圭が私の家にやってきたのは、不登校になって一週間目の今日のこと。
 部屋着姿で過ごすことにすっかり慣れてしまった私は、伯母さんたちが仕事に行ってから、今日もピアノを弾いて過ごしていた。
 夕方、窓の向こうの景色が薄闇に沈んでいく頃、玄関のチャイムが鳴った。

「誰?」

 伯母さんか伯父さんが、宅配でも頼んだのだろうか。
 もう三時間も弾いていたピアノから手を離し、一階の玄関へと向かう。途中、階段の角に小指をぶつけて涙目になった。
 カチャリと鍵を開けて玄関扉を開くと、予想外の人物が立っていて、私は二、三歩後ろへと後ずさる。

「おい、鈴、元気か?」

 手には私の通学鞄を持ち、キッと睨みつけるように私を見ていた。圭は本心を隠そうとする時、こんなふうに虚勢を張っているような態度を取る。
 突然目の前に現れた幼馴染に、私は「うん」と頷くことしかできなかった。

「ちょっと、お邪魔します」

「え、え?」

 私が戸惑っているのも無視して、圭はズカズカと吉田家へ上がり込む。圭がこの家に来たのは一度や二度ではない。だから圭は慣れた足取りで二階の私の部屋へと上がっていく。

「勝手に入らないでよ」

 いくら幼馴染でも、男の子を簡単に部屋の中に入れるわけにはいかない。第一私の了解すら得ていないのに、どうして圭はこんなにも強引なの?
 そもそも、一週間前に圭が教室で私のことを叩いたりしなければ、素顔をクラスメイトに見られることもなかった。こんなふうに引きこもることだってなかったんだ。
 心の中で思いの丈を叫んでいると、急に圭がしおらしい表情になって、
「ごめん」
 と呟いた。

 部屋の扉の前でしょぼくれたように肩を落とす圭を見て、私ははっとする。

「いや……こっちこそ、強く言いすぎた。ごめんね」

 気持ちが凪いだところで、私はゆっくりと部屋の扉を開く。物が少ない部屋なので、散らかることがないのが救いだった。突然訪ねてきた人を上げても恥ずかしいことはほとんどない。

「飲み物、持ってくるから座ってて」

「ああ。ありがとう」

 私は一階からオレンジジュースとクッキーを持って部屋に戻る。こんなふうに、家族以外の人間と話をするのは久しぶりだ。相手は圭であるのに、どことなく緊張感が抜けない。

「この鞄、ずっと教室に放置されたままだったから。二組のやつが、俺のところまで持ってきたんだよ」

「……そう」

 普通なら、二組の誰かが届けてくれるものなんだろうけれど。誰も、私の家を知らないし、わざわざ先生に聞いてまで届けてくれようとする人はいなかったようだ。

「本当はもっと早く届けようと思ってた。というか、鈴がこんなに長いこと休むなんて、思ってなくて。三日ぐらいすれば顔を出すだろうって勝手に想像してた。遅くなって、悪かった」

 親切に鞄を届けてくれた上に、遅くなったことをお詫びしてくれる圭。私の心臓の音が、とくん、とくんと大きく鳴っている。
 私は、圭のことを勘違いしていたのかもしれない。
 圭は、ガキ大将みたいに周囲の人間を笑わせてくれる、楽しいだけの人だと思っていた。 でも、本当の圭はもっとずっと、誰よりも友達のことを考えてくれていて——。

