナの保護者気取りなのだろうかと、そんなふうに考えてしまう。
 数日の間に何度も大盛堂を訪れれば、門番もなんとなく察するところがあるようで「この時間でしたら、イアン様は執務室におります」とのこと。
 聖騎士の中でも上位に属する彼は、そうやって執務用の部屋を与えられているようだ。
 門番が呼んだ巫女に案内され、執務室へと向かった。
 聖女が不在だというのに、大聖堂は比較的落ち着いていた。そういえば、フィアナが話を聞いた巫女たちも、取り乱すことなく対応していた。今だってそうだ。
 あのような事実があれば恐怖で震えたっておかしくはないだろうに。
 大聖堂では、気持ちの制御方法まで教えてくれるのだろうか。
「イアン様。お客様をお連れしました」
 黒檀の執務席で山のような書類に囲まれていたイアンが顔をあげた。
「客人はあなたでしたから」
 ナシオンと二人でいるのに、まるで一人しかいないようなその言い方が気になるものの、フィアナはうながされた先のソファに座った。
「今日はどういったご用でしょうか?」
 イアンはベルを鳴らして巫女を呼び出すと、お茶の準備をするように言いつける。フィアナは巫女の仕事の一部を垣間見た気がした。
 巫女が部屋から出ていったところで、フィアナは口を開く。
「今日は、騎士団としてではなく、私、個人として会いにきました」
「なるほど。ですが、個人というわりには、保護者がついているのですね?」
 保護者。間違いなくナシオンのことを指している。否定も肯定もせずに、にっこりと微笑むだけにした。
 やはりイアンとナシオンの相性はよくないのだろう。
 ナシオンはイアンを睨みつけてはみたものの、反論しようとか悪態をつこうとか、そういったことはしなかった。
 フィアナも保護者が必要だと思われていることは心外であったものの、にこやかに笑みを浮かべる。
「保護者というよりは相棒ですから」
 相棒――。
 この言葉が一番しっくりくる。何か事件が起これば二人一組で動くのが鉄則の情報部のなかで、フィアナがナシオンとコンビを組んで二年。今ではそれなりに実績がある。
 だが、わざわざそこまで目の前のイアンに説明するつもりはなかった。彼にとってはどうでもいい話だろう。
「なるほど」
 片眉をぴくっと動かしたイアンは腕を組んだ。これは自然と相手を拒絶しようとする表れだ。それでもフィアナは話を切り出した。
「大聖堂側は、カリノさんの罪を認めているのですか?」
「認めるも何も。私たちは彼女から話も聞けておりませんから。そちら側のほうが、より事実に近いのではないでしょうか?」
「そうですね。ですが、第一騎士団はカリノさんからろくに話を聞きもせずに、王城へと移送しようとしています」
「そのためのあなたなのでは?」
 首を傾げる姿すら、女性のフィアナから見ても艶めかしいと感じた。イアンにはなんとも表現しがたい艶があるのだ。男とか女とか、そういった性別を超えた何かが。
「はい。私はカリノさんが犯人だとは思っておりません。ですが、それを覆すだけの証拠がないので難しいです」
「ふむ」
 そこでイアンは組んでいた腕をほどいた。何かを考えるかのように、顎に手をあてる。
「いいでしょう。そのままカリノを移送させてもらってください」
 イアンの言葉に反応を示したのはナシオンだった。
「移送されたあとは王城。つまり王族、貴族の管轄となり、俺たちは出だしができない。それでいいのか?」
「なるほど。あなたもカリノを信じている一人でしたか」
 イアンは柔和な笑みを浮かべた。
「カリノが犯人とされている以上、私たちも手出しができません。だからといって、このまま彼女の刑が確定するのを、指をくわえて見ているわけではありませんよ? 刑確定のためには、裁判がありますからね」
 そう言ったイアンは、今度はニタリと笑う。
