「なんだろう」

 周囲を見回して、匂いの元を探る。

「ケーキ屋さん……?」

 駅前の、赤いひさしのあるケーキ屋さんが目に飛び込んできた。木製の扉の前で、エプロンを着けた男の人が、試食用の小さなケーキを子供たちに配っている。私は、甘い香りに誘われるようにして店の前まで歩いていく。
 赤いひさしには『Perchoir』と書かれていた。お店の名前なんだろうけれど、なんて読むんだろう……?

「そちらのお姉さん。よかったらご試食いかがですか?」

 黒髪の爽やかな店員さんが、店の前でじっとしていた私に、試食のケーキを差し出してきた。ピンク色のムースがスポンジの上に乗っかっている。一番上には、桜の塩漬けが。

「季節限定さくらムースです」

 男性を形容するのに正しい使い方なのか分からないけれど、店員さんは花のような微笑みを浮かべて、ケーキの名前を告げた。
 その人の胸に「中原(なかはら)」という名前のバッジが付いている。中原さん。どうしてか何度も心の中で呟きながら、差し出されたケーキを受け取った。
 試食をするにはマスクを取らなければならない。一瞬、どうしようかと迷ったけれど、中原さんは、私がケーキを口にするのを、期待に満ちたまなざしで見つめている。その瞳に背中を押されて、私はマスクをとった。
 大丈夫。だってここは学校じゃないもん。
 そう自分に言い聞かせながら、とったマスクをポケットにしまう。
 中原さんは私の素顔を見ても、顔色ひとつ変えない。ほっと胸を撫で下ろしつつ、ケーキをぱくっと口に運んだ。

「ありがとうございます。……あ、美味しいっ」

「でしょ!?」

 中原さんが、突然身体をぐいっと私の方に寄せて、瞳をキラキラと輝かせた。ち、近い。店員さんに、この距離で見つめられるなんて経験、今までないよっ。
 私はとっさに、自分の醜悪な鼻や口を見られたことに羞恥心が芽生えた。

「あ、すみませんついタメ口が……。こほん、制服を着てたから、もしかして同い年かなって思って」

「え? それってどういう……」

 私は、中原さんの言うことを理解しようと、彼の目をもう一度じっと見つめる。ぱっちりとした二重まぶたに、男らしいキリッとした眉が印象的だ。背は高く、百八十センチくらいあるんじゃないだろうか。見た目の爽やかさからすると、さぞ異性にモテまくるだろう——じゃなくて。
 彼は今、私のこと、同い年かなって言ってなかった?
 とてもじゃないが、そんなふうには見えない。彼からは大人の男性のオーラが漂っているのだ。

「すみません。こんなこと急に話して。俺、去年の春まで高校に通ってたんですけど今は辞めちゃって。もしまだ通ってたら、高校三年生です」

 高校三年生。
 私と、同じ歳だ。
 心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響く。偶然出会ったケーキ屋の店員さんと、同級生だって分かっただけなのに、どうして。

「あ、やっぱり今の、聞かなかったことにしてください……」

 中原さんの耳がほんのりと赤く染まっている。私は咄嗟に、何か言わなきゃ! と彼の目をじっと見つめた。

「い、いえ、気にしてません。ちょっとびっくりしてしまっただけで。むしろ嬉しかったです。私、学校ではこんなふうに同級生とまともに話すことさえできないから。今日だって、教室から逃げてきて……」

 本当は彼にフォローを入れようと思っていたのに、いつのまにか口から弱音が溢れてしまっていた。

「大丈夫? もしよかったら、こっちのケーキも食べない? 俺のおすすめ。タルトタタン。甘く煮たりんごがたまらないから。あ、今更だけど甘いの嫌いじゃない?」

「は、はい。大丈夫です。いただきます」

 渡されたひとかけらのタルトタタンは、キャラメリゼされたりんごがつやつやと光って、女優さんの肌みたいだと思った。口に入れると、甘いのに少しだけ酸味があって、でもやっぱり甘みに包まれて。

「あれ……なんでだろう」

 しょっぱい、と口にしかけたところで、自分が泣いていることに気づいた。
 ホロリ、ホロリ、こぼれ落ちていく涙は、私の意思とは関係なく、頬の上を滑って顎から垂れていく。

「……すみません。私、どうして。美味しくて、つい涙が」

 羞恥と、申し訳なさと、情けなさとでないまぜになった気持ちが行き場を失う。道ゆく人たちが私をジロジロと見ているのを感じた。

「中、入る?」

 そっと差し出された手を一瞥し、私は中原さんを見上げた。

「落ち着いてから帰るといいよ」

 優しく包み込むような柔らかい声が降ってきた。私は自然と、「はい」と頷いていた。心の中に沈んでいた(おり)が、いつのまにかタルトタタンみたいに、艶を帯びていく。甘い。切ないのに、中原さんの優しさに触れると、甘い気持ちが広がっていた。

「ありがとう、ございます」

 中原さんに言われるがままに、私はお店の中のイートインスペースに入った。空いている席があったので、そこに腰掛けるように促される。

「閉店は十九時だけど、もし必要ならそれ以上いてもらっても構わないって、店長が」

「そんな、申し訳ないです。早いとこ帰ります」

「大丈夫。気の済むまで休んでて」

「中原、レジ回って!」

「はい、今行きます」

 他の店員さんに呼ばれて、威勢良く返事をした中原さんは、私に「じゃあ」と手を振ってレジの中へと入っていく。
 私は、放心状態で中原さんが働く様子を見ていた。
 私の顔を見ても、何も言わなかった中原さん。もしかしたら心の中では引いていたかもしれないけれど、それでも、態度には出ていなかった。同級生で、初対面なのに優しくしてくれて。私は、胸の奥底が何度も疼いた。

 夕暮れ時の橙色の光が街全体を覆っていたのに、いつのまにか空は群青色に染まっていた。『Perchoir』を出る時、レジ奥にいる中原さんと軽く視線を合わせて、小さくお辞儀をした。

「ペルショワール。フランス語で“止まり木”って意味なんだ。また疲れたら、いつでも来てください。なんてね」

 店の名前の意味を教えてくれた中原さんは、片手を上げて私を見送ってくれた。
 ペルショワールって読むんだ。止まり木だって。その名の通り、甘い香りにふと立ち止まりたくなる。確かに、疲れた身体にも心にも、甘いものは身に染みる。さくらムースもタルトタタンも、しょげていた私の心を一気に溶かしてくれた。
 残り一駅、歩いて帰るのは確かに疲れたけれど、店員さんの優しさに触れたあと、少しだけ心には元気が戻っていた。