「分かりました。話してくれて、ありがとうございます。実は私、専門は眼科なんです。あなたのお話を聞くに、羽島さんは網膜色素変性症(もうまくしきそへんせいしょう)の疑いがあります」

「網膜色素変性症……?」

 耳慣れない病気の名前に、私の頭は困惑していた。病室独特の薬品のような匂いが、ここにきてツンと鼻をつく。

「はい。簡単に言うと、網膜に異常が見られる遺伝性の病気です。暗いところで見えづらくなる夜盲、視野が狭くなる視野狭窄などが起
こります。稀に、失明する人もいらっしゃいます」

 失明。
 恐ろしいワードに、それこそ目の前が真っ暗になった。
 まだそうなると決まったわけではないのに、足元から地面が崩れ落ちて、立っていられなくなるような心許なさ。もしも光を失ってしまえば、私の人生はすべてひっくり返る。いま綺麗だと感じることができる風景も、大切だと思う人の笑顔も、全部分からなくなってしまうんだ——……。

「いきなりこんな話をしてすみません。大丈夫ですか?」

 知らないうちに、浅い呼吸を繰り返していた私は、胸を押さえながらヒューヒューと不自然に息を吐いていた。看護婦が慌てて私の口元にビニール袋を持ってくる。過呼吸患者に対する処置だ。看護婦が私の背中をさすりながら、「ゆっくり息を吐いて、吸って」と優しく声をかけてくれた。

「……ごめんなさい。取り乱してしまいました」

「いや、普通の反応です。まだ網膜色素変性症と決まったわけではありませんから。明日、詳しい検査をしましょう」

「はい……」

 力なく頷いた私を見て、足立先生はベッドに戻るように促してきた。まだ身体も本調子ではないと自分でも分かった。精神的なショックも相まって、今日はどうも眠れそうにない。

「また何かあればナースコールをしてください。保護者の方にはこちらから連絡をしてありますので」

「ありがとうございます」

 最後まで私の身体を気遣ってくれた看護婦と足立先生に感謝しながらベッドに横になる。空虚な心に浮かぶ一抹の不安が中原さんの笑顔に重なって、弾けた。

「あれ……なんで、私……」

 目の病気の話と、中原さんは全然関係ないのに。どうしてか、彼の顔が頭に浮かぶ。私の面倒を見てくれる伯母さんでも、生まれた時からそばにいた圭でもない。私の胸を占めるのは間違いなく彼だ。そうか、私……。

「好きになっちゃったんだ……」

 誰もいなくなった病室で独りごちる。中原さんのことを考えると、どうしても胸がいっぱいになる。こんな、苦しい時に思い浮かぶ彼の顔は、どうやってもかき消すことができない。

「鈴ちゃん」

 病室の外から彼の声が私を呼んだ。今すぐ返事をして扉を開けたい衝動に駆られたけれど、同時に今泣きべそをかいている自分を見られたくないと思った。
 私は、「……ごめん、また明日でいかな」とそっと呟いた。聞こえているのかいないのか、扉の外から返事はない。代わりに、スマホに彼からメッセージが一つ届いた。

『今日はたくさん大変な思いをさせてごめん。ゆっくり休んで。また落ち着いたら会おう』

 気遣いに溢れた言葉が、私の胸にツンと響く。

『ありがとう。こちらこそ、心配かけてごめんね。また連絡します』

 一文字ずつ言葉を打っていくたびに、自分の不甲斐なさを身に沁みて感じる。これまで誰にも見せられなかった弱音が、一度顔を覗かせると止まらなくなりそうだ。
 だから今日は彼にもう会わない方がいい。
 下した決断はきっと、間違っていない。
 中原さんが廊下を去っていく足音が聞こえるのを聞いてから、ベッドに寝そべってぼうっとしていた。自覚してしまった彼への恋慕と、明日の検査のことで頭がいっぱいだ。早いとこ眠りにつこうとぼんやり考えていたところで、再び病室の扉がノックされる。

