そうしている間に季節は巡り、十月終わり、秋も深まる時期に差し掛かった。
 世間は半月後に迫るハロウィンの華やかな空気に彩られている間、私は受験する大学を決めた。伯母さんの家からは通えない東京の大学だ。奨学金を借りて、一人暮らしをしようと思っている。そう伯母さんと伯父さんに告げると、「鈴ちゃんの決めたことなら」と応援してくれた。
 綾人くんとの関係を除けば、私は将来への道を着実に進んでいるように見えた。
 ……でも。

「あれ……おかしいな」

 いつものように学校から帰宅して一通り勉強をした後、ピアノの前に座るといつもよりもぐっと視界が狭まっているように感じた。なんだろう。普段は視界の四分の三見えているのに、急に半分しか見えてなくなっている。ゴシゴシと目を擦り、何度も瞬きを繰り返しても、やっぱり変わらなかった。
 焦りながら鍵盤に指を触れて、練習中のショパン『幻想即興曲』を弾き始める。右手や左手の動きが鍵盤の端の方に広がるたびに、見えないというストレスに打ちひしがれそうになった。それでも、指が鍵盤の位置を覚えているのでなんとなく演奏することはできる。だが、これまでよりも圧倒的にミスタッチが増えたのは間違いなかった。

「なんで急に……」

 医者は、数年かけて進行する病気だと言っていた。
 こんなに突然見えなくなるなんて思ってなかった。

「……っ」

 たまらなくなって、鍵盤から指を離す。最後に響いた不協和音が部屋の中で余韻を残した。

「嘘でしょ……こんなの、嘘だ」

 とめどなく溢れる涙が鍵盤の上を濡らしていく。木製の楽器は水分に弱い。普通なら慌ててハンカチで拭くのだけれど、今はそんな気にすらなれなかった。
 ダン、と鍵盤をぐちゃぐちゃに押さえつけると、不快な音がジワリと響き渡った。どうして? このままピアノを練習して、勉強を頑張って大学に合格して。在学中もピアノに励んで、ピアノで生きる道を探そうとしていたのに。
 私には、そんな些細な夢を追うことすら、許されないのだろうか……。


 翌日、昨日のこともあり学校を休んで病院に向かった。担当の足立先生は私の目の検査をした後、渋い顔をして言った。

「病気が、思ったよりも早く進行していますね。ちょっと稀に見るケースで、もう少し詳しく見なければ分かりませんが……。羽島さん、この様子だと白杖を使った方が良いかもしれません」

「そんな……」

 白杖を持って、この先一生生活する?
 そんな未来がすぐそこまで迫っているとは考えず、先生の言うことを信じられない気持ちで聞いた。

「なんとか、治す方法はありませんか!?」

 いつになく私が取り乱したせいか、足立先生の表情に苦悶の色が滲んだ。先生を困らせていると分かっていても、迫り来る非情な現実に、打ちのめされそうだった。

「最初にも話した通り、治療法は確立されていません。本当に、私としても悔しい限りです……。せめて羽島さんの生活が不自由にならないように、全力でサポートします」

 悔しそうな先生の表情を見て、熱くなっていた頭がすーっと冷えていくのが分かった。

「すみません、先生……。私、どうかしていました。白杖、考えてみます」

「いえ……病気のことで苦しいと思うのは普通のことです。またいつでも相談に乗ります」

 何もできない無力さに肩を落とした先生の姿が脳裏に焼き付いた。先生は、近くに盲人福祉施設のライトハウスがあるからと教えてくれた。私はそこで、二週間ほど白杖を持って歩く訓練を受けた。初めてのことで戸惑いを隠せない私に、相談員の方たちは優しく指導してくれた。
 いざ、白杖を持って路上に出てみると、思いの外使うのに躊躇う自分がいた。
 白杖を持っているところを、知り合いに見られたらどうしよう。
 恥じることは何もないはずなのに、高校生の自分が白杖を持って歩くことに、羞恥を覚えた。

「綾人くん……」

 もう三ヶ月近く、彼と連絡が取れていない。でも、私はずっと彼に私の夢を見せたくて、頑張ってきた。
 だけどもう、無理かもしれない。
 夢に向かって一直線に進めると思っていた。多少ハンデがあっても、それすら乗り越えて、生きていこうと誓った。私が彼の光になればいいんだって。
 綾人くん。
 私は、あなたに会えない。
 夢を見つても、すぐに失ってしまうような私が、あなたに合わせる顔なんてない。
 白杖をひた隠しにして学校に登校したあと、トイレの個室の中で涙が枯れるほど泣いた。

『私の未来に、もう光はないかもしれない。本気でそう思った瞬間でした』