「退院おめでとうございます。リハビリ、よく頑張りましたね」

 あれから一ヶ月半後、厳しいリハビリを乗り越えて、私はなんとか退院をすることができた。高校三年生の、大学受験直前のことだ。

「ありがとうございます」

「まだ本調子じゃないこともあると思うから、無理はしないようにしてくださいね」

「はい。本当にお世話になりました」

 看護師に見送られ、白杖を持って病院の扉をくぐる。今日は水曜日で伯母さんも伯父さんも仕事があるため、タクシーで帰ることにしていた。
 真冬の冷たい風が身体を吹き付ける。分厚いコートを着ているものの、何度も身震いした。

「あれ?」

 タクシーを探しながらキョロキョロと辺りを見回していると、見知った人影がこちらに向かって歩いてきた。

「鈴ちゃん!」

 ニット帽を被り、ダウンコートを羽織った綾人くんが、鼻を真っ赤にしながら小走りで駆け寄ってくる。久しぶりに目にした彼の姿に、私は早くも胸がいっぱいになった。
 実は、今日退院することを彼に伝えていた。来てくれるかは正直分からなかったけれど、もしかしたら、という期待があった。
 綾人くんはしっかりと私の期待に応えてくれた。目と目が合った途端、長らく会えていなかった恋人に、強い想いが溢れ出す。

「鈴ちゃん、遅くなって本当にごめん。退院日には絶対会いに行こうと思って」

「ううん。忙しいのに来てくれてありがとう。嬉しい」

「良かった。あのさ、もし時間があるならちょっとお茶でもしない? 話したいことがあるんだ」

「もちろん」

 綾人くんが差し出してきた右手を私はぎゅっと握る。離れた場所でそれぞれの道を歩いていた私たち。今日は絶対に離れないように、彼の温もりを強く感じていた。


 二人で街へ繰り出すのは数ヶ月ぶりのことだ。
 『スカイタワー』に登ったあの日が懐かしい。あれからまだ一年も経っていないのに、もうずっと昔の思い出のように感じられた。
 私たちは駅近くのカフェに入り、お昼ご飯を注文した。ゆったりとしたクラシカルなBGMが耳に心地よい。平日ということもあり、店内は空いていた。

「まずは改めて、退院おめでとう。よく頑張ったね」

「ありがとう。最初はどうなることかと思ったけど、なんとか受験に間に合って良かった」

「共通一次、来週だよね。勉強は大丈夫そう?」

「どうだろう。病院で勉強したけど、自信はないかなあ」

「頑張り屋さんの鈴ちゃんならきっと普段通りの力出せるよ」

「そうだといいな」

 なめらかな二人の会話が妙に懐かしい。綾人くんはお冷を口に含み、口元を拭った。彼がどこか緊張しているのが伝わってくる。何か話したいことがあると言っていたから、いつ話すか、考えているのかもしれない。

「先に食べちゃおうか。俺すごくお腹空いてんだよね」

「実は私も。食べよ食べよ!」

 運ばれてきた鶏肉の照り焼きの乗ったランチプレートを見て、ぐうううと腹の虫が鳴った。病院食ばかり食べていた私にとって、色とりどりの食材が乗ったご飯はかなり食欲をそそる。

「いただきます」

 二人で手を合わせてランチプレートを食べ始める。久しぶりに胃の中に収まる新鮮なサラダやジューシーな肉の味に、お箸を持つ手が止まらなかった。綾人くんも、黙々と目の前のご飯を口に運んでいる。食事の時ほど会話が少なくなるのはいつものことだった。

「あ〜美味しかった。ごちそうさま」

 ご飯粒一つ残さずにランチプレートを平らげると、ごくごくと水を飲み干した。見れば綾人くんの方も水がなくなっていたのでお冷を頼もうかと迷ったけれど、代わりにホットコーヒーを注文した。

「それで、話したいことって何かな?」

 コーヒーが運ばれてくると、私はミルクを、綾人くんは砂糖をそれぞれ入れる。
 綾人くんは砂糖を入れたコーヒーを、ティースプーンでくるりとかき混ぜてから、真剣な面持ちで口を開いた。

「実はさ、俺、春からフランスに行こうと思うんだ」

「フランス?」

 予想もしていなかった話に、私は素直に驚く。

「叔父さんから、知り合いのパティシエに、修行をお願いできないか掛け合ってるって言われて。俺、それまでフランスに渡るとか全然考えてなかったんだけど、叔父さんがそこまで動いてくれてるって知って、心を動かされたんだ」

「それは……素敵な話だね」

「ああ。実は鈴ちゃんが入院してる間、店が忙しいのとは別に、フランス語の勉強をしていたんだ。だからなかなか時間が作れなかった。本当にごめん。でも俺は、叔父さんの想いを受け取りたいって思った。今できる精一杯のことはやっておきたかったんだ」

 決意のこもる強いまなざしに、私は何も言い返すなんてことはできない。
 もちろん反対などするわけもない。パティシエになるのが彼の夢だから。その夢を本物にするチャンスが来たのだ。全力で応援したい。
 ただ、彼が遠いフランスの地に行ってしまう寂しさだけが、胸の中で隠しようもないほど広がっていく。

「鈴ちゃんとはしばらくの間離れ離れになってしまうけど……俺、絶対、一人前の職人になって戻ってくるから。その時は一番最初に鈴ちゃんに、俺の腕によりをかけた最高のケーキを作る。だから、無理にとは言わないけど……それまで待っていてくれたら、嬉しい」

 泣き笑いのような表情を浮かべる綾人くんを見て、私の心臓がドクンと跳ねた。
 ああ、そうか。彼も、寂しいんだな。
 寂しさを抱えながら、それでも自分の目標に向かって邁進しようとしているのだ。
 綾人くんの目に映っているのは、未来への希望の光だ。
 だったら私も、彼と一緒に光を見ていたい。

「もちろん、私は待ってるよ。綾人くんが、私に一生光を見せてくれるって言ってくれた。だからね、私はあなたという光を待ち続ける。どんな時も、あなたの夢を応援してる」

 強がりだって、綾人くんは気づいただろう。
 でも、彼の決断を応援したいという気持ちに嘘偽りはなかった。私は、綾人くんのためなら信じていつまでも待っていられる。付き合ってから今まで、彼と過ごした時間は少なかったかもしれない。それでも、彼を信じようと思えたのは、彼が決して私を裏切らないことを知っているから。

「ありがとう、鈴ちゃん。出発は三月二十日だから、それまで、できるか限りたくさん会おう。もちろん受験勉強に支障がない範囲で」

「うん。まだまだ二人の時間はたくさんあるもんね。最後まで楽しもう」

 お互いに目尻にうっすらと涙が浮かんでいるのは、指摘しないでおいた。
 綾人くんが本気で叶えたい夢を私はそばで応援する。たとえ二人の距離が遠く離れてしまっても、想いがあれば繋がっていられる。
 だから大丈夫だ。
 私はこの人を、生涯信じ続けよう。
 喫茶店のBGMが軽快なポップスに変わる。まるで綾人くんの決意を祝福してくれているように、キラキラ光るメロディーが店内に降り注いだ。