「花蓮……! 花蓮っ!」

 大声で彼女の名前を呼んでも、吹雪にかき消されて一寸先で声が途切れてしまう。足場も悪く、思うように動けない。寒い。雪って、こんなに冷たかったか? こんなに恐ろしかったか? たまに街中に降る雪を見て大はしゃぎしていた自分が世間知らずだったことを痛感する。雪は、決して美しいだけじゃない。人の命を簡単に奪う凶器にもなるのだということを、初めて知った。
 自分でもどこまで歩いているのか分からないくらい進んでいた。もうホテルも見えなくなって、辺りは暗く、視界は吹雪で塞がれていく。もうダメかもしれない、と本気で思った矢先、「あやと……?」というか細い声が遠くから聞こえたのを、俺は聞き逃さなかった。

「花蓮!?」

 声がした方を見ると、彼女が雪の中で突っ伏すようにして転げていた。花蓮の後ろは崖になっていて、思わず足がすくむ。ゆっくりと彼女の元まで進むと、力無く俺を見つめる彼女の目が、痛々しかった。

「花蓮! 大丈夫か!? 今助けてやるからなっ」

「足が……動かないの」

 震える声で呟く花蓮は右半身が雪に埋まっていて、顔の半分まで真っ赤に染まっていた。このままでは凍傷で死んでしまう。命の危機を察知した俺は、急いで花蓮の周りの雪をかいていく。このペースでは間に合わないと分かった俺は、全身の力を振り絞り、手も足も全て使って、彼女を雪から脱出させようとした。
 その時だった。
 ガクッ、という嫌な感触と共に、彼女の半身が埋まっていた雪が、崖の向こうに滑り落ちた。と同時に、花蓮の身体がスローモーションのように斜めに傾いていく。

「わっ」

「花蓮!」

 絶叫した俺は花蓮に向かって思い切り手を伸ばす。彼女も、最後の力を振り絞って俺の手を握った。崖の向こうに投げ出された彼女の身体を片手で支えるような形になり、俺の身体が下へと引きずられそうになった。

「んぐぐぐっ」

 声にならないくぐもった呻き声が口から漏れる。腕がちぎれそうなほど痛くて、気を失いそうになった。それでも俺は、この手を絶対に離したくなくて、必死に彼女の手を握り続ける。
 嫌だ! 花蓮を死なせたくないっ。
 その一心で、俺は腕を伸ばし続ける。

「か、れん。絶対におれが、たすけてやるからっ」 

 掠れた声で必死に彼女にそう呼びかけた。口では虚勢を張っているが、実際は腕が限界に近かった。
 だめだ。諦めるな。花蓮の手を離すな!
 そう自分に言い聞かせるけれど、全身が引きずられて俺の身体ごと崖から落ちてしまう想像が頭をよぎる。
 まずい。このままだと俺まで——。
 恐ろしい想像に何度も身震いしかけた時、不意に俺の手を握る花蓮の手にぐっと力が入った。宙ぶらりんになった彼女に、まだこんなに力が残っていたのかと驚いた刹那、彼女がこう言った。

「綾人……もう、いいよ。ごめんね。ありがとう」

 俺を見上げて涙を流しながら弱々しく微笑んだ彼女は、次の瞬間俺の手を自ら離した。

「え?」

 何が起こったのか、事態を把握するのに相当な時間を要した。
 目の前で重力に身を任せて落下していく彼女が、どんどん遠くなってやがて視界から消える。全身がぶるりと総毛立ち、息が止まりそうだった。

「は……うそ、だろ……。花蓮……なあ、花蓮……? わああああああっ」

 あまりにもショッキングな出来事が目の前で起こったことで、俺の頭は完全にショートした。この事故の後、自分がどうやってホテルまで戻ったのかまったく覚えていない。俺と花蓮を探していた先生たちに保護された可能性もある。どちらにせよ、前後の記憶がおぼろげで、ずっと地に足がついていないような感覚だった。
 花蓮を死なせたのは俺だ。
 俺が花蓮を殺したようなもんだ。
 修学旅行の前日に喧嘩なんかせず、旅行中、二人でずっと一緒にいたなら。花蓮は吹雪の中、林の向こうに取り残されることもなく、崖から落ちることもなかった。
 はたまた、俺が自力で花蓮の周りの雪を排除しようとしなければ。救助隊が駆けつけるのを大人しく待っていれば。
 俺が、花蓮の恋人じゃなければ——。
 全身を駆け巡る後悔が、深い傷となって俺の脳に刻まれていった。
 周りの人間は誰も、俺のことを責めたりはしなかった。俺の両親も、花蓮の両親も、どうしようもない事故だったんだよと、俺を慰めてくれさえした。
 だけど、俺の中では最期に彼女が見せた表情が忘れられない。
 花蓮はきっと、死んだ今でも俺のことを恨んでいるだろう。
 どうして助けてくれなかったの、と泣いているだろう。
 あの日からずっと、俺の中の後悔は拭えないままだ——。