『Perchoir』にたどり着いたのは、それから十分後のことだ。今日は電車に乗ったから、自宅から一駅先まですぐに到着した。
 どうしてまたこのケーキ屋に来てしまったのか、自分でも分からない。どこか、自分の気持ちを整理することができる場所に行こうと思い立って向かったのが、『Perchoir』だった。
 駅前は仕事から帰ってくるサラリーマンでごった返している。人にぶつからないように歩こうとしていても、肩や肘をたくさんぶつけてしまった。

「チッ。ちゃんと前見ろよ」

 男性から舌打ちされて、私は身体を縮める。ごめんなさい。咄嗟に謝ったけれど、無視された。
 赤いひさしの『Perchoir』の前まで早足で歩く。前回来た時のように試食の配布はされていなかった。

「あ、そっか。十九時に閉まるんだっけ……」

 お店の前で、女性店員が看板を店の中へとしまっている。
 スマホの時計を見ると、現在十八時五十二分。
 今日は中に入っても、会えそうにないな——って、私、何考えてるの? 会えそうにないって、誰と……。
 思考が思わぬ方向へと動いていることに自分で驚きつつ、今日は諦めて帰ろうとお店を背にした時だ。

「あれ、この間のお客さん?」

 後ろから振り掛けられた声に、はっと振り返る。
 パティシエの制服を着て、頭にはコック帽を被った中原さんが目の前に現れた。

「中原さん」

「あれ、俺の名前知ってるの?」

「あ、その、名札に書いてあるので」

 私は、中原さんの左胸についている名札を指さして答えた。

「ああ、これか。びっくりした! この間名乗ったかなって分かんなくなってた。今日はどうしたの?」

 中原さんが前回と同じくだけた口調でそう聞いた。

「い、いや、その……特に、ケーキを買う予定はないのですが……。私、どこにも居場所がなくて、それで……」

 ケーキ屋の店員からすれば、「ケーキを買う予定がない」などとはっきり宣言されて、「ああそうなんですね」と納得できるはずがない。用がないなら何をしに来たのかと疑問に思うところだろう。
 でも、中原さんは。
 私のとんちんかんな答えを聞いても、まったく動じる様子がなかった。それどころか、心配そうなまなざしで私の顔を覗き込む。

「『止まり木』に、休みに来てくれたんだね」

「え……?」

「ペルショワール。この間も言ったけど、『止まり木』って意味だから。何かあったんでしょ。だからここに、羽を休めに来た。違う?」

 中原さんの問いに、私は息をのんだ。
 そうだ、ここは『ペルショワール』。『止まり木』って意味だったんだっけ……。
 そんなことは何一つ考えずに来てしまったのだけれど、思えば中原さんの言う通り、私はここに来れば、心が少しでも安らぐのではないかと勝手に思い込んでいた。

「中原さん、私先に上がりますね」

「あ、お疲れ様です!」

 近くにいた女性店員がその場の空気を察してくれたのか、ささっとお店の中に引っ込んでいく。
 残された中原さんと私は、お互いをじっと見つめ合う。

「あの……私、あなたの言う通り、です。休みに来たんです。心が、いっぱいいっぱいになっていたから」

「そっかーやっぱり。それならさ、ちょっと待っててくれる? 俺、閉店作業があるからさ。たぶん十分ぐらいで終わると思う! 良か
ったら、お店の椅子に座って待ってて」

「は、はい」

 突然押しかけたのに、なんて優しい対応をしてくれるのだろう。それに、中原さんの閉店作業が終わるのを待って、一体私は彼と何をするのだ? だめだ、頭が回らない。でも中原さんは、複雑に絡まった糸をするすると解いていくように、いとも容易く私を呼び止めた。
 悶々と考えているうちに、「作業終わったよ。外に出ようか」と声をかけられる。どうやら店の中にはもう中原さんしかいないらしい。さっきの女性店員も、いつのまにか帰ってしまったようだ。

「近くに公園があるから、そこに行く? ちょっと丘の上にあって、坂道のぼらなきゃいけないけど」

「はい、大丈夫です。でも、いいんですか? この後予定とか……。それに、一応まだ未成年ですよね?」

「ああ、俺のことなら大丈夫。この後予定はないし、今一人暮らししてるんだ」

「一人暮らし……なるほど」

 確か、中原さんは去年の春に高校を中退したと言っていた。私と同い年だから、まだ親元で暮らしているのが普通なんだろう。一人暮らしをしているということは、訳ありであるのには違いない。ただ、まだ今の段階であまり込み入った質問はできなかった。

「あの、きみ——名前、なんだっけ?」

「そういえば、まだ名乗ってなかったですね。私、羽島鈴といいます」

「羽島さん。鈴ちゃん、で大丈夫?」

「え? あ、はい」

 まさか、下の名前で呼ばれるとは思っていなかった私は、多少面食らう。私のことを名前で呼んでいるのは圭だけだ。新鮮すぎて、心臓がぎゅっと止まりそうだった。

「俺は中原綾人(あやと)。呼び方はなんでもいいよ」

「……じゃあ、中原さんで」

「ええ!? 俺は名前で呼ぶのにそっちは苗字?」

「なんでもいいって言われたから」

「むう〜まあ、仕方ないか。もう少し仲良くなったら、ね?」

 つぶらな瞳が私の目を見て語りかけるように潤んでいた。なんて……なんて、綺麗な目をしているんだろう。それに比べて私は。あまり他人から顔を凝視されたくないので、さっと目を逸らしてしまう。

「鈴ちゃんは時間大丈夫? 親御さん、心配しない?」

「ああ、大丈夫だと思います」

 私はさっと、スマホで伯母さんに「今日は遅くなります」と連絡を入れた。伯母さんは基本、私のやることなすことに何一つ文句を言わない。多分、私が親元から離れて可哀想な子だと思っている。私からすれば、私みたいな根暗な子供を押し付けられた伯母さんたちの方が、よっぽど可哀想なんだけれど。