それから私たちは、毎週のようにデートを重ねた。
 街で初めてカラオケに行き、綾人くんの歌のうまさに圧倒された。私はあんまり声量がないので、うまく歌えない。それでも二人きりでカラオケをするのは青春っぽくて、自分にもこんな日常を味わえるのかと感動した。

 学校の定期テストの時期がやってくると、綾人くんに励まされて勉強を頑張った。時々、二人で図書館に行って勉強をすることもあった。綾人くんは、数学の問題と格闘する私の横で、ケーキに関する本を読んでいる。そんな彼の真剣なまなざしを眺めるのが好きで、勉強の手が止まってしまうことがあった。「ちゃんと勉強しないと」と揶揄うように注意してくる綾人くんに対して、「そっちは中退したんじゃん」と軽口をたたく私。二人して笑いが止まらなくなって、勉強どころではなくなってしまったのもいい思い出だ。

 やがて一学期の期末テストが終わり、本格的な夏が来る頃には梅雨も明けていた。
 学校では夏休みの遊びの計画でもちきりなのだが、圭に花火大会に行こうと誘われた。でも、今年は綾人くんと行く予定だったので、圭の誘いを断る。圭は不満気な顔をしていたけれど、
「あいつと行くんだろ」
 と綾人くんのことを察してくれて、引き下がってくれた。圭は、スカイタワーで私と綾人くんを見かけて以来、綾人くんのことを見ていないはずだ。私が綾人くんと交際していることも知らない。たぶん、友達以上恋人未満の関係だと思っている。圭に嘘をつくのは心苦しいけれど、まだ綾人くんとのことを報告しようという気にならなかった。
 圭は花火大会の件で何か私に言いたそうな顔をしていた。でも、実際には私を問い詰めるようなことはなく、高校三年生の一学期はつつがなく終了したのだった。

 朝、目が覚めた瞬間から鳴り響く蝉の大合唱は、夏休みに入ってから日に日に大きくなっている。
 八月三日、土曜日。
 今日は待ちに待った、花火大会の日だ。南大池公園(みなみおおいけこうえん)という、県内でも有数の面積を誇る公園が会場になっている。私や綾人くんが住んでいる地域から、電車を一回乗り換えて行く必要がある。割と街中にある公園なので、交通の便は心配がなかった。
 朝から顔を洗い、学校で配られた夏の課題をサクサク進める。楽しい予定が控えていると思うと、いつもより勉強が捗った。来年の冬には受験も控えている。嫌でも意識してしまう成績このことも、今日だけは頭の隅に追いやりたかった。
 一通り勉強を終えると、ピアノの椅子に腰を下ろした。今練習しているのは、ショパンOp.10-3『別れの曲』だ。『ノクターン』を弾いていた時もそうだが、私はショパンの曲が好きなんだと改めて思う。明るい長調の曲であるはずなのに、時に短調にも聞こえる。曲全体を漂うアンニュイな空気感は、ショパンの曲全体に言えることだ。その中でも『別れの曲』は、わかりやすい盛り上がりの場面があり、そこで感情が一気に溢れ出す。最近は綾人くんと充実した日々を送っているので、彼のことを考えながら、鍵盤に想いを乗せている。盛り上がりの部分では、綾人くんへの想いを溢れさせるようにして、すべての力で音を奏でた。
 いつか、ピアノの演奏を綾人くんに披露する日が来るんだろうか。
 きっと恥ずかしいけれど、聞いてもらいたいという気持ちもある。
 彼が私に、手作りのケーキを食べさせてくれたように。
 私も、夢中になっていることを、綾人くんに知って欲しいと思うから。
 ピアノの鍵盤は横に長いので、下の音と上の音の端っこは、視界がぼやけてよく見えなくなっていた。それでも、長年培った鍵盤に対する感覚を使って、なんとか一曲弾き上げる。ミスタッチをすることもあるけれど、まだ頑張れば病気だとバレない程度に演奏することができた。

「いつか弾けなくなるのかなぁ」

 病気が発覚してから何度も頭の中をよぎった考えが、またふと思い浮かぶ。だめだ、だめ。今日は綾人くんと花火大会に行く日なんだから。こんなことで感傷的になったらいけない。
 ピアノを弾き終えた私は椅子からすっと立ち上がり、壁にかけていた浴衣を羽織る。
 白地に紫色の花がたくさん咲いた、大人っぽい浴衣だ。去年までは黄色い浴衣を着ていたのだけれど、今年は綾人くんとデートなので、新しいものを買ってもらった。去年までは、黄色い浴衣を着て圭と腐れ縁デートをしていた。白い浴衣を着て生まれ変わった自分を、綾人くんはどんなふうに見てくれるだろうか。
 昨日、伯母さんと一緒に着付けの練習をしたので、一人でもなんとか浴衣を着ることができた。帯びを結ぶのはやっぱり苦戦したけれど、燕脂(えんじ)色の帯は、白い浴衣をぱっと華やかにしてくれる。
 やっぱりこの色の組み合わせ、可愛いな。
 鏡で見た自分の浴衣姿に満足しつつ頷いた。
 約束の十七時まであと三十分。出かける準備をしているとあっという間に時間が過ぎて、私は下駄を履いて家を飛び出した。