翌日の月曜日から三週間、俺は仕事を休んだ。
 その間鈴ちゃんとはまったく連絡が取れていない。あんな別れ方をしたので、彼女の精神状態が心配ではあった。でも、すべての元凶である俺の方から連絡をするのも憚られて、何もできない状態が続いた。
 職場のバックヤードで叔父さんに全ての事情を説明すると、彼は渋い顔をして「そうか……」と呟いた。

「俺はさ、この前初めて鈴ちゃんと話をしたけど、この子なら綾人のことを支えてくれるんじゃないかって、期待してたんだよ」

「……うん」

「綾人がさ、あの事件から少しずつ立ち直って、やっとまた前を向けるようになったのは、相手が彼女だからだって思ったからさ。今すぐに考えを改めろとは言わない。でも、鈴ちゃんとはちゃんと向き合うべきだ」

「……そうだね」

 叔父さんの言うことはあまりにもその通りすぎて、逆に俺の右耳から左耳へとすり抜けてしまう。
 俺だって、できることならこのまま鈴ちゃんの隣にいたい。
 サナギから美しい蝶に生まれ変わっていく彼女を、この目に焼き付けておきたい。
 でも、そうすることがお互いにとってプラスになるのかと考えたら、違うような気がして。今は誰にも、自分と鈴ちゃんのことを決められたくなかった。

「また何かあったらすぐに連絡しなさい。俺は綾人のこと、可能な限りサポートするから」

「ありがとうございます……」

 叔父さんの優しさが、胸に沁みて痛かった。俺はまだ他のスタッフが来る前にお店を出て、そのまま家に帰ろうと、駅まで一直線の道を進もうとしたのだが。

「おい、中原綾人」

 不意に男の子の声がして、俺ははたと振り返る。

「やっぱり中原綾人、だな」

 そこに立っていたのは鈴ちゃんと同じ光が丘高校の校章をつけた制服を着た男の子。祭りの日に数人の男子グループで鈴ちゃんに話しかけてきた私服の彼の記憶と面影が重なる。名前は確か、赤城圭くんだったか。彼女の幼馴染だと言っていた。学校終わりらしい彼は、キリッとした眉毛を吊り上げて俺を見据えている。

「きみは、赤城くん、だよね。どうしたの、こんなところで」

 時刻は午前八時。あと一時間もすれば学校が始まるのではないかという時間帯に、わざわざ『Perchoir』までやってくるなんて、俺に何か物申したいことがあるに違いない。彼が何を話に来たのか、大体の予想はついた。

「どうしたの、じゃねえよ。しらばっくれるな。お前、鈴に何したんだ?」

 ……ほら、やっぱり。
 彼のまっすぐな視線は、今の自分にはまぶしすぎて。俺は咄嗟に目を逸らしてしまう。

「……別に何も。きみが心配するようなことは何もないよ。喧嘩もしてないし、今までどおり。ちょっと倦怠期かな? ってぐらい」

 半分本当で半分は嘘だ。悪いとは思うけど、関係が希薄な彼に、俺と彼女についてすべてを話す必要はないと思った。
 彼は俺の返事を聞いて、こめかみをぴくりと持ち上げた。完全に頭に来ている証拠だ。

「……お前、何言ってんの」

 怒りに震える彼の声は俺の耳を浸透し、俺の中の彼女に対する罪悪感をむきだしにする。やめて。やめてくれ。それ以上、言葉を発さないでくれ。

「何もないなら、なんで鈴が泣いてるんだよっ。なんで鈴が傷つかなくちゃいけないんだ! この三週間、学校であいつの様子が変だから聞いてみたんだ。そしたら、はっきりとは言わないけど、お前と何かあったんだってすぐ分かったんだ! なあ、鈴の彼氏なんだろ? だったらちゃんと、あいつのこと守ってやれよっ! それが彼氏の役目だろ!!」

 胸ぐらを掴む勢いで俺に詰め寄る彼。額の血管が浮き出て、今にも鮮血が飛び散ってきそうだ。
 鈴ちゃんが、泣いてる。
 分かってはいるつもりだったけれど、第三者から聞かされたことに心臓がドクンと大きく跳ねた。苦虫を噛み潰したような気分になり、目の前の男を直視できない。

「……クソッ」

 俺が何も反応を示さないと分かると、手応えを感じられなくなった彼は掴んでいた俺の襟首を離す。勢いづいて後ろに倒れそうになった身体をなんとか制御した。

「これ以上お前に何を言っても無駄だってことが分かった。鈴の恋人だからって目瞑ろうと思ってたけど、もう容赦しない。俺の方が鈴を幸せにできる。鈴のこと、どうなっても知らないぞ!」

 充血した目で俺を睨みつける赤城圭は、本気で鈴ちゃんのことが好きなんだろう。
 今の自分に、この男に勝てるだけの自信はあるだろうか?
 彼女の存在を認められないというのに、鈴ちゃんのことを幸せにできる自信が、ない。

「好きに、したらいい」

 半ば投げやりとも取れる台詞が自分の口からこぼれ落ちた時、いよいよ彼の中で何かのリミッターが外れたかのように、怒りに震え出した。俺は、違う意味で震えが止まらない。  
 彼女を、この男に取られてしまうかもしれないという恐怖。
 それでも、どこかで自分より、彼のような情熱的な人間とくっついた方が、彼女も幸せなんじゃないかって思ってしまう。
 鈴ちゃん……俺は、鈴ちゃんのことがたまらなく好きだよ。
 でも、鈴ちゃんを幸せにできるのは俺じゃないのかもしれない。
 相反する気持ちに整理をつけることもできないまま、舌打ちして駅の改札口へと吸い込まれていく赤城圭の背中を遠く見つめていた。