口溶けのよいスポンジと、甘い、甘い、ホイップクリーム。目が覚めると、夢にケーキが出てきたことに苦笑する。朝七時、朝ごはんの時間だから、はやくリビングに行かないと。伯母さんが仕事に出かけちゃう。迷惑をかけてしまう。
「おはよう」
「鈴ちゃん、おはよう」
芽衣子伯母さんはにっこりと笑って、相変わらず優しい声で挨拶をしてくれる。伯母さん夫婦と暮らし始めてはや八年が経つ。だけど私は、今なお伯母さんに対してどこか他人行儀に接してしまう。
「昨日、学校で何かあった?」
伯母さんが作ってくれたハムとチーズのホットサンドに齧り付いた時、湿り気を帯びた声が降ってきた。伯母さんは、私のちょっとした感情の変化によく気がつく。その鋭さが、時々私には痛い。
「ううん、なんでもない」
ホットサンドの中からじゅわっと滲み出てきたチーズを必死に噛みちぎりながら、私は首を振った。
「そう。何かあったら、すぐに伯母さんに言うのよ」
「うん」
それじゃあ、仕事行ってくるから。
いつものように伯母さんが玄関で靴を履いて出ていく。そんな伯母さんの背中を、朝ごはんを食べながら見守っていた。
*
私がこの家に——吉田家に預けられたのは、十歳の頃。
お父さんは、私が四歳の頃にお母さんと離婚しており、十歳まではお母さんと二人暮らしだった。お母さんは世界的な大女優の羽島陽子。キリッとした眉と切れ長の瞳、さらさらストレートの髪の毛を靡かせて赤いカーペットの上を歩く母親の姿を、幼い頃から何度もテレビで見てきた。ドラマや映画で時の俳優として名を馳せて、いくつもの賞を受賞した。
自分の母親が、そんな煌びやかな世界で大活躍していることを、昔の私は誇りに思っていた。お父さんはいなし、お母さんは仕事で家を空けていることが多く、家政婦さんと共に過ごす休日が増えていったけれど。お母さんが世界中の人々に尊敬のまなざしを向けられることが、心の底から嬉しかった。
でも。
「鈴ちゃんのお母さんって、大女優さんなんでしょ?」
「あー知ってる! 羽島陽子! 昨日もドラマ出てた!」
「まじ? えーでもさ、鈴ってお母さんに全然似てなくない? え、てか本当に親子? 羽島陽子と違ってめちゃくちゃ不細工ぅ!」
小学校三年生だった私は、友達が残酷な会話をしているのを耳にした。ちょうどその頃、このクラスでも私が「ドジで天然」だという認識が広がっていた。さらに醜い顔のこともあり、「羽島鈴を無視しよう」なんて言い出す女の子がいたのだ。
「羽島陽子の娘だなんて絶対に嘘! 嘘つき鈴ちゃん!」
「苗字が一緒だからって、そんな嘘誰が信じると思ってるの? やーい、嘘つき〜不細工な自分の顔、鏡で見てみてよ」
小学生とは思えないほどひどい悪意を、女の子たちは私に向けていた。ちょうど、お母さんが主演のドラマが放送されていて、クラスの男子がみな、羽島陽子が美しいと話題にしていたのだ。そんな話題の人物である羽島陽子の娘と名乗る私に、女の子たちがやっかみを言いたがる気持ちは理解できた。
しかしだからと言って、嫌味を聞いてノーダメージなはずがない。
「わ、私、本当に羽島陽子の娘だよっ。顔は、お父さんに似たから……」
言い訳のようにそう返すと、女の子たちはくすくすと笑い声を上げた。
一体どうしてなんだろう。
どうして私が、言い訳めいた言葉で反論しなければならないのだろう。
お母さんが、有名女優であるばっかりに。
私がこんな貧乏くじを引かされるなんて、あんまりじゃないかっ……。
その日の夜、遅くに帰ってきたお母さんに、学校であった出来事をぶちまけた。お母さんは元々、はっきりとものを言うタイプで、私はお母さんと話すのが少し怖くもあった。昔から褒められるより叱られた回数の方が多い。私を鼓舞するためだと分かっていても、周りの友達の優しいお母さんの話を聞いていると、羨ましいと感じていた。