「こちらが反論する機会は、裁判しかないと思っていたのですよ」
「はい。私もそう思います。おそらく、関係者として大聖堂から幾人かが呼ばれます。そのうちの一人として、私も仲間に入れていただけないでしょうか」
 しんとした空気が生まれる。
 イアンもフィアナからそういった提案がされるとは思ってもいなかったのだろう。むしろ、ナシオンが驚いて口をパクパクと開けていた。
「フィアナ。何を言っているのかわかってるのか? 君は騎士団の人間だ」
「わかっています。ですが、あれを有効に使える場は裁判しかありません。ナシオンさんも共犯者になってくれるんですよね?」
 フィアナが真っ直ぐに見つめると、ナシオンも同じようにじっくりと見つめ返す。互いに互いの目を見つめ、互いに視線で訴える合うものの、先に折れたのはナシオンだった。
「……わかった。君の言うとおりだ。あれを効果的に使える場所は……裁判しかない」
 ナシオンも認めてくれたことで、フィアナはほっと安堵のため息をこぼす。だが、イアンはニコニコと笑みを浮かべ「なんのことでしょう?」と口にする。
 この部屋には、ほかに誰もいないとわかっていても、フィアナはつい周囲を確認してしまった。
「安心してください。ほかには誰もおりませんから」
「あ、はい……」
 みっともないところを見せたかもしれないと少しだけ焦ったフィアナだが、これからの件について、そっと話を始める。
 イアンの表情からは笑みが消え、驚きへと変化する。さらには、大口を開けて笑い始めた。
「あなたも、なかなかすごいことを考えますね。ですが、私もその考えは嫌いじゃない。協力しましょう」
 イアンの協力、つまり大聖堂側の協力だ。それを得られたことに、フィアナは胸をなでおろした。
 馬鹿正直に騎士団に提出すれば、もみ消されてしまうかもしれない証拠。それを確実に人の目に触れさせるために、フィアナは大聖堂側と手を組むのだ。
 騎士団に所属する自分が、なぜ組織を裏切る行為に手を出そうとしているのかはわからない。
 きっと、ただ真実を知りたいだけなのだろう。
 聖女ラクリーアを殺したのは誰か。
 どうして聖女ラクリーアは殺されなければならなかったのか。
「ところで」
 イアンが話題を変える。
「聖女様のご遺体は、いつになったら返していただけるのでしょうか? 次、あなたたちが来たら確認するようにと、枢機卿たちからは言われておりましてね。ですが、今日は仕事ではないということなので、お答えしなくてけっこうです。ただ、まだ聖女様のご遺体がそちらにあることを忘れずに」
 イアンの言葉が、ぐずりと胸に深く突き刺さった。
 聖女ラクリーアの遺体を、騎士団はいつまで保管しておくつもりなのか、フィアナにはさっぱりとわからない。
 必要な話を終えたフィアナとナシオンが、イアンの執務室から立ち去ろうとすると、見送りとして巫女を一人つけられた。
 イアンは「見送れなくて申し訳ありません」とやわらかく声をかけてくれたが、彼の机の上にこんもりと山積みにされた書類を見れば、納得できるものがあった。
 ナシオンと並んで帰路につく。
 今日の目的はすべて果たした。何よりも、例の短剣を見つけたのは大きいだろう。
 早くカリノに伝えたいという気持ちすら生まれてくる。
「フィアナ」
 突然ナシオンに名を呼ばれ、フィアナはおもむろに彼を見上げる。
「あんまり突っ走るなよ」
 その言葉が、フィアナの心にずしっとのしかかった。

**~*~*~**

 カリノが他の巫女たちと一緒に洗濯物を干していると、どこか騒がしい。
「どうしたのかしら?」
 一人の巫女が言った。
 洗い立てのシーツを手にしつつも、何が起こっているのかさっぱりとわからないカリノは「さぁ?」と首を傾げる。
 洗濯ロープにすべての洗濯物を干してから、カリノも他の巫女も、騒ぎの原因が気になって声がする方向へと足を向けた。
