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 鈴ちゃんのことが見えない。
 昨日、祭りの夜に起こった出来事が、俺の中でずっと現実ではないような心地がしている。今日、鈴ちゃんに勧められるがままに病院に行った。鈴ちゃんは俺の隣にいてくれたけれど、俺はどうしても彼女の気配しか感じることができなかった。
 どうしようもない現実に打ちのめされた鈴ちゃんが病院から飛び出して行ってしまったあと、水崎という医者から聞かされたのは、この脳の誤作動に対する対処法だった。

「中原くん。もしこれからも羽島さんとの関係を続けていきたいと思うのなら、一度恋人関係を解消する必要があるかもしれません」

「それはつまり……鈴ちゃんと恋人じゃなくて、友達としてなら今までみたいに彼女のことが見えるようになるってことですか?」

「そうですね。そういうことになります。でもこれは、あくまで即席の対処法でしかありません。たとえ羽島さんのことを諦められたとしても、また別の誰かと恋人になれば、同じことになる——トラウマを解消しない限りは、これがずっと続いていくと思います」

「……」

 医者が言うのは至極もっともな話で、衝撃を覚える傍ら、頭の片隅ではきっとそうなるだろうと冷静に考えている自分がいた。
 俺は花蓮が亡くなってから、花蓮の死に囚われ続けている。それでも鈴ちゃんという別の女の子を好きになったのは、前を向きたいと思っていたからだ。
 もうあんな悲しいことは二度と起きてほしくないから。次にもし誰かを好きになった時には、本気で素の自分を見せられる人じゃないと嫌だと思った。鈴ちゃんは俺のことをまっすぐな目で見つめ、俺の作ったお菓子を「美味しい」と涙しながら食べてくれた。それが、絶望の淵でもがいていた俺をどれほど励まし、勇気づけたか。
 俺は鈴ちゃんに、心の底から救われていたんだ。


 病院から去っていく彼女を引き止めることもできずに診察が終了し、俺は意気消沈しながら一人暮らしの家に帰宅した。
 途中、銀行のATMに寄って、生活費用の通帳を記入すると、両親から五万円の仕送りが入っていた。
 高校を退学して一人暮らしを始めると両親に宣言したのは、高校退学という親不孝な選択をした自分が、これ以上家族に甘えられないと思ったからだ。自分の食い扶持ぐらい自分で稼がなければ。両親はもちろん反対して、「このまま家にいなさい」と言ってくれたが、俺の気持ちがどうしてもそうさせなかった。何より、花蓮を亡くしたばかりで、両親も俺のことをそっとしておこうと思ったのか、最後には黙って頷いてくれた。
 結果的には叔父さんのお店で世話になっているし、毎月両親から仕送りが来ている。一人で生きていくと誓ったのに、大人のみんなから助けられている自分が情けなくて、一人部屋で悔し涙を流した。

「……何が、一人で生きていく、だよっ」

 叔父さんに雇ってもらえなければ、きっと俺なんてパティシエという好きな仕事をすることすらできていない。
 好きな女の子の心さえ、守ってやれない。

「なんで、どうしてっ……」

 吐き捨てた嘆きが、電気もつけていない誰もいない部屋で、闇に溶けて消える。今日は夕飯を作れそうにないからと、買ってきたコンビニ弁当さえ食べる気がしなかった。