「鈴、いま柄にもないこと言おうとしてないか?」

「え?」

「その顔だよ。どんだけしんみりしてんだよ。俺は、単にこの鞄がずっと俺のところにあって、お荷物だから早く届けようって思っただ
けだって」

「……何それ。圭、素直じゃない」

「ふん。お前の方こそ、いつまでもウジウジして不登校なんて、みっともない」

 いつものように軽口を叩く圭に、イラッとしてしまう。
 せっかく、素直にありがとうって口にしようとしたのに台無しだ。

「大体、この一週間一度も連絡寄越さないなんてどうかしてるぞ。俺がどんな気持ちでお前のこと待ってたか。少しは他人の気持ちも考えろよな」

 口を尖らせて文句を垂れ流す圭を見ていると、胃の中がムカムカしてきて、自分を抑えられなくなる。

「私だって……私だってねえっ」

 好きで、こんなふうになったんじゃない。
 もし私が、お母さんまでとは言わないけれど、少なくとも他人から「不細工」なんて言われないぐらいの容姿をしていたら。
 コロナ明けにマスクなんて取っ払って、友達と普通に遊んで。自分の見た目やドジな性質に失望せずに、明るく過ごすことができていたはずなのに。

「……私だって、なんだよ」

 喧嘩腰の圭が、私の目をじっと睨むようにして見つめる。圭は昔からいつだってこうだ。私が自分の意見をはっきりと主張するまで、私の心を掴んで離さない。普段は男友達とばかみたいにはしゃいでいるくせに、白黒はっきりさせたいという性格は変わらなかった。

「もっと……もっと、明るくなりたかった! 可愛くなりたかった。私、なんでこんな顔に生まれてきちゃったんだろう……なんで、普通に友達と笑って過ごせないんだろう」

 幼馴染の前で、私の心はついに砕けた。
 圭は、弱音を吐く私に、慰めの言葉はかけてくれない。ただ大きく息を吸ったかと思うと、鼓膜が破けんばかりの大声で怒鳴った。

「甘ったれんじゃねえ! お前はそんなに弱いやつだったか? 俺が知ってる鈴は、もっとこう、一人でも大丈夫だって面してたぞ! 誰だって弱いところはある。でもみんな、それを他人に見せずに頑張ってるんだ。お前だけが辛いと思うなっ」

「な……! なんてこと言うの? 圭はさっき、連絡をくれない私に、少しは他人の気持ちも考えろって言ったけど、圭の方が他人の気持ち分かってない!」

「はあ? 俺はな、お前が凹んでると思って、今日まで待ってたんだ。お前の強さを信じてたんだ。絶対に学校に来るって。でもお前は、そんな俺の期待を裏切ったじゃないか」

「そんなの知らない! 勝手に期待しないで。私はもうずっと前から、人生に、この顔に絶望してたんだからっ」

 ぜえぜえぜえ、とお互いが荒く息をする音が部屋中に響き渡る。ダメだ。ヒートアップしすぎて、冷静になれない。圭が相手だと、醜い自分がどんどん顔を見せてしまう。
 圭が、眉間に皺を寄せて怪物でも見るかのような目で私を見つめる。そうよ、そうだよ。私はあなたにとって、わけのわからない生き物よ。長年教室でみんなから揶揄われてきた苦しみは、私以外の誰にも理解することなんてできないんだから……。

「……悪いけど、今日はもう帰ってくれない」

 自分でもびっくりするほど冷たい声が口から漏れ出てきた。
 圭が、驚愕の表情で私を見つめる。お前は、どうしてそこまで頑固なんだ。分からずやなんだと、その顔が問いかけている。圭の心の声に耳を塞いで、部屋の扉を開けた。

「……ああ、分かったよ」

 これ以上何を言っても無駄だと悟ったのだろう。圭は、重たい足取りで私の部屋を後にした。私は、玄関まで圭を見送ることもできず、呆けたように部屋の中でうずくまる。部屋の隅に、圭が届けてくれた通学鞄が転がっていた。
 結局、圭にお礼も言えなかったな……。
 どうして私はいつもこうなんだろう。素直になれない。誰にも自分の気持ちなんて分かってもらえないと、自分の殻に閉じこもる。春はいつまでもやってこない。

「うぅ……うう……っ」

 誰にも聞こえない嗚咽が止まらない。
 気がつくと私は、部屋着から私服に着替え、マスクをつけて家を飛び出していた。