それから五分と経たないうちに、花火大会の始まりのアナウンスが流れた。ババン、という花火特有の打ち上げ音が響き、赤色の花が咲き乱れる。わああ、という歓声が一気に上がって、私も思わず「綺麗」と呟いた。

「すごいなあ、花火って。いつ見てもすごく非日常な煌めきだなって思う」

「うん、そうだね。花火はいつも、ときめかせてくれるね」

 でも、私の視界の端っこは、やっぱり何も映らない。限りある視界の中で、端っこの方が入りきらない花火を見て、胸が締め付けられた。こんな花火を見たのは初めてだ。その煌めきが美しいのは違いないのに、どこか不完全なまま、切り取られる。綺麗だな、と思う気持ちと、視界が狭まっていることを実感してしまう虚しさが交差した。

「ねえ鈴ちゃん。花火って炎色反応だって、知ってる?」

 不意に綾人くんが夢のないことを言い始めた。私が不安がっていることを察したのか、その声は妙に明るい。

「知ってる。去年、化学で習ったもん。赤はリチウム、黄色はナトリウム」

「緑は銅、オレンジ色はカルシウム、だね」

 なんて、現実的な話をしているんだろう。隣に座るカップルたちは、素直に色とりどりの花火を見て華やいだ声を上げているというのに。でも、今はこの夢のない会話が、私の心を慰めてくれているのは事実だ。
 まったく、綾人くんはすごいよ。
 私の不安をまるごと拭ってくれる。視界に収まらない花火も、収まらないからこそ感じられる迫力に、今はドキドキさせられているから。人生で一番迫真の花火を見られた。それが、綾人くんの隣で良かったと思う。
 夜空を彩る光の玉と、充満する火薬の匂い。
 じっと神経を集中させると、綾人くんの心臓の音が聞こえてきそうなほど近い距離で、私たちは花火が儚く散っていく姿を幾度となく眺めた。
 やがてフィナーレの花火が続々と打ち上げられる。花火をすばやく連発することを「スターマイン」と言うんだって、去年圭が披露してくれた豆知識を思い出す。鮮やかな花火が何度も目の前で視界を埋めては消えていく。その圧倒的なまでの美しさに、私は息をのんだ。
 最後の花火が上がった。
 枝垂れ桜みたいに落ちていく光の線を目で追いっていると、すっと光が消えた。
 わあ、と湧き上がる歓声と拍手に、私たちもつられて手を叩く。
 拍手の波が湧き起こる時間は数秒のようにも、数分のようにも感じられた。やがて再び静寂に返る会場。ゆっくりと動き出す人波に合わせて、私たちも「帰ろっか」と手を結んだ時だ。

「え、綾人じゃん」

「わー本当だ。久しぶり!」

 後ろから声をかけられて、私たちは同時に振り返る。私の視界の真ん中に映っていたのは、ピンク色と紺色の浴衣をそれぞれ身に纏った女子二人組だ。

「……岡本(おかもと)さんに、松下(まつした)さん。久しぶり」

 綾人くんが二人を交互に見ながら名前を呼ぶ。岡本さんと松下さんは、私と綾人くんをじっと見つめて、「へえ」とどちらからともなく頷いた。

「綾人、彼女できたんだ」

 ピンクの浴衣の子の方が私を一瞥して意味深に呟いた。その声色に、はっきりとした悪意が滲んでいるような気がして、私は綾人くんと繋がれた手にぎゅっと力を入れてしまう。

「ああ、まあ。悪いけど、今日はもういい? 俺たちまだ花火の余韻に浸っていたいからさ」

 綾人くんも、彼女たちとはあまり長く話したくないと思ったのか、さらっと会話を終えようとした。けれど、二人はそんな綾人くんをじっと見つめ返していた。

「ちょっと待って、もう少しだけ。あのさ、綾人はもう花蓮(かれん)のこと忘れたの?」

 綾人くんに質問を投げかけたのは、紺色の子の方だった。綾人くんの肩がびくっと跳ねる。結んだ手に汗が滲み、危うく離れそうになった彼の手をもう一度握り直した。

「……やめてくれ」

 やがてポツリと彼の口から吐き出された拒絶の声に、私ははっと息をのむ。聞いたことのないような、低くくぐもった暗い声だった。
 浴衣の女子たちも同じように感じたのか、一瞬目を丸くして固まった。けれどすぐに、「忘れたんだ」と二人が同時に囁く。いたたまれなくなった私は、「綾人くん」と空いている方の手で彼の腕を揺さぶった。

「綾人くん、行こうよ」

 三人が一体何のことを話しているのか、私には分からない。花蓮という人物のことも、何も知らない。でも、全身で震えている綾人くんが、今この瞬間にとても辛い思いをしているということだけは分かった。
私は、返事のない彼の手をぐっと引いて、帰りの電車の駅に向かう人ごみから横にそれる。岡本さんと松下さんは、そんな私たちについてこようとはしなかった。

「忘れるなんて、ひどいね」

 最後にそう吐き捨てて、そのまま前に進んでいく。大勢の人の中から取り残された私たちは、呆然としながら彼女たちを見送った。