「これは……初めての症例ですね。特定の人だけが見えなくなるなんて、眼科では考えられない病気です。一度脳神経内科で診てもらいましょう」

 翌日の日曜日、私がお世話になっている総合病院に、綾人くんを連れてきた。綾人くんの叔父さんに事情を話すと、アルバイトは休んでいいと伝えられた。叔父さんもかなり心配している様子で、「綾人を頼んだ」と私に彼を託した。

「脳神経内科……分かりました」

 眼科医の足立先生に言われた通りに脳神経内科を訪れる。その間も綾人くんにはずっと私が見えていない。ただ声や息遣いは感じられ
るらしいので、綾人くんの隣で、ずっと話しかけていた。

「何か分かるといいね。原因さえ分かったら治るかもしれないし」

「……」

「あ、ほら、こういうのって一時的なものじゃない!? 私の目みたいに悪くなる一方じゃないって!」

「……」

 私が何を言っても、彼は反応を見せない。目に見えない人と会話をすることに抵抗があるのかもしれない。いやそれ以前に、私と話をする気分じゃないか……。
 受付で名前を呼ばれるのを待って、しばらくすると診察室に案内された。私は緊張しながら綾人くんの隣を歩く。

「よく来ましたね。私は脳神経内科医の水崎(みずさき)と言います。さっそく検査していきたいので、中原さんはこちらへ」

 女医の水崎先生は眼科医の足立先生から話を聞いているようで、早速綾人くんの脳の検査に取り掛かった。私は、彼の身にどんなことが起こっているのか分からず、不安なまま時間を過ごした。
 しばらくして検査が終わると私と綾人くんは再び診察室に並んで座らされた。

「一連の検査が終わりました。結論から言うと、中原さんの身体には何も異常がありませんでした」

「え? 異常がない?」

 予想外の答えに、私も綾人くんも肩透かしをくらう。
 彼の身体に何も異常がない?
 そんなはずはない。だったらどうして、綾人くんには私が見えないの——。
 私たちの疑問を感じ取ったのか、水崎先生は再び口を開く。

「私が言ったのはあくまで、身体的な異常のことです。これは以前学会で聞いた話なので、参考になるか分かりませんが——アメリカで、精神的なストレスが原因で、その原因となった人のことが見えなくなったという症例があるんです」

 ごくりと生唾を飲み込む音が、隣から聞こえた。

「その方は、ご両親から度重なる苦痛を受けていたようです。ある日彼は、ご両親の姿が見えなくなったと言います。その方が成人する歳になり、ご両親と別居するまでずっと。彼の脳は、ご両親から苦痛を受けたことで、その原因である彼らを認識しないようにしていたのです。脳の誤作動、としか言いようがありません。中原さんの症状は、この方の症状によく似ています。中原さんは、なんらかの精神的ストレスが原因で、羽島鈴さんのことが見えなくなっていると考えられます」

 水崎先生の口から紡ぎ出されるアメリカの青年の症例と、綾人くんの症状が私の中で確かに重なった。
信じられない話だけれど、こうして事実として綾人くんの目には異常が起きている。私のような目の病気ではないとすれば、先生が言うように、脳の誤作動と考えても不思議ではなかった。
 隣を見ると、綾人くんも先生の話を聞いて唖然としている様子だ。

「失礼ですが、中原さんと羽島さんはどのようなご関係で?」

「恋人です」

「なるほど。では中原さんは、羽島さんに対して何かストレスを感じるようなことはありますか?」

「いいえ、まったく……」

 かなり不躾な質問だが、綾人くんの症状について的確に把握するためだと思い、私は我慢した。

「それでは、これまでの人生で“恋人”という存在に対して、何かトラウマを抱えるようなことはなかったでしょうか?」

「それは——」

 綾人くんが咄嗟に口籠る。
 昨日、花蓮さんの話を聞いていた私は、綾人くんの抱えるトラウマが何なのか、すぐに分かってしまった。
 綾人くんは、一年と少し前に亡くした元恋人のことを話そうか迷っている様子だった。けれど、彼のことを真剣に見つめる水崎先生のまなざしに射竦められたのか、とうとう「実は」と花蓮さんのことを話し始めた。
 昨日聞いた話とはいえ、彼の口から訥々と語られる悲しい話に、私は再び胸を締め付けられるような心地がした。今、彼の口から紡がれる花蓮さんとの恋の結末は、ただ現実に起こったことだけを淡々と話しただけだ。彼が花蓮さんのことをどれだけ愛し、花蓮さんがどれだけ彼に心を寄せていたのかまでは語られていない。端的に事実だけを先生に伝えていた。

