「鈴ちゃんっ!」

 声が。
 今まさに崖の向こうに身を投げようとしていた私の耳に、まっすぐ突き刺さる。
 心臓の鼓動が早鐘のように鳴った。
 どうして?
 どうして今、彼が私の名前を呼ぶ声が聞こえたんだろう。
 頭の中で疑問の声が消えないまま、声につられるようにしてゆっくりと後ろを振り返る。そこに立っていたのは、私の顔を見て驚愕する綾人くんの姿だった。彼の瞳がまっすぐに私を見ている。見えないはずの私と、どうして目を合わせられるの? いや、そもそもどうしてここにいるの?  
 私の心の声が聞こえたみたいに、彼は「鈴ちゃん!」ともう一度私の名を呼んだ。
 ゆっくりと私のいる柵の方へと近づいてくる。よく見ると彼の額にはびっしょりと汗が滲んでいて、真夏にマラソンをする選手のようだった。

「鈴ちゃん……良かった……間に合った」

 安堵のため息と共に彼は柵の前に立ち、軽々と柵を越えてみせた。彼との距離が一気に縮まる。私は驚きすぎて言葉が出てこない。一歩後退り、彼から逃げようとさえした。でも、彼は私の右手をぎゅっと握りしめる。温かい。久しぶりに触れた愛しい人の温もりに、冷え切っていた身体が瞬時に熱く火照るのを感じた。

「綾人くん……なんで……? 私のこと見えるの」

「ああ、見える。俺、鈴ちゃんのことちゃんと見えるよ。月の光が教えてくれたんだ。鈴ちゃんがきっと、ここにいるって」

「月の光が……?」

 彼の言葉にゆっくりと天を仰ぐ。
 まんまるの月が、群青色の空をほのかに照らしている。月の周りだけがパッと華やかに明るく輝いていて、そこだけ夜じゃないみたいだった。

「うん。鈴ちゃんの居場所を照らしてくれた。だからここに来られた。俺たちが初めて互いを知った場所に、いるんじゃないかって思った」

 月の光に導かれたなんて、たぶん嘘だろう。
 でも、彼が必死に私のことを探してくれたのは本当だと思う。その証拠に、彼の顔に浮かぶ汗の滴はまだたくさん残っている。

「鈴ちゃん、俺、鈴ちゃんからずっと目を逸らしてた。鈴ちゃんのことが見えなくなって、目の前が真っ暗になったんだ……。鈴ちゃんのこと傷つけるって分かって、それでも逃げてしまった。本当に馬鹿で、最低だと思う。俺を、許せなくて当然だって分かってる。でも、ようやく目が覚めたんだ。俺にはやっぱり鈴ちゃんが必要だから。鈴ちゃんが俺のケーキを食べて褒めてくれたことも、鈴ちゃんの恥ずかしそうに笑う顔も、病気に負けず前向きに頑張ろうとしてるところも、全部忘れられなかった」

「綾人くん……」

 彼のまっすぐな気持ちが、命を投げ出そうとしていた私の胸にじんと響き渡る。どうしてだろう……。私の前に広がっていたのは、暗闇だけだと思っていたのに。綾人くんの言葉は、少しずつ私を未来へと連れて行ってくれる気がした。

「鈴ちゃん、本当に今までごめんっ! 鈴ちゃんと一瞬でも向き合えないと思った自分を恥じてる。でも、でもさ……これだけは言わせてほしい。鈴ちゃん、死ぬな。命を粗末にするなっ。生きろ。たとえ真っ暗な道しか見えなくても、諦めるなっ!」

 夜空に突き抜ける鋭い彼の叫び声が、公園中に反響してるんじゃないかってくらい大きく響いた。
 諦めるな。
 真剣なまなざしでそう言う綾人くんの言葉に、突き動かされないはずがない。
 生きろ。
 生きたい。
 私はあなたと、生きたかったんだ。

「私は……諦めたくなかった。生きたかった。綾人くんの隣で生きていきたかった。でも……病気が、思ったよりもすごく早く進行し
ていたの。一度失った光は取り戻せないってお医者さんも言ってて……。白杖なんか使うことになって、ますます自分が自分じゃなくなっていく気分だった。頑張ろうって決めたピアノもアルバイトも、やっぱり無理なんじゃないかって思えてきて……。いつか、見えなくなるなら、ここで終わらせてもいいって思った」

 柵の向こうに降りたった時の、心が深部から冷えていく心地がフラッシュバックする。
 一寸先は闇。今の私にこれほどぴったりな言葉はないだろうって感じて。あとは天に身を任せるだけだった。

「終わらせてもいいなんて、そんなわけないだろ。俺が堂々と言えることじゃないのかもしれない。でも少なくとも俺は、鈴ちゃんに終わってほしくないよ」

 心からの彼の言葉が、周りの空気までゆるがすみたいにして温かな温度で包んでいく。

「綾人くん。私は、生きててもいいのかな。夢を追いかけてもいいのかな」

「当たり前だろ」

「たとえ近い将来に、光が見えなくなっても?」

「ああ。前にも言ったけど、俺が鈴ちゃんの光になるから。俺はもう鈴ちゃんを絶対に見失わない。もし見失ったとしても、何度でも鈴ちゃんを探す。それじゃだめか? 俺を信じてくれないか」

「綾人くんを……」

 私は信じたい。
 一度は私のことが見えなくなって、綾人くん自身、とても怖かったはずだ。
 それでもまたこうして私を迎えに来てくれた。恐怖や不安に打ち勝って、私を月の光の下に引きずり戻してくれた。だったら私は……私も、彼のところにいきたい。

「信じる。信じるよ。私、綾人くんを信じる。たとえこの目から光が消えても、綾人くんが私に希望を与え続けてくれると信じて、私も希望を持ち続ける。ふたりでひとつだけの光を見つめてく」

 私の宣言を聞いた綾人くんが、私の身体を引き寄せてそのまま大きな腕で包んでくれた。ああ、なんて温かくて柔らかいんだろう。彼を愛しいと思う気持ちが二人分の体温に溶けて、秋も深まる夜空へと登っていく。

「安心して、鈴ちゃん。俺は鈴ちゃんの手をもう二度と離したりしない」

「……うん」

 月の光の下で抱き合ったまま、私たちは互いの唇に触れた。まるで結婚式の誓いのキスみたいに、甘い気持ちと共に、この夜に不安をすべて置いていく。
 彼が隣にいる限り、もう一度這い上がれる。
 ふたりでひとつだけの光を、きっと彼がこの先も見せてくれるから。