お母さんは泣きながら今日つらかったことを訴える私の姿を見て一言、
「……そう」
とだけ呟いた。
たったのそれだけ。その一言が、私の目の前から光を奪っていった。
お母さんが私を伯母さん夫婦の家——吉田家に預けていったのは、その一週間後のことだ。吉田家は私がお母さんと暮らしていた家から車で三十分ほどかかる場所にある。私は最初、お母さんが出張でいつものように海外にでも行くのかと思っていた。実際、これまでに何度か、同じようにお母さんの出張中、伯母さんの家に預けられたことがある。
今回もそのパターンだと勝手に思い込んでいた私だったが、予想は見事に裏切られた。
一日経っても、三日経っても、一週間経っても、一ヶ月経っても、お母さんは、ついに私を迎えにくることはなかった。私は小学校を転校せざるを得なかったけれど、人間関係に困っていたのでそこはむしろ好都合だったかもしれない。幼馴染の圭とも離れてしまうことにはなったけれど。
「ごめんね、鈴ちゃん。お母さんはね、ちょっと長いこと鈴ちゃんと一緒に暮らせなくなってしまったの」
「……」
芽衣子伯母さんは、心から申し訳なさそうに萎れた声で真実を話してくれた。私は、そんな寂しそうな伯母さんの表情を見て、何も聞き返すこともできずにただ現実を受け入れた。
伯母さんが「この部屋、鈴ちゃんが使っていいから」とあてがってくれた二階の部屋に引きこもり、さめざめと泣いた。
私はお母さんに、捨てられたんだ……。
不細工で、要領の悪い私を、お母さんは疎ましく感じていたんだ……。
子供らしく喚き散らすことができたら、どんなに良かったことか。
こんな時でさえ、伯母さんや伯父さんに迷惑をかけたくないという気持ちが勝っていた。
私は、枕に顔を押し付けて嗚咽するだけだった。
「おはよう」
「鈴ちゃん、おはよう」
芽衣子伯母さんはにっこりと笑って、相変わらず優しい声で挨拶をしてくれる。伯母さん夫婦と暮らし始めてはや八年が経つ。だけど私は、今なお伯母さんに対してどこか他人行儀に接してしまう。
「昨日、学校で何かあった?」
伯母さんが作ってくれたハムとチーズのホットサンドに齧り付いた時、湿り気を帯びた声が降ってきた。伯母さんは、私のちょっとした感情の変化によく気がつく。その鋭さが、時々私には痛い。
「ううん、なんでもない」
ホットサンドの中からじゅわっと滲み出てきたチーズを必死に噛みちぎりながら、私は首を振った。
「そう。何かあったら、すぐに伯母さんに言うのよ」
「うん」
それじゃあ、仕事行ってくるから。
いつものように伯母さんが玄関で靴を履いて出ていく。そんな伯母さんの背中を、朝ごはんを食べながら見守っていた。
*
私がこの家に——吉田家に預けられたのは、十歳の頃。
お父さんは、私が四歳の頃にお母さんと離婚しており、十歳まではお母さんと二人暮らしだった。お母さんは世界的な大女優の羽島陽子。キリッとした眉と切れ長の瞳、さらさらストレートの髪の毛を靡かせて赤いカーペットの上を歩く母親の姿を、幼い頃から何度もテレビで見てきた。ドラマや映画で時の俳優として名を馳せて、いくつもの賞を受賞した。
自分の母親が、そんな煌びやかな世界で大活躍していることを、昔の私は誇りに思っていた。お父さんはいなし、お母さんは仕事で家を空けていることが多く、家政婦さんと共に過ごす休日が増えていったけれど。お母さんが世界中の人々に尊敬のまなざしを向けられることが、心の底から嬉しかった。
でも。
