ゴールデンウィークが明け、爽やかな青空が広がる五月七日の朝、私はリュックを背負い、玄関から一歩踏み出した。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。無理せず、少しずつね」

「ありがとう、伯母さん」

 晴れやかな空の下、笑顔で送り出してくれた伯母さんに手を振って、私は学校へと続く道を進む。
 家を出る時、いつもつけていたマスクをつけなかった。
 若草の匂いが鼻を掠め、外の世界はこんなにも自然の香りで満ちていたのかと実感する。ずっと、鼻を布で覆っていたから、匂いに鈍感になっていたのだ。どうして今までマスクで顔を隠していたんだろうと後悔するぐらい、大切なものをたくさん手のひらからこぼしていた気がする。

「……鈴?」

 光が丘高校の最寄駅に降り立つと、聞き慣れた声が後ろから飛んできた。

「圭、おはよう」

 何食わぬ顔で挨拶をした。でも、心臓はうるさいくらいに鳴っている。圭とまともに顔を合わせたのは、あの喧嘩の日以来、約二週間ぶりだ。毎日のように何かしら言葉を交わしていた幼馴染と、たった二週間でも離れていたから、平静ではいられない。

「鈴、お前、マスクはいいのか? ていうか、学校行く気になったんだな」

 圭は驚いた顔で気になったことを矢継ぎ早に聞いてくる。二日前、圭に綾人くんの存在がバレてしまってから、何か言われるのではないかと思っていた。でも、実際圭は彼のことを何も聞いてこない様子だ。
 学校までの道すがら、圭と肩を並べて歩くのに、居心地が悪いとは感じなかった。

「うん。もう、そっちは大丈夫になった。今まで散々心配かけてごめん」

 圭には純粋に謝りたい気持ちがあった。学校でマスクをとった顔をクラスメイトの何人かに見られてしまったのは、確かに圭がきっかけだったかもしれない。
 でも、その後私が忘れた鞄を届けてくれたり、塞ぎ込んでいる私にメッセージをくれて励ましてくれたりしたのも圭だ。私は、彼の不器用な優しさに甘えていただけだから。

「そ、そうか。それなら良かった。あーあ、もうお前、このまま休み続けて留年しちまうんじゃないかって思ってたんだからなっ」

「そしたら圭、私の先輩になるから、もっと私に威張れるじゃん」

「うるせー! 俺はお前と対等でいたいんだ!」

「……そっか」

 圭の口から出てきた予想外の言葉に、私は息をのむ。圭のことだから、てっきり「後輩のお前を俺の子分にしてやるっ」と生意気に言ってくるのだと思っていた。でも違うんだ。圭は私と同級生のまま、対等でいたいんだ。
 幼馴染の本心を聞けて、私はちょっぴり恥ずかしいような照れくさいような気持ちにさせられた。
 圭とは私も、このままの関係を続けたい。
 だから、圭には私の目の病気のことを言わないつもりだ。もし、病気のことを知ってしまったら、圭は私に遠慮をするだろう。気を遣って、これまでのように悪態をついてくることもなくなるかもしれない。それはそれで平和だと思う一方、普通に友達として接してもらえないことに、淋しさを感じると思う。
 だから圭には黙っておく。
 HRの始まりの時間が近づくにつれ、太陽が高い位置に昇っていく。眩しくて視界がホワイトアウトしそうになって、慌てて手でひさしをつくった。明日から、帽子を用意しておかなくちゃ。

「鈴、やばい、このままだと遅刻するぞ。走ろう!」

「え、もうそんな時間?」

「時計見ろよ。大体お前、いつも登校中に俺と鉢合わせすることなかっただろ。俺、いっつもギリギリの時間に学校着いてるから!」

「それを早く言って!」

 久しぶりの登校で、時間を気にせず家を出てしまったことが裏目に出た。
 圭に腕を引っ張られて、私は丘の上にある学校へと続く坂道を上る。
 日の光の眩しさと、不明瞭な視界のせいで、途中何度も転けそうになった。

「おい、こんな時ぐらいこけんなよ!」

「言われなくても分かってるって!」

 いつもみたいに、圭に悪態をつかれながら坂道を走る。自転車通学の生徒たちも、立ち漕ぎをして大急ぎで私たちを抜いていく。

「はは、なんか楽しくなってきたな! 小学校の運動会のかけっこみたいだ」

「ちっとも楽しくないよっ。かけっこだっていっつも最後の最後で転んでたんだから」

「まったく鈴は昔から変わってねえなあ」

 思い出話をして、笑いながら駆けていく圭と、そんな圭に引っ張られて重い身体を引きずる私。登校初日から、こんなことになるなんて思ってもみなかった。でも圭の言うように、ちょっとだけ楽しいと感じていたのは秘密だ。
 ようやく校門に辿り着き、それぞれの教室へと向かう。三年二組の教室に圭はいない。後ろ盾を失ったような気がして不安になったが、

「鈴、お前は大丈夫だ」

 という圭からの力強い励ましに、心震わされた。
 そうだ。私はもう大丈夫。
 マスクがなくても、教室で息を吸える。
 だから行こう。新しい、始まりに続く道を。