「あっ……アルテール王太子殿下よ?」
 誰かがそう呟いたことで、王太子が大聖堂を訪れたということだけは理解した。
 エントランスの中央には、アルテールとその護衛の者たちが立っている。それを遠巻きに見ている巫女や聖騎士、もしくはその見習いの者たち。
 アルテールは誰かを待っているようだった。だが、この大聖堂にまでわざわざやって来て、会いたいと思うような人物は一人しかいないだろう。
 カツーン、カツーンと足音が響く。
「あ、聖女様」
 カリノが口にすると「しっ」とすぐに隣の巫女に制される。
「わたくしがラクリーアです。今日は、どういったご用件でしょうか」
 眩耀たる銀糸の髪を背中に流し、燃えたぎるような赤色の目はアルテールを睨みつける。
 普段のラクリーアからは考えられないほどの鋭い形相だ。
 彼女の後ろには、聖騎士が五名、ずらりと並んでいた。その真ん中にいる聖騎士が、専属護衛だと聞いたことがある。どこか中性的な顔立ちで、黒髪は後ろで一つに束ねている聖騎士だ。
 あの聖騎士よりもキアロのほうがラクリーアの側にいる騎士としてふさわしいのに、とカリノが思ってしまうのは、やはり身内のひいき目によるものかもしれない。
 聖騎士らからは、ラクリーアを守るというお思いがひしひしと漂っている。
 ラクリーアの姿を目にしたアルテールは、すっと彼女の前に進み出て、そこでおもむろに跪く。
 洗練されたその動きに、カリノも思わず目を奪われた。
 アルテールはラクリーアの左手をとった。
「聖女ラクリーア。どうか、私、アルテール・ファーデンと結婚していただけないだろうか?」
 その言葉で大聖堂内はシンと静まり返った。こそこそと話をしていた巫女たちも、一斉に口をつぐむ。
 ファーデン国の王太子アルテールが、聖女ラクリーアに求婚した。
 だが、今まで聖女が王族と結ばれた過去はない。
 すうっとラクリーアが息を吸うのが感じられた。
「お断りいたします。わたくしは大聖堂に身を置く者。あなた様と共に生きる道はございません」
 せん、せん、せん……と、ラクリーアの声は静かな室内に反響する。
 一瞬だけ驚きの表情を見せたアルテールは「なるほど」と口角をあげた。それからゆるりと立ち上がり、威圧的にラクリーアを見下ろすものの、ラクリーアに怯む様子はなかった。
「わたしの誠意が伝わらないとは残念です。今までは王族と大聖堂と別れておりましたが、昔は一つだったのではありませんか?」
 アルテールの言葉に偽りはない。
 そもそもファーデン国は、太陽神ファデルが建国した国と言われている。建国時には王族やら聖職者やらと、今ほどまで別れてはいなかったのだ。
 それが王族を支持する者は王城に、太陽神ファデルを信仰する者たちが大聖堂に集まるようになった結果、今のような関係になった。
 だが、どちらも根本には太陽神ファデルの存在がある。
「そうですね。このファーデン国は太陽神ファデルによって建国された国。太陽神ファデルのもとに、わたくしたちは一つでした。ですがそれも昔のこと。今は、わたくしたちも己の信念に則っておりますので」
「なるほど。私の想いはそう簡単には届かないということですね。また来ます」
 アルテールは優雅に腰を折る。
「次からは先触れをお願いします。わたくしたちも暇ではございませんの」
 ラクリーアの言葉に返事をせず、アルテールはぞろぞろと騎士を引き連れて大聖堂内から出ていった。
「みなさん、お騒がせして申し訳ありません」
 やっとラクリーアが笑顔を見せた。それによって止まっていた時間が緩やかに動き出すような感覚があった。
 だが、その後すぐに、王太子アルテールが聖女ラクリーアに求婚した話はけして口外しないようにと、きつく言われた。だからあの日見たことを、誰も口にしない。