家に帰ってから、私は近所のピアノ教室を探し始めた。
 私も綾人くんのように、夢に向かって全力で走ってみたかった。彼が追い求めるものを、少しでも肌で感じていたい。ジャンルは違えど、夢を追うということを知って、綾人くんの心に近づきたいと思った。今の私にはそれぐらいしかできない。でもこれは、大きな一歩だ。
 ピアノ教室はいくつか見つかったけれど、どの教室も一ヶ月で一万円ほどの月謝がかかる。私のお小遣いは月五千円だから、貯金をすればなんとか払えるかもしれない。でも、少し貯金が貯まるまで時間がかかる。伯母さんに話してお小遣いを上げてもらう? ピアノ教室に通いたいと訴えてみる? うーん、どちらも伯母さんに気を遣わせてしまうし、これでは自分で努力をしたと言い難い。
 となれば、取れる手段は一つだ。
 ピアノ教室と共に、アルバイト先を探すことにした。
 レストラン、カフェ、塾講師、居酒屋、コンビニ……いろんな職種があったが、目の病気を抱えている私にとって、接客業はかなり不安だ。それならばコールセンターや工場など、直接お客さんと接しない仕事はどうかと思ったけれど、どちらも高校から帰ってきてこなせるような仕事ではなさそうだ。

「どうしよう……」

 ネットで見つけた求人サイトには似たような職種ばかりで、自信を持ってできそうな仕事がない。やっぱりアルバイトは無理なんだろうかと諦めかけた時、ふとある記事が目に留まった。

 #文字単価一円/一文字。一記事三千文字〜。初心者歓迎! あなたの人生体験を記事にしませんか?
 
「人生体験を記事に?」

 そこに書かれていたのは、自分のこれまでの経験をなんでもいいから記事にするという仕事だ。一文字一円という報酬はわかりやすいが、これまであまり文章を書いたことがない私にとって、三千文字を書くのがどれくらい大変なことなのか、あまり想像がつかない。
 でも、この仕事なら人目に触れずにお金を稼ぐことができる。
 一記事三千文字なら、一ヶ月に四記事書けば、一万円以上稼ぐことができる。しかも、学校終わりの好きな時間に仕事に取り組めるのだ。
 求人内容をじっと見つめていた私は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 この仕事なら、私にも挑戦できるのではないか。
 散々考えた末に、プロフィールを打ち込んで、「応募する」ボタンを押した。

 応募した仕事は二日後には採用を受けて、早速仕事に取り掛かった。人生体験がテーマなので、私は自分の目の病気のことについて書き綴る。

『私は、網膜色素変性症を患っています。視界の端がぼやけてどんどん見えなくなる病気です。この病気と闘いながら、一つの夢に向かって進むことを決めました』

 体験談を書いている最中、何不自由なくこなしていた動作の一つ一つが困難になったことを思い、泣きそうになった。だけど、まだ私にはこうして文字を打つこともできているのだ。まだ。まだ今は頑張れる——。
 夢中で書き綴った記事は、意外にもすぐに三千字を超えた。もともと、心の内側であれこれと考えることが多かったのが、功を奏したのかもしれない。
 記事を書くと同時に、いくつか体験授業に行ったピアノ教室の中で、一番自分に合う先生のところへ通うことにした。月謝は月末に渡すことになっているので、アルバイトと同時進行で先生からピアノを習い始めた。
 先生は、私が網膜色素変性症だということを知ってとても驚いていた。でも、すぐに優しく微笑んで、

「盲目の方の中には、聴覚に優れている方が多くてね。そういう方ほど素晴らしい演奏をするの。だから鈴さんもきっと、上手くなれるわ」

 と教えてくれた。
 私は伯母さんの家に転校する前までピアノを習っていたので基礎はできているものの、細かい指の運びや、曲の細部までこだわる力がまだ足りていなかった。先生の教室に通うたび、先生はその曲に込められた作者の想いや、鍵盤をどれくらいの力で抑えるなど、とても細かい内容まで指導してくれた。一人で練習していたのとはまったく違う。私は、自分のピアノがメキメキと上達していくのを肌で感じていた。
 週一回のレッスンの日以外は、部屋でピアノを猛練習した。伯母さんから「最近頑張ってるわね」と言われて、誇らしい気持ちになる。けれど、まだ足りない。もっと、もっと、上手くなって、ピアノで生きる道を探したい。だから、先生の厳しい指導にも必死に食らいついた。
 一ヶ月が経った頃、記事の仕事で初めてのお給料が入った。ちょうど四記事書くことができたので、稼いだお金でピアノの月謝を支払って一息つく。翌月も、また次の月も、仕事とピアノ、もちろん学校の勉強もすべてに精を出していたので、忙しすぎる毎日だった。でも、心はずっと満たされている。綾人くんと、まともに連絡すら取れないほど忙しいのに、夢に向かって突っ走っている自分が、誇らしかった。