「あら鈴ちゃん、お出かけするの?」

 日曜日で仕事がお休みの伯母さんと伯父さんは、リビングでテレビを見ているところだった。私はそんな二人に「うん」と頷いて靴を履く。三日間、引きこもっていた私が突然動き出したものだから、二人ともさぞびっくりしているだろう。

「そう。行ってらっしゃい。あ、マスクはつけなくていいの?」

「……うん。大丈夫。行ってきます」

 中原さんに会いにいくのに、もうマスクはいらない。今日はメイクをしていないけれど、あの人の前なら、自分に自信が持てることに気づいた。
 彼に、病気のことを伝えなくちゃ……。
 退院してから、一度も連絡は来ていない。きっと私のことを気遣ってくれているのだろう。
 私も、自分の気持ちの整理がつかないまま、彼に会える気がしなかった。でも今は、ただ会いたいという気持ちがうんと勝っている。
 玄関の扉を開くと、夕暮れ時の太陽が住宅地を橙色に染め上げていた。まぶしくて思わず目を顰める。光が強いと、余計に視界がぼやけているような気がする。いつまでも追ってくる現実に目を逸らしたい気持ちを抑えて、私は駅へと向かった。


『Perchoir』に辿り着くと、砂糖菓子の甘い香りが、どくどくと脈打っていた心臓を落ち着けてくれた。すっと息を吸って、店の扉を開ける。カラランという涼しげなベルの音が響いて、店内にいた店員さんが私の方を見た。

「いらっしゃいませ」

 何度か顔を見たことがある女性のスタッフだ。彼女は、私がショーウィンドウではなく、お店の中をきょろきょろと見回しているので不思議に思っている様子だった。

「お客様、何か——」

 彼女が私にそう声をかけたのと、私がレジ奥の厨房でコック姿の彼の姿を見たのは同時だった。

「中原さん」

 彼には絶対に聞こえないぐらいの、小さな吐息ほどの声でつぶやいた。でも、厨房にいた彼がはたと私の方を振り返る。揺れる双眸で私を捉えた彼は、その目を大きく見開いた。
 彼がケーキを作る手を止めたからか、隣にいた年配のコックが彼に何か話しかけた。あの人が、この店のオーナーである彼の叔父さんだろうか。中原さんは叔父さんの隣で何度か相槌を打った後、コック帽を外して叔父さんに頭を下げた。
 帽子を外した中原さんが、お店の方へとずんずん進んでくる。私は、泣きそうな気持ちでやってきた彼を見上げた。

「鈴ちゃん、久しぶり」

 正確にはたったの四日ぶりなはずなのに、彼が言うように、会えたのが久しぶりという気がする。

「あの……私っ」

 胸が詰まって、何も言葉が出てこない。中原さんはそんな私の気持ちを察してくれて、私の手を取った。

「外で話そう」

「え、でも」

「仕事なら大丈夫。叔父さんから、今日はもう終わりでいいって言ってもらったから」

「……ありがとう」

 さっき、中原さんが叔父さんと話していたことはそういうことだったのだ。私は、申し訳ない気持ちと喜びで胸が締め付けられた。

「花見丘陵公園でもいいかな」

「う、うん」

 中原さんは思い詰めた様子の私を見て察してくれたのか、何も聞かずに花見丘陵公園まで連れていってくれた。沈黙しながら登った坂道は、前回よりもきつく感じた。でも、久しぶりに彼に会えた喜びはずっと私の胸を温めている。
 前回と同じ椅子に座り、花と街の風景を眺める。夕暮れ時の風が、生暖かく頬を撫でる。くすぐったさに首を竦めた。

「鈴ちゃん、何かあったんだろ」

 懐にすっと入る優しい声だった。中原さんが真剣なまなざしで私の目を見つめている。私はその目から視線を逸らすことができず、
「うん」と頷いた。

「良かったら聞かせてもらえない? 俺は鈴ちゃんのこと、絶対に見捨てたりしないから」

 力強い言葉に、私の心はぐんと揺れる。
 話そう、中原さんに。
 大丈夫。彼なら取り乱さずに聞いてくれる——。
 私は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめて話し始めた。

「この間病院で検査をしてもらったの。私の目の異常について。そしたら、網膜色素変性症だって分かった。視野がだんだん狭くなったり暗いところで見えづらくなったりして、もしかしたら将来……失明するかもしれない病気」

「……」

 ごくり、と彼が唾を飲み込む音がした。きっと驚いているんだろう。私だって、いまだに現実を受け入れられないでいる。

「私の場合、小さい頃から症状が出ていたから、失明までいく可能性もあるって……。はは、とんでもない話だよねえ。まさか自分が目の病気になるなんて思ってもみなかった。……もしさ、もし目が見えなくなったら、大好きなピアノ、弾けなくなっちゃうなって。それって、生きがいがなくなるのと一緒じゃない。生きてる意味あるのかなあって。それに、大切な人の顔だって、見えなくなるっ……。そんなの、耐えられないよ。私は中原さんのこと——」

 一人きりの部屋の中で押さえ込んでいた感情が、コップの縁に溜まっていた水みたいに溢れ出す。

「中原さんのこと、私」

「好きだよ、鈴ちゃん」