「鈴ちゃん、入るね」

 静かに開かれた扉の向こうから顔を覗かせたのは、伯母さんと伯父さんだった。二人が揃って来てくれたことに驚きを隠せない私。

「伯母さん、伯父さん……」

 また二人に迷惑をかけてしまったという罪悪感が泥濘のように胸に広がる。
 そんな私の気持ちをよそに、二人は心配そうに眉根を寄せていた。

「鈴ちゃん、貧血で倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?」

「う、うん。貧血の方はだいぶ良くなった」

「そう。それならいいんだけど……」

 伯母さんは本当に心から心配していた様子で、胸に手を当てて汗を拭っていた。仕事終わりに、ここまで急いで来てくれたことが分かる。伯父さんだってそうだ。仕事で疲れているはずなのに、私のことを心配して足を運んでくれた。
 私は、何度も迷惑をかけてしまった二人の顔を交互に見つめながら、さっき足立先生から言われたことを伝えようかと迷う。ううん、伝えなくちゃ。だってこの先、二人にはきっとたくさん心配をかけてしまうだろうから。

「あのね、私、二人に伝えなくちゃいけないことがあるの」

 伯母さんたちは互いに顔を見合わせて、「何?」と目で問いかけてきた。
 私は覚悟を決めて二人に椅子に座るように促す。椅子に腰掛けた伯母さんと伯父さんが、ごくりと唾を飲んだのが分かった。

「実は私、最近目が悪くて——」

 私は、足立先生と話した内容を二人に洗いざらい話して伝えた。
 暗いところで目が見えづらくなること。
 小さい頃から視野が狭く、よく物にぶつかっていたこと。
 足立先生から網膜色素変性症の疑いがあると言われたこと。
 明日検査を受けること。
 どれも、いまだ私の中で現実として受け入れられていないことばかりだ。自分の口から、まるで他人事のような気分で紡がれる事実に、私自身傍観者みたいな心地になっていた。

「それで、これからたくさん迷惑かけちゃうと思うけど……許してほしい、です……」

 じわりじわりと、腹の底で広がっていく泥の水たまりをゆっくりと吐き出すように、私は二人に懇願した。
 どうか、お願いです。
 私を見捨てないでください。
 お母さんにも捨てられて、伯母さんたちからも捨てられてしまったら、私——。
 胸の前でぎゅっと拳を握りしめる。
 そんな私を心配そうに見ていた二人は、やがて立ち上がって私の背中や頭に手を触れた。

「大丈夫、大丈夫よ鈴ちゃん。伯母さんたちはちっとも迷惑じゃないもの」

「そうだよ。これまで一人で抱えてきたんだね。何も気づいてやれなくて、ごめんよ」

 ああ、まただ。
 みんな、みんな優しすぎる。
 私は一人でずっと親不孝者みたいに引きこもって俯いてばかりいたというのに。 

「伯母さん、伯父さん……」

 大切なことを黙っていた罪悪感と、受け入れてもらえた嬉しさがごちゃごちゃになり、これ以上どんな言葉を紡いでいけばいいのか、分からなかった。

「明日、検査の時には私たちも話を聞きにいくわ。だから難しいことは明日考えることにして、今日はゆっくり寝るのよ。いいわね?」

「……うん」

 私の背中をさすりながら、伯母さんはそう言った。私はただ頷いて、そのまま再びベッドに横になる。

「じゃあまた明日来るから。鈴ちゃん、もう一人で悩んだらだめよ」

「伯父さんたちは鈴ちゃんの味方だからな」

「ありがとう、二人とも」

 静かに扉の向こうに去っていく二人の後ろ姿に、私はどうしてか、私を施設に置いて行った母の背中を思い出した。
 お母さん、私、病気かもしれないんだって。
 お母さん、今、どこでなにしてる?
 お母さん、伯母さんたちも中原さんも、みんな優しくて、痛いよ。
 お母さん、私はお母さんにとって、いらない子だったのかな——……。
 夜の帷がすっかり下りて、病室も電気を消してしまえばほとんど真っ暗だった。私は、神様に祈るようにして目を閉じる。
 明日の検査で、どうか何事もありませんように。