家に帰り着くと、俺は逸る気持ちでスマホの画面を見つめていた。「羽島鈴」というアカウントのアイコンは、俺が出会った時から変わらないままだ。彼女のことが見えなくなってから、俺は無意識のうちにこのアイコンを見ることさえ避けていた。でも、もう逃げたくない。きっと今なら大丈夫。俺の中で花蓮に対する想いが変化し、良い方向に浄化された。あとは鈴ちゃんと向き合うだけなのだから。
 久しぶりに彼女の連絡先をタップして、通話ボタンに触れた。
 電話なんて、いつぶりだろうか。
 彼女との連絡はメッセージですることが多かったけれど、会えない日や夜寝る前に電話をしたのが懐かしい。まだ交際を始めて半年しか経っていないのに、俺の思い出の中で、鈴ちゃんが恥ずかしそうに笑う顔や弾んだ声がどんどん大きくなっていた。
 ワンコール、ツーコール、スリーコール。
 通話開始を待つまでの間、文字通り心臓が爆発しそうだった。
 急に電話をして、とってくれる確率は低いように思える。今まで鈴ちゃんのことを放置してしまっていたから、彼女は怒って通話ボタンを押してくれないかも。でも、電話に出てくれるか、出てくれないかの不安は、俺が今まで彼女に与えた不安に比べたら、きっとどうってことない——。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

 何コール目かのコール音の後に、耳に届けられた機械音声は、俺の心臓を痺れさせた。
 使われていない? 
 一瞬、通話相手を間違ってしまったのかと思った。でも、発信履歴を見るとちゃんと「羽島鈴」と表示されている。
 鈴ちゃんが、電話を解約した……?
 一体どうして。
 胸騒ぎがした俺は、彼女にメッセージを送った。当然のように、すぐに「既読」はつかない。少し待ってみる価値はあるけれど、俺の中で何か、警告していた。頭の中に鳴り響く想像上のサイレンに、耳を塞ぎたくなる。

「鈴ちゃん、何かあったのか……?」

 咄嗟に思い浮かんだのは、昨日赤城圭が言っていた、「鈴ちゃんの様子が最近おかしい」という言葉だ。彼は、鈴ちゃんが白杖を持って歩いているところを目撃している。それだけ病気が進行しているということだ。

「もしかして鈴ちゃん、自暴自棄になって……」

 嫌な予感はベーキングパウダーを入れすぎたケーキみたいにどんどん膨らんでいく。
 鈴ちゃんが進行する病気に絶望して自暴自棄になったとしても、ありえないことじゃない。

「……っ」

 いてもたってもいられなくなった俺は、すぐに家を飛び出した。
 鈴ちゃんの家には、一度ご家族が留守の日に遊びに行ったことがある。うちから電車で一駅だから、すぐに辿り着けた。
「吉田」と書かれた表札の家が鈴ちゃんの家だ。吉田家の玄関の扉の前でチャイムを鳴らす。伯母さん夫婦には会ったことがないので、緊張はした。でも、今はその緊張を上回る緊迫感に、心が動揺しまくっている。
 時刻は午後七時、普通の家庭なら夕飯時なので多少の罪悪感はあったものの、いち早く鈴ちゃんの安否を確かめたかった。
 もし鈴ちゃんが普通に家にいて何事もないのならそれでいい。今まで鈴ちゃんと離れていたことを、精一杯謝る。もしかしたら彼女の気持ちは俺のところにもうないかもしれない。それでも、鈴ちゃんのことを大切に想っていると伝えたかった。

「はあい」

 カチャリ、と玄関の扉が開いて出て来たのは、エプロン姿の中年の女性だ。一目で鈴ちゃんの伯母さんだと分かる。俺は「こんばんは」と咄嗟に頭を下げた。

「あら、どちら様?」

 俺を見た伯母さんの目が、不安そうに泳いでいる。突然尋ねて来た知らない男を見て戸惑うのは無理もない。

「突然お訪ねしてすみません。俺、中原綾人といいます。鈴ちゃんと——交際させていただいている者です」

 恋人の家族に向かって、「彼氏です」と名乗るのは妙に恥ずかしく、大人な言い回しを使ってみた。伯母さんは「まあ」と目を丸くして何か言いたげな表情になる。

「鈴ちゃんの、彼氏さん……? あの子、お付き合いしている方がいたのねえ……知らなかったわ」

姪っ子の彼氏の存在に純粋に驚く伯母さん。しかしその直後、彼女は不安そうに眉を顰めた。

「ねえ、あなた。鈴ちゃんの居場所知らない? 実はまだあの子帰って来てないのよ。いつもなら、遅くなる時には連絡が来るんだけど……」

 伯母さんの不安は俺の不安と見事に一致していた。
 俺はすぐに首を横に振る。

「実は俺も、彼女の居場所を探しているんです。お恥ずかしながら、ここ数ヶ月間彼女とはその——喧嘩、をしてしまいまして……。さっき久しぶりに連絡を取ろうとしたら、電話を解約したようなアナウンスが流れてきて」

 むろん、まだメッセージへの既読もついていない。
 伯母さんは「そうなの?」と首を傾げた。

「電話を解約……? そんなこと、言ってたかしら。勝手に解約するなんて、何かあったんだわ……。もしかして、陽子のことを知ってしまったのかしら……」

「陽子? それって」

「女優の羽島陽子よ。鈴ちゃんのお母さんで、私の妹なの。最近活動を休止したんだけど、その理由を、鈴ちゃんはまだ知らないはず
だったんだけど……。もしかしたら陽子から連絡が来て、知ってしまったのかもしれないわ」

 鈴ちゃんがあの羽島陽子の娘であると知って素直に驚く。でもそれ以上に、伯母さんの話を聞くと鈴ちゃんの精神状態が不安になった。

「羽島陽子が活動を休止した理由って、何なんでしょうか?」

 たとえ恋人だとしても、他人である俺に、彼女が込み入った話を教えてくれるかどうか、分からなかった。でも伯母さんは、俺の目をじっくりと見つめたあと、やがて口を開いた。

「これはあなたのことを信用して話すことだから、絶対に誰にも言わないでほしいのだけど。実はね——」

 伯母さんは、妹である羽島陽子が活動休止に至った経緯を訥々と話し始めた。
 俺は、彼女の言葉を一つずつ飲み込んでは、驚きを隠せずに固まってしまう。

「……というわけなの。だからもし、鈴ちゃんがこのことを知ってしまったのなら、自暴自棄になってもおかしくないかもしれないって思って……」

 伯母さんの不安そうな表情が、想像の中の鈴ちゃんのそれに重なる。
 きっと鈴ちゃんは今、誰よりも大きな不安を抱えている。
 鈴ちゃんの不安を拭ってあげられるのはたぶん、この世界で一人だけだ。
 いや、俺が彼女の心を救ってやらなくちゃ、いけないんだ。

「伯母さん、大切な話を聞かせてくれてありがとうございます。鈴ちゃんを、必ずこの家に送り届けます。俺を信じてくれませんか?」

 俺は、未だ不安に揺れる彼女の瞳を見つめながら聞いた。
 彼女は少し考え込んだあと、ゆっくりと首を縦に振る。

「ええ、分かりました。今日一日、あなたのことを信じて待っています。鈴ちゃんは理由もなく姿を消すような子じゃないから。恋人のあなたにはあの子の気持ちが分かっているんでしょう? 私はたぶん、同じ家で暮らしていても、鈴ちゃんのすべてを、分かってあげら
れないから」

 本当の親子には、どうしたってなれないものね。
 最後にそう呟いた伯母さんの声は、夜の闇にゆっくりと溶けていった。