赤城圭が再び俺の元にやって来たのは、十月三十一日、ハロウィンの日だった。
 俺は一ヶ月前から仕事に復帰していた。鈴ちゃんと距離を置いたことで、少しだけ冷静に自分を見つめることができるようになった。叔父さんにこれまで休んでいたことを詫び、再びパティシエという夢に向かって修行に励もうとしていた時だ。

「久しぶりだな」

 繁忙期のこの時期にやってきた赤城圭は、前回見た時と違い、長袖のワイシャツを着ていた。部活帰りなのか、涼しい季節にも関わらず額にびっしょりと汗をかいている。
 お客さんの波が減った閉店三十分前、すっかり日も暮れて閉店作業に追われている時間帯だった。

「赤城くん。俺に何か用? もしかして、ハロウィンケーキを貰いに来たんじゃないよね?」

「アホか。そんなんじゃねえ。お前に用がなくちゃ、こんなところで電車降りねえよ」

「それもそうだね。……悪いけど閉店まで待ってもらえる?」

 俺の提案に納得してくれたのか、不貞腐れた様子で彼は外のテラス席に座った。
 それから三十分間で閉店作業をし、同僚が帰っていくのを見送る。テラス席で頬杖をついている赤城圭の前に、ケーキの箱をトンと置いた。

「なんだよ、これ」

「売れ残りのハロウィンケーキ。この間のお詫びもかねて、よかったら食べて」

 箱の中から取り出したのは、オレンジ色のスポンジの上に、オバケの砂糖菓子やチョコレートでできたカボチャが乗ったショートケーキだ。毎年人気のハロウィン・オレンジケーキ。一つだけ売れ残ってしまったので、彼に食べてもらうのにちょうど良かった。

「こんなもんで俺を懐柔しようってか?」

「まさか。俺は純粋に、自分が作ったケーキの感想を聞きたいだけ」

 俺の回答が腑に落ちなかったのか、むすっとした表情のまま、彼はケーキにかぶりついた。一口目でショートケーキの半分くらいの量を食べる。豪快な食べっぷりに、俺は「おお」と感嘆の声を漏らす。
 赤城圭はもぐもぐと口を動かした後、ケーキをじっと見つめる。それから、何かのスイッチが入ったかのように残りのケーキも貪り食べるようにして口に入れた。どうやらお気に召したみたいで、自然と笑みが溢れてしまう。

「……うまかった」

 唇の横についたクリームを拭うと、彼はボソッとそれだけ呟いた。

「本当に? それは嬉しいよ」

 もっと捻くれたやつだと思っていたのに、素直な感想に驚きを隠せない。

「ああ。これ、お前が作ったのか? 普通に、プロの味じゃん」

「ありがとう。でもまだまだ修行中なんだ。店長から、『綾人は全体的に器用だけど、最後の詰めが甘い』ってよく言われる。もっと、お客さんに喜ばれるケーキを作りたい。それが俺の夢なんだ」

「そうか……そりゃ、惚れるわけだ」

「え?」

 遠い目をしながら呟く赤城圭の様子に、俺は目を瞬かせる。
 トワイライトの薄闇の空に、ぼんやりと月が浮かんでいた。

「鈴、お前にとことん惚れてるんだよ。俺さ、前に鈴に告白したんだ。ちょうど、ここでお前と話した次の日に。俺の方が鈴を幸せにできると思った。……でも鈴は、お前のことがやっぱり好きなんだって。夢を見つけて頑張る姿をお前に見せるんだって。バイトしてお金貯めて、ピアノのレッスンまで通って、すごく頑張ってた。お前に、光を見せてあげられるようにって——」

