山下公園には「ストリートピアノコンサートがある」と聞きつけてやってきた人たちがすでにピアノの周りを取り囲むようにして座っているのが分かった。
私のことを事前に知っていて来てくれた人もいる。観光でたまたま訪れた人も。私は、多くの人の気配を感じながら、イベント会社のスタッフさんに挨拶をして、ピアノの前に座った。
「それでは今から、羽島鈴さんによる、特別コンサートを開催します!」
司会者の開始の合図と共に、拍手喝采が鳴り響く。綾人くんは。彼はこの中で、見てくれているのだろうか。演奏開始の直前、私は神経を鍵盤に集中させた。
拍手が止んで、最初の曲を演奏する。ショパンの曲をポップス風にアレンジしたメドレーだ。クラシックは聞き慣れない人も多いと思うが、アレンジを加えることで、手拍子などをして乗りやすくなっている。
思った通り、最初は私の演奏に聞き入っていたみんなが、途中から手拍子を入れてくれた。少しばかり緊張していた指の動きが解けて、普段通り、鍵盤の上で指を滑らせる。目が完全に見えなくなったことで、私の耳はより深く、音の端っこまで掴んでいく。
やがてクライマックスに突入し、一層激しくピアノを鳴らした。
聴衆の手拍子が鳴り止み、みんなが息をのむ気配がした。
最後の和音をダイナミックに奏でる。もう少し、あと少し。ペダルを踏んで最後まで余韻を残す。今、この場にいる全員が私の演奏のことだけに夢中になってくれるように。家に帰ってからも、素敵だったと思ってくれるように。
響け、私の夢——。
最後の音が、空に向かって消えていく。
私はその音の端っこがなくなるまで、鍵盤から指を離さなかった。
やがて、まばらな拍手が響き、どんどん大きな波へと変わっていった。
「羽島鈴さん、素敵な演奏をありがとうございました!」
司会者の終わりの合図と共に、拍手は爆発的に大きく鳴り響く。
終わったんだ。
ようやく演奏の余韻から抜け出した私は、ピアノの椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。どれだけたくさんの人に、私の演奏が届いただろう。子供たちの「すごかった!」という声が、耳に心地よい。もしこの中に、ピアノ好きな子供がいたら、ぜひ頑張って練習を続けてほしいと伝えたかった。
聴衆たちがその場から次第に離れていき、イベント会社の方が挨拶をしてくれた。
「いやあ、今日は本当にありがとうございました。圧巻でした。こんなにたくさんお客さんが集まってくれたのも、羽島さんだからですね」
「いえ、こちらこそ、素敵な場をつくってくださり、ありがとうございました」
担当の方と一通り挨拶を済ませると、私はふう、と深呼吸をした。
その時だった。
「鈴ちゃん」
一体いつからそこにいたんだろう。
すぐ後ろから愛しい人の声がして、私は振り返る。
「鈴ちゃん、俺。綾人だよ」
私が全盲になったことを知っている彼は、私の右手をそっと握りながらそう言った。
「綾人くん……なの?」
「ああ。鈴ちゃんの演奏、最初からずっと聞いてた。始まる前に声をかけたら気が散ると思って。……すごく、すごく素敵だった! 本当にびっくりした。鈴ちゃん、こんなにピアノが上手になったんだね」
記憶の中の彼と変わらない、優しい和音のように和やかな声が、私の耳に響いてくる。
懐かしさと、嬉しさと、切なさが、一気に胸に込み上げてきた。
ああ、綾人くんだ。
綾人くんが迎えに来てくれたんだ——。
「綾人くん……ありがとう。おかえり」
私は、彼の腕を手繰り寄せるようにして、彼の身体を抱きしめる。咄嗟のことで綾人くんは驚いていたようだったけれど、すぐに私を抱きしめ返してくれた。
「ただいま。あのさ、俺、自分のお店を開くことにしたんだ。まだ開店してないんだけど、今準備中で、スタッフも続々集まってる。今日のために最高のケーキ作ったから、一緒に食べに行こう」
「本当に? うん! 綾人くんのケーキ食べたい」
「でしょ? 帰国したら一番に鈴ちゃんに食べてもらうって約束したから」
「覚えてたよ。楽しみにしてたんだから」
自然と溢れ出る涙をそっと拭って、彼の柔らかな唇が私の唇に触れた。
「ふふ、なんだか照れくさいね」
「うん。でも本当に嬉しい。私、頑張ったんだ。綾人くんが夢に向かって一直線に進んでるから、私も、夢を叶えようって」
「ああ。本当に立派だよ。鈴ちゃんは俺に今でも希望の光を見せてくれる。最高の恋人だ」
彼がそう言って、もう一度二人の肌が触れ合って。
私はずっと求めていた温もりを、一心に肌で感じていた。
彼が私に見せてくれた光は、今でも明るく私の道を照らしてくれている。
ふたりでひとつだけの光を、きっとこの先も見失わない。
遠くからか汽笛の音が聞こえてくる。
まだ始まったばかりの私たちの人生へのファンファーレ。
