大人しく圭を見送ったあと、授業の準備を始める。
 五限目は古典の授業だ。この三週間、授業を受けていなかったから、何ページを開けばいいか分からない。

「六十二ページだよ。末摘花、そろそろ終わりそうなところ」

 隣の席になった佐藤さんがそっと教えてくれた。クラスメイトに親切にしてもらったのは初めてのことだったので、驚きつつも小さく
「ありがとう」と伝える。
 一時間、先生の話を聞きながら、醜い顔をした末摘花がたどった運命を見届けた。
 私が授業を受けていない間に、どうやら源氏と末摘花は何年も離れ離れになっていたらしい。源氏は末摘花のことなんてすっかり忘れていた。なんだよ、それ。ひどい男だなあ、と思いながら聞いていると、源氏が末摘花と再会するシーンに変わる。
 源氏は別の女性を訪ねに行っていたが、その途中に見覚えのある屋敷を見かけた。そこで、感動の再会を果たす。

【年を経て 待つしるしなき わが宿を 花のたよりに 過ぎぬばかりか
(長い年月、ひたすらお待ちしても何の甲斐もなかった私のすみかを、藤の花を愛でるついでにだけ少し立ち寄った、ということでしょうか)】

 先生の解説と共に溢れてくる末摘花の、愛しい人をずっと待っていた一途な想いが胸を貫く。
 そっか……大好きな人に忘れられても、あなたは待っていたんだね。
 私にも、初めて好きな人ができたから、末摘花の気持ちがよく分かる。たとえ見た目が悪くても、誰かを恋慕う気持ちは本物だ。
 源氏は、末摘花の一途な心に胸を打たれた。その後は父親を亡くして困窮を極めていた彼女の世話をする。末摘花は二年後には源氏の別宅・二条東院に引き取られたらしい。
 良かった……ハッピーエンドで。
 末摘花の容姿を見た源氏がドン引きしていたシーンを見たら、この先どうなってしまうのかと不安だった。予想とは違う結末に、教室で一人、ほっと息を吐く。
 隣の佐藤さんは、そんな私を不思議そうに見つめていた。

【今日、末摘花がハッピーエンドを迎えたよ。どうなることかと思ってたから、良かった〜】

 家に帰ると、私は一番に綾人くんに連絡を入れた。

【末摘花? それって源氏物語? 俺、あんまり詳しくないけど鈴ちゃんが元気そうでほっとした】

 綾人くんが微笑む顔が目に浮かぶ。突然よく知らない話題を振られても優しく返してくれる彼のことが、たまらなく好きだ。どうしよう。彼と恋人になってまだ二日しか経ってないのに、彼を愛しいと思う気持ちが、風船みたいにどんどん膨らんでいく。やがて外側が張り裂けてしまいそうなぐらい、胸がいっぱいになっている。

【ねえ、明日の放課後会いに行ってもいい?】

 気がつけば指が勝手に彼に会いたいと伝えていた。ものの数分で返信が来る。

【もちろん。明日はバイトもオフの日だから、たくさん話そう】

【ありがとう! それじゃあ、楽しみにしてるね】

 唐突な「会いたい」という気持ちに、綾人くんは全力で応えてくれる。ああ、だから私は彼のことが好きなんだ。私のために、全力を尽くしてくれるから。どんな暗闇でも、彼と一緒にいれば、もう怖くないよ。

「鈴ちゃん、学校はどうだった?」

 伯母さんが仕事から帰ってくると、一番に私に尋ねてきた。

「特に、何も問題なかった。前よりみんな親切にしてくれる感じ」

「本当に? それなら伯母さん、安心したわ」

 伯母さんが、どれだけ私を心配してくれているのか、ダイレクトに胸に伝わってくる。私を引き取ってくれた時から、伯母さんにも伯
父さんにもたくさん迷惑をかけたし、心配だってかけた。今も、これからも病気のことで大変な思いをさせるかもしれない。それでも私を見捨てない伯母さんたちに、私はもう感謝してもしきれなかった。

「今まで心配かけてごめんね、伯母さん」

「ううん。いいの。鈴ちゃんが笑ってくれさえすれば、私は嬉しいから」

 伯母さんの優しさを身に沁みて感じていると、彼女の表情がすっと曇ったのが分かった。
 どうしたんだろう、と様子を窺っていると、伯母さんは何か言いにくそうに、遠慮がちに口を開いた。

「……ねえ、鈴ちゃん。お母さんから最近何か連絡はあった?」

「え? お母さんから? ううん、まったく連絡はないよ」

 突然お母さんの話を振られて、分かりやすく面食らう。
お母さんは本当にたまに私に連絡をくれることがあるが、「元気?」とか「最近どう?」とか当たり障りのないものばかりだ。それに、その連絡すら、ここ一年ほど来ていない。伯母さんだって、そのことを知っているはずだ。それなのに突然どうしたんだろう。

「そう……。ごめん、連絡がないならいいの。気にしないで」

「はあ」

 何があったのか判然としないが、こんなふうに伯母さんの表情に翳りが見えたのは初めてだ。本当は気になって仕方がなかったけれど、気にしないでと言われてしまえば、それ以上は何も聞くことができない。
 もやもやした気分のまま自室に戻り、学校の復習を済ませる。やがて先ほどの話はなかったかのように、いつもどおり伯母さんが私を夕飯に呼び、みんなで食卓を囲う。お風呂に入り、眠りにつく頃にはもう伯母さんの話はすっかり忘れてしまっていた。