「鈴、マスク……」

 先ほどから私の顔を凝視している圭が、ばつの悪そうな苦い表情を浮かべていた。
 え、マスク?
 圭の囁き声に、私ははっと自分の頬に触れる。
 マスク……。え、マスクがない!?
 頭からサアッと血の気が引いていくのが分かる。
 相変わらず私の方を見ているクラスメイトたちの視線が、私の顔に向けられていることに、すぐに気づいてしまった。

「あれ、羽島って……」

「もしかして、マスク美人?」

「てか、マスクでも別に美人ではないような……」

「おい、声がでかいぞ」

「ああ、ごめん。でも、鼻と口のバランスがなんというか……」

「今日の古文で出てきた『末摘花』みたいだな」

 シンと静まり返る教室にこだまする、私の容姿に対する評価の声。瞬時に耳を塞ぎたい衝動に駆られた。いや、それよりも身体中の毛穴から汗が吹き出して、心臓の音がうるさいくらいに響いている。 
 ど、どうしよう……!
 素顔をみんなに見られてしまった……。
 私は、目の淵に涙が溜まっていくのを感じながら、傍に落ちてあったマスクをさっと取ってまた口に装着した。

「……」

 そんな私の様子を、固唾を飲んで見守っている圭と、クラスメイトたち。何かを言いたそうな顔をして、全員が私の行動を見つめているようだった。

「……っ」

 とうとうこの淀んだ空気に耐えられなくなった私は、鞄を持つのも忘れて教室から飛び出した。

「す、鈴!」

 後ろから、私を呼ぶ圭の声が聞こえる。でも私は振り返ることができない。
 長い廊下を一気に走り抜けて階段を駆け降りる。昇降口で下靴に履き替えた私は、身一つで学校を飛び出した。
 いやだ、いやだいやだ。
 こんな顔、誰にも見られたくないって思ってたのに!
 どうして……どうしてこんなことになるんだろうっ。
『末摘花』みたいだな。
 そうだよ。私って、まるで末摘花なんだよ。あの、光源氏から惨めな評価をくらった女と同じ。
 本当は……本当はずっと、昔読んだ物語のお姫様みたいに、可愛くなりたかった。
 シンデレラに白雪姫、美女と野獣——どの話も子供の頃に読んで憧れたヒロインたちだ。あらゆる障害を乗り越えて、彼女たちは最後には必ず幸せになる。
 私は……私はどうなんだろう。
 ふと自分の足元に視線を落とした。
 一年生の時から履いている黒いローファーが、所々傷ついてくたくたになっている。このローファーは一緒に暮らしている伯母さんに買ってもらったものだ。本当は、一年に一回くらい買い替えたいのだけれど、伯母さんにそんな図々しいことは頼めない。ただでさえ、私という子供の面倒を押し付けられているのに。

「はあ……」

 ため息ばかりついてると、幸せが逃げるぞ。
 圭から何回も言われた言葉だ。弱気になっていると、いつも圭の顔が浮かぶ。仲の良い友達と呼べる人が圭しかいないから。もっとも、圭は友達というより、腐れ縁の幼馴染ってだけかもしれないけれど。
 勢い余って学校から飛び出したのはいいけれど、私は今、スマホ以外何も持っていない。定期券も鞄の中だ。その鞄は教室に置いてきた。学校から家まで四駅分で、歩くとたぶん一時間ぐらいかかる。

「一時間かぁ」

 歩けないほど長い時間ではないけれど、かなり疲れることは予想できる。もう一度教室に帰って鞄を取りに帰る? いやいや、それはできない。だってあの教室にはまだ、私の素顔を見たたくさんのクラスメイトたちがいるだろうから。圭にだって、もう一度会うのは気まずい。
 そこまで考えて、私はふっと息を吐く。
 歩こう。私が、教室から逃げ出したんだから。自分の意思でみんなの視線から目を逸らしたんだから。
 いや、ずっと昔から、逸らし続けてきたんだ……。
 ドジで天然で不細工だって言われることに真正面から傷ついて、反論すらしてこなかった。本当は私のこと、外見や性質だけで判断していない人だってクラスにいたはずなのに。私は、向かってくる牙からひたすら逃げてきた。
 だから今日も、ひとりで歩くのだ。
 茜色の空に、カラスの群れが黒い染みをつくっていた。
 普段電車で颯爽と通り過ぎる街も、歩いていると違った風景に見えた。知らない風景に出会えた。
 たとえば、駅前のビルに新しい商業施設ができたんだ、とか。
 路地裏の道に、おしゃなイタリアンカフェがあるんだ、とか。
 小高い丘の上から見下ろす景色が、夕暮れ時の暖かな光に包まれて、胸を焦がしていくのとか。
 感傷的な気分で歩いていたからか、余計細かい街並みや風景まで目に焼きついていく。こういうノスタルジックな気分に浸っているとき、もしも隣に大切な人がいてくれたら——なんて、叶わない妄想をしては、通り過ぎる人たちのあくせくとした足取りの前で弾けた。
 一駅、二駅、三駅。
 何十分もかけて、ようやく三駅目まで辿り着いたとき、ふと鼻を掠める甘い香りに背筋がピンと伸びた。