太陽の光が、瞼の向こうを明るく照らした。
【終わり】
私のことを事前に知っていて来てくれた人もいる。観光でたまたま訪れた人も。私は、多くの人の気配を感じながら、イベント会社のスタッフさんに挨拶をして、ピアノの前に座った。
「それでは今から、羽島鈴さんによる、特別コンサートを開催します!」
司会者の開始の合図と共に、拍手喝采が鳴り響く。綾人くんは。彼はこの中で、見てくれているのだろうか。演奏開始の直前、私は神経を鍵盤に集中させた。
拍手が止んで、最初の曲を演奏する。ショパンの曲をポップス風にアレンジしたメドレーだ。クラシックは聞き慣れない人も多いと思うが、アレンジを加えることで、手拍子などをして乗りやすくなっている。
思った通り、最初は私の演奏に聞き入っていたみんなが、途中から手拍子を入れてくれた。少しばかり緊張していた指の動きが解けて、普段通り、鍵盤の上で指を滑らせる。目が完全に見えなくなったことで、私の耳はより深く、音の端っこまで掴んでいく。
やがてクライマックスに突入し、一層激しくピアノを鳴らした。
聴衆の手拍子が鳴り止み、みんなが息をのむ気配がした。
最後の和音をダイナミックに奏でる。もう少し、あと少し。ペダルを踏んで最後まで余韻を残す。今、この場にいる全員が私の演奏のことだけに夢中になってくれるように。家に帰ってからも、素敵だったと思ってくれるように。
響け、私の夢——。
最後の音が、空に向かって消えていく。
私はその音の端っこがなくなるまで、鍵盤から指を離さなかった。
やがて、まばらな拍手が響き、どんどん大きな波へと変わっていった。
「羽島鈴さん、素敵な演奏をありがとうございました!」
司会者の終わりの合図と共に、拍手は爆発的に大きく鳴り響く。
終わったんだ。
ようやく演奏の余韻から抜け出した私は、ピアノの椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。どれだけたくさんの人に、私の演奏が届いただろう。子供たちの「すごかった!」という声が、耳に心地よい。もしこの中に、ピアノ好きな子供がいたら、ぜひ頑張って練習を続けてほしいと伝えたかった。
聴衆たちがその場から次第に離れていき、イベント会社の方が挨拶をしてくれた。
「いやあ、今日は本当にありがとうございました。圧巻でした。こんなにたくさんお客さんが集まってくれたのも、羽島さんだからですね」
「いえ、こちらこそ、素敵な場をつくってくださり、ありがとうございました」
担当の方と一通り挨拶を済ませると、私はふう、と深呼吸をした。
その時だった。
「鈴ちゃん」
一体いつからそこにいたんだろう。
すぐ後ろから愛しい人の声がして、私は振り返る。
「鈴ちゃん、俺。綾人だよ」
私が全盲になったことを知っている彼は、私の右手をそっと握りながらそう言った。
「綾人くん……なの?」
「ああ。鈴ちゃんの演奏、最初からずっと聞いてた。始まる前に声をかけたら気が散ると思って。……すごく、すごく素敵だった! 本当にびっくりした。鈴ちゃん、こんなにピアノが上手になったんだね」
記憶の中の彼と変わらない、優しい和音のように和やかな声が、私の耳に響いてくる。
懐かしさと、嬉しさと、切なさが、一気に胸に込み上げてきた。
ああ、綾人くんだ。
綾人くんが迎えに来てくれたんだ——。
「綾人くん……ありがとう。おかえり」
私は、彼の腕を手繰り寄せるようにして、彼の身体を抱きしめる。咄嗟のことで綾人くんは驚いていたようだったけれど、すぐに私を抱きしめ返してくれた。
「ただいま。あのさ、俺、自分のお店を開くことにしたんだ。まだ開店してないんだけど、今準備中で、スタッフも続々集まってる。今日のために最高のケーキ作ったから、一緒に食べに行こう」
「本当に? うん! 綾人くんのケーキ食べたい」
「でしょ? 帰国したら一番に鈴ちゃんに食べてもらうって約束したから」
「覚えてたよ。楽しみにしてたんだから」
自然と溢れ出る涙をそっと拭って、彼の柔らかな唇が私の唇に触れた。
「ふふ、なんだか照れくさいね」
「うん。でも本当に嬉しい。私、頑張ったんだ。綾人くんが夢に向かって一直線に進んでるから、私も、夢を叶えようって」
「ああ。本当に立派だよ。鈴ちゃんは俺に今でも希望の光を見せてくれる。最高の恋人だ」
彼がそう言って、もう一度二人の肌が触れ合って。
私はずっと求めていた温もりを、一心に肌で感じていた。
彼が私に見せてくれた光は、今でも明るく私の道を照らしてくれている。
ふたりでひとつだけの光を、きっとこの先も見失わない。
遠くからか汽笛の音が聞こえてくる。
まだ始まったばかりの私たちの人生へのファンファーレ。
太陽の光が、瞼の向こうを明るく照らした。
【終わり】