「そんなことがあったのですね。さぞ、お辛かったことでしょう。今のお話を聞いた限り、やはり原因はその元恋人の方が亡くなられたことでしょうね。あなたの心は、最愛の恋人を失ったことで、かなり深く傷ついてしまった。今、新しい恋人である羽島さんのことも、同じように大切にされているんだと思います。でもだからこそ、あなたは怖いんですよね。また失うんじゃないかって怯える心が、脳に誤作動を引き起こしたんです」

「そんな……」

 水崎先生の言葉に、私は思わず口を抑える。
 綾人くんの瞳に私が映らなくなったのは、他でもない私のせいだ。
 私が彼の恋人になったから。
 あまりにも残酷な現実に、打ちのめされそうだった。身体に冷や水を浴びせられたように止まらない悪寒。ガチガチと歯を鳴らして、震える自分の身体を抱きすくめる。

「……鈴ちゃん」

 綾人が目に見えない私の名前を呼んだのが、限界だった。
 私は診察室で腰掛けていた椅子をガタッと引いて立ち上がり、「失礼しますっ」と診察室の扉を開けた。部屋から飛び出す時に、壁に膝をぶつけて鈍い痛みが走る。でも、そんな痛みもお構いなしに、ただ病院から飛び出した。
 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だよ。
 綾人くんの視界から、私がいなくなるなんてっ。
 私のせいで、綾人くんに苦しい思いをさせるなんてっ。
 いや、違う。綾人くんは私と恋人になってから、ずっと苦しかったんだ。また失うかもしれないという恐怖と闘いながら、私の隣で明るく笑ってくれていたんだ。
 ……でも、どうして?
 そもそもどうして綾人くんは、私と恋人になんかなったの? 私が見えなくなるぐらい、花蓮さんを失ったことを引きずっていたのに、どうしてまた私なんかと……。
 コップの縁に溜まっていた水が一気に溢れ出すように、病院から遠ざかっていく私の頭の中は、彼への疑問でいっぱいだった。
 綾人くんが、私を恋人にした理由。 
 それってやっぱり、花蓮さんの代わりだったんじゃないか……?
 もう二度と取り戻せない彼女に、私は似ているのかもしれない。彼女に似た私と恋人になることで、傷ついた心を癒そうとした……?
 そんなはずない。綾人くんに限ってそんな薄情なこと——と頭では否定できるのに、心は彼を疑ってしまっていた。

「いてっ」

 最寄駅まで走っていく最中、すれ違った金髪のお兄さんの肩に、自分の右半身がぶつかった。

「おい、何してんだよっ。ちゃんと前見ろ!」

「す、すみませんっ」

 私を怒鳴りつけたその人は、チッと舌打ちをして私を睨みつけた。その怒りの表情すら、半分ほどしか視界に映らなくて、やるせない気持ちにさせられる。
 その後も、何度もいろんな人にぶつかりながら改札をくぐり、電車に飛び乗った。
 大切な場面で逃げ出してしまった私に、綾人くんはもう呆れてしまっただろう。
 ……それも、いいかもしれない。
 私に愛想を尽かした綾人くんは、私への想いも静かに溶かしてくれる。そうすればもう、彼の視界から私がいなくなることはなくなる。綾人くんにとって、私が大切な恋人でなくなれば、私は彼の前から消えなくて済む。恋人はもう無理でも、せめて友達としてなら、彼と——。

「う、わあああぁぁぁぁぁっ」

 電車を降りて家まで帰る道中に、私はたまらくなって叫ぶ。
 嫌だ。本当はずっと、綾人くんの恋人でいたいのに。私の存在が彼を苦しめてしまう。究極のジレンマに、心が張り裂かれそうだった。
 とめどなく溢れる涙が、頬を滑り落ちて、顎先から行き場を失う。
 私の心とは裏腹に、空は嘘みたいに晴れて、傾きかけた太陽が住宅街を橙色に染め始める。それが余計に悔しくて。
 もう戻らない光を追い縋るようにして、なんとか家までたどり着いた。