街に出て本屋や喫茶店など、一人でふらついていても不思議ではないお店を行ったり来たりして、気づいたら学校が終わるぐらいの時間になっていた。
 家に帰ろうかとも思ったけれど、電車に乗って降り立ったのは、いつも『Perchoir』に行く時に降りている駅だ。
 すぐ近くに綾人くんがいる……。
 今日も出勤していたらの話だけど。ふと、『Perchoir』に寄りたい衝動に駆られた。初めて甘いケーキを食べさせてくれた時と同じように、またケーキの試食でもしてくれないかな。
 少しの期待を込めて『Perchoir』の方をじっと見てみたが、果たして綾人くんらしき人物は立っていなかった。
 心が弱っている時、思い出すのはやっぱり彼のことだった。
 今日、もし彼がそこに立っていてくれたら、今までの迷いはすべて脇に置いておいて、綾人くんの名前を呼んでいただろう。
 でも彼はいない。いないから、私は一人で歩かなくちゃいけないんだ。
 『Perchoir』から視線を逸らし、ある場所へと足が自然に向かう。
 そこは、綾人くんと、初めてゆっくり話をした花見丘陵公園だ。
 白杖をついて坂道を登るのは正直かなり気力のいることだった。以前二人で訪れた時とは全然違う。坂道だって、二人で話しながら登っていればあっという間な気がしたのに。
 今日は、公園前の道のりがとても長い。

「はあ……はあ……」

 すぐに息が切れてしまって、体力が持たない。十歩進んでは止まり、また十歩進んでは止まる、を繰り返しながらなんとか公園までたどり着いた。
 夕暮れ時の空が、天高く頭上に広がった。出迎えてくれたのは、シクラメンやダリヤ、サザンカなどの秋の花だ。以前来た時とは色を変えた丘の様子に、疲れていた心は一時安らいだ。
 ベンチには座らずに、街を見下ろすことのできる展望スペースへと進む。突き当たりには木製の手すりがついており、手すりの向こうは崖になっている。手すりに肘をかけて、暮れなずむ空を見上げた。
 この空を見ていられるのも、あと数年のことかもしれない。
 今も失われつつある光が、私の元から一気になくなる日が意外と近いかもしれないという不安が押し寄せる。
 空も、花も、街も、ピアノも、全部真っ黒に塗り潰されていく未来を想像して、吐き気が込み上げてきた。
 一度失われた光は、二度と取り戻すことができない。
 白杖で生活を始めてから身に染みて感じていた。これまで、容姿のことで揶揄われて塞ぎ込んでいた日々が無性に腹立たしく思う。
 なんてもったいないことをしてしまったんだろう。
 揶揄われたって、光を失ったわけじゃない。現に、綾人くんに綺麗にしてもらって、自信を取り戻すことができた。
 でも今は——。

「もう取り戻せないよ……」

 吐き出した弱音は宙を舞い、誰にも届かない場所で落ちていく。
 夢とか未来とか、明るい光を連想させる言葉が、頭の中でぎゅっと押しつぶされていく。私には何もない。何も残らない。最後は光を失って、絶望の底で生きていくだけだ……。ピアノだってもう弾けない。一度は頑張ろうと思ったけれど、こんなに早く病気が進行するなら無理だ。頑張れない。夢は叶えられない。綾人くんのそばにいられない。綾人くんの顔が見えない。
 綾人くん……。

「会いたいよっ……」

 ポロポロと溢れ出る涙が、一定の温度を保ちながら顎の先から滴り落ちる。
 空の色は濃い群青色へと変わり、同時に腹の虫が鳴った。けれど、家に帰る気にはなれない。手すりを握りしめた手がひりついて痛かった。
 今、何時なのかも分からない。
 一陣の冷たい風が私の身体を切り裂くように吹き付ける。
 この柵の向こうの空に、飛び立ちたいという衝動に駆られた。
 白杖をその場に捨てて、手すりにぐっと力を入れた。腕の力だけで上るのはかなり力が必要だったが、上手く足をかけてよじ登ることができた。足を柵の向こう側に下ろすと、一気に別世界に来てしまったかのような心地がする。冷たい風が身体の温度を奪っていった。
 未来に光がないのなら、生きていたって仕方がない。
 この崖の向こうに、行ってしまえ。
 その先でもし、違う世界に生まれることができたなら。今度は病気になどならず、綾人くんも私の姿が見えなくなったりしない人生がいいな。あ、でも綾人くんにまた会えるか分かんないか。
 なんて、浅はかなことを考えながら、全身から力を抜いた。
 頭上に輝く月の光は、一切視界に入らずに。
 私は一歩、前へと踏み出す——。