 とくん、とくん、とくん。
 心臓の音がどんどん大きくなる。
 鈴ちゃんと交流が途絶えてから、三ヶ月が絶とうとしている。その間、俺はずっと彼女から目を背けてきた。そうすることでしか手に入らない平穏があったから。
 でも、鈴ちゃんは違ったのか。
 鈴ちゃんは、ずっと俺のことを考えて、俺を励ますために夢に向かって進んでいた?
 鈴ちゃんだって、目の病気で辛い思いをしているはずなのに。
 俺は、そんな鈴ちゃんに何一つ希望を与えてあげられない。逃げてばかりで、鈴ちゃんと向き合おうとしていなかった。

「でもあいつ、最近様子が変なんだよ。俺には隠してるつもりみたいだけど、あいつが落ち込んでるのなんてすぐに分かっちまう。学校に行く時、白い棒——あの、目の不自由な人が使う棒があるだろ? それを持ってて、裏道にさっと入っていったんだ。見間違いじゃなかった。俺、びっくりして何も声をかけられなくて。鈴は俺を避けてるから、鈴が何に悩んでるのか、俺は分からないんだ……」

 絶望の滲む声で赤城圭が話し出す。
 鈴ちゃんが、白杖を持っていただって? 
 彼女の病気はそれほど早く進行するものだっただろうか。
 驚きと同時に、胸に鋭い痛みが走る。
 ああ、どうして俺は。どうして鈴ちゃんが大変な時に、彼女のそばにいてあげられないんだ。

「……頼む。中原、お前が鈴のそばにいてやってくれ。俺じゃ、意味ないんだよ。俺じゃ鈴を、救ってあげられない。鈴に光を見せてあげられない。たぶん、お前じゃなきゃダメなんだよっ」

 棒立ちになっている俺の両腕にしがみつくようにして、赤城圭は鼻水を垂らし、俺に懇願するようなまなざしを向けた。その目に宿る光の珠が、彼が鈴ちゃんを想う気持ちを映し出す。俺なんかよりずっと、強くて美しい想い。俺は、鈴ちゃんのために、何ができる?

「赤城、圭くん」

 キリキリと痛む胃から搾り出すようにして、彼の名前を呼ぶ。
 俺は……本当は悔しかったんだ。
 鈴ちゃんのことを本気で好きなのは俺なのに。
 鈴ちゃんを幸せにできる自信があったのに。
 鈴ちゃんの姿が見えなくなって、自分自身に絶望していたんだ。
 彼女のそばにいたいのに、そばにいればお互いが辛くなってしまう。
 だから逃げた。彼女の姿が見えないことを、悩まなくて済むように。彼女の前から姿を消した。訪れた安寧の日々は退屈で、何かが欠けていた。
 こんなふうに、鈴ちゃんのことを心から想うきみを見ていると、俺は胸が張り裂けそうになるんだ……。
 鈴ちゃんをいちばん想っているのは俺じゃなきゃ、ダメなのにって。

「俺は……鈴ちゃんのそばにいても、いいのかな」

 口から溢れ出た言葉は、自分でもびっくりするくらい弱く、まるで自分の言葉じゃないみたいだった。

「当たり前だろっ。認めたくないけど、お前じゃないとダメだ」

 当然のように肯定してくれる好きな人の幼馴染は、鼻水をずずーっと啜った。

「……分かった。その言葉を信じる。俺は、鈴ちゃんに会いに行くよ」

「そうしてくれ。……鈴のこと、頼んだぞ」

 いろんな想いがあったに違いない。今、赤城圭の胸の中は、夕暮れ時の空が群青色に染まっていくみたいに、さまざまな色が混ざっているだろう。俺は、そんな彼の複雑な気持ちを背負って、彼女に会いに行かなければならない。

「赤城くん、ありがとう。それから、先日は失礼な態度とってごめん。またみんなでご飯でも行こうよ」

「ふん、やだね。俺は鈴と二人でご飯に行く」

 こんな時にまで悪態をついてくる彼の根性に、俺は思わず笑ってしまった。
 鈴ちゃんのそばに、彼のような友達がいてくれて良かった。
 心の底からそう思える瞬間だった。