「鈴ちゃんのお母さんって、大女優さんなんでしょ?」
「あー知ってる! 羽島陽子! 昨日もドラマ出てた!」
「まじ? えーでもさ、鈴ってお母さんに全然似てなくない? え、てか本当に親子? 羽島陽子と違ってめちゃくちゃ不細工ぅ!」
小学校三年生だった私は、友達が残酷な会話をしているのを耳にした。ちょうどその頃、このクラスでも私が「ドジで天然」だという認識が広がっていた。さらに醜い顔のこともあり、「羽島鈴を無視しよう」なんて言い出す女の子がいたのだ。
「羽島陽子の娘だなんて絶対に嘘! 嘘つき鈴ちゃん!」
「苗字が一緒だからって、そんな嘘誰が信じると思ってるの? やーい、嘘つき〜不細工な自分の顔、鏡で見てみてよ」
小学生とは思えないほどひどい悪意を、女の子たちは私に向けていた。ちょうど、お母さんが主演のドラマが放送されていて、クラスの男子がみな、羽島陽子が美しいと話題にしていたのだ。そんな話題の人物である羽島陽子の娘と名乗る私に、女の子たちがやっかみを言いたがる気持ちは理解できた。
しかしだからと言って、嫌味を聞いてノーダメージなはずがない。
「わ、私、本当に羽島陽子の娘だよっ。顔は、お父さんに似たから……」
言い訳のようにそう返すと、女の子たちはくすくすと笑い声を上げた。
一体どうしてなんだろう。
どうして私が、言い訳めいた言葉で反論しなければならないのだろう。
お母さんが、有名女優であるばっかりに。
私がこんな貧乏くじを引かされるなんて、あんまりじゃないかっ……。
その日の夜、遅くに帰ってきたお母さんに、学校であった出来事をぶちまけた。お母さんは元々、はっきりとものを言うタイプで、私はお母さんと話すのが少し怖くもあった。昔から褒められるより叱られた回数の方が多い。私を鼓舞するためだと分かっていても、周りの友達の優しいお母さんの話を聞いていると、羨ましいと感じていた。
お母さんは泣きながら今日つらかったことを訴える私の姿を見て一言、
「……そう」
とだけ呟いた。
たったのそれだけ。その一言が、私の目の前から光を奪っていった。
お母さんが私を伯母さん夫婦の家——吉田家に預けていったのは、その一週間後のことだ。吉田家は私がお母さんと暮らしていた家から車で三十分ほどかかる場所にある。私は最初、お母さんが出張でいつものように海外にでも行くのかと思っていた。実際、これまでに何度か、同じようにお母さんの出張中、伯母さんの家に預けられたことがある。
今回もそのパターンだと勝手に思い込んでいた私だったが、予想は見事に裏切られた。
一日経っても、三日経っても、一週間経っても、一ヶ月経っても、お母さんは、ついに私を迎えにくることはなかった。私は小学校を転校せざるを得なかったけれど、人間関係に困っていたのでそこはむしろ好都合だったかもしれない。幼馴染の圭とも離れてしまうことにはなったけれど。
「ごめんね、鈴ちゃん。お母さんはね、ちょっと長いこと鈴ちゃんと一緒に暮らせなくなってしまったの」
「……」
芽衣子伯母さんは、心から申し訳なさそうに萎れた声で真実を話してくれた。私は、そんな寂しそうな伯母さんの表情を見て、何も聞き返すこともできずにただ現実を受け入れた。
伯母さんが「この部屋、鈴ちゃんが使っていいから」とあてがってくれた二階の部屋に引きこもり、さめざめと泣いた。
私はお母さんに、捨てられたんだ……。
不細工で、要領の悪い私を、お母さんは疎ましく感じていたんだ……。
子供らしく喚き散らすことができたら、どんなに良かったことか。
こんな時でさえ、伯母さんや伯父さんに迷惑をかけたくないという気持ちが勝っていた。
私は、枕に顔を押し付けて嗚咽するだけだった。