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 羽島さんって、本当にドジだよね。
 分かる。この間も机の角に足ぶつけて、転んじゃったんだよねー。
 知ってる? あのマスクの下の顔、相当ひどいって。
 羽島陽子の娘って絶対嘘でしょ。
 だって、全然似てないし、不細工だもん。

 何度も、何度も何度も、誰かが私の悪口を言っているのを聞いた。最初は小さな揶揄いみたいなものだったと思う。でも、噂の種火はたとえ小さくても、たくさんの酸素を帯びて大きく膨らんでいった。
 教室中が、私の悪口で溢れてるんじゃないかってくらい、誰かの視線や囁き声が怖かった。目を瞑ってマスクをして、なんとか一日をやり過ごす。そうすることでしか、あの澱んだ空気の中で息を吸えない。
 鈴ちゃん。
 誰かが私を呼ぶ優しい声が聞こえる。
 誰だろう……。その人からは、ほんのり甘い香りが漂っていた。疲れた時に効く、癒し効果抜群の甘い香り。いつか試食したケーキの甘みを思い出して、心がちょっとだけ、前を向いた。
 そうだ、彼は。
 彼の名前は——。

「……っ」

 薄っすらと開いた視界の中に飛び込んできたのは、見慣れない白い天井だった。だけど、周りは丸く切り取られたように、視界がぼやけている。反射的に、スカイタワーで見た街の風景を思い出す。あの時と同じだ。広々とした風景であるはずなのに、どうしてか視界は狭まっていって。同時に訪れためまいに、私は意識を失って——。

「中原さん……?」

 直前の記憶が蘇り、私はガバッと上体を起こした。瞬時に自分が病院のベッドに寝かされていたことに気がつく。

「鈴ちゃん」

 後ろから振り掛けられた声に、はっとして振り向いた。そこには、心配そうに表情を歪めている中原さんが立ち尽くしていた。

「良かった……目、覚めて」

 憔悴した表情に無理やり笑顔を浮かべて、私の方へと歩み寄ってくる中原さん。私は、「ごめんなさい」と彼に何度も頭を下げた。

「鈴ちゃんが謝ることじゃないよ。こうして無事だったし、本当に良かった」

「いや……。せっかくのデート台無しにしちゃったし、心配かけてすみませんでした」

 本当に、なんとお詫びをしたらいいのか分からない。
 出会って間もない中原さんに、私はとんだ迷惑をかけてしまった。もう二度と、会わないと言われるかもしれない。その覚悟で、唇をぐっと噛んだ。

「貧血だって医者が教えてくれたよ。鈴ちゃん、無理してるんじゃない?」

「貧血……。そうなんだ」

 そうか。あれは貧血だったのか。
 肩透かしを食らった気分でほっと胸を撫で下ろす。依然として心配そうに眉を寄せる中原さんに、「もう大丈夫」と答えた。

「そっか。でもね、もう一つ気になる症状があるって、さっき医者に話してしまったんだ」

「気になる症状……」

 聞かなくても分かる。狭くなっていく視界についてだろう。私は、前のめりになって中原さんに続きを聞こうとした。その時、病室の扉がコンコンと叩かれる。私は中原さんからそっと身体を離した。

「失礼します。あら、目が覚めたんですね」

 病室に入ってきたのは看護婦だった。私が「はい」と頷くと、看護婦は私に「調子はどうですか」と聞いた。

「貧血は、だいぶ治ってます。ご迷惑かけてすみません」

 病院で「迷惑かけて」なんて言う患者は、私の他にはいないだろう。看護婦も目を丸くしている。

「良くなったなら良かったわ。先生を呼んできますね」

 看護婦が病室から出ていくと、五分ほどして医者が現れた。四十代ぐらいの柔和な顔をした男性だ。胸には「足立(あだち)」という名札がついている。
 足立先生は私の目や喉に光を当てて、軽い検査をした後、「羽島さんの症状について、少しお話したいことがあります」と話を切り出した。中原さんは気を遣って病室の外に出る。看護婦と医者と私の三人の空間で、私は胸がキリリと痛んだ。

「先ほど、付き添いの方にお話を伺ったんですけれど、貧血でめまいが起きる前、あなたは『見えない』と呟いたそうですね。聞けば、以前にもよく躓いたり転んだりするというお話を聞いていたと、付き添いの方がおっしゃっていました。もう少し、詳しく話を聞かせてもらえませんか?」
 足立先生のまっすぐな目に射竦められて、私は思わず「あ……えっと」と口籠る。隠すことはできない。正直に、これまで感じていた違和感について、訥々と話した。

「小さい頃から、よく転んだり躓いたり足をぶつけたりしていて、自分はドジなんだと思っていました。でも最近はちょっと違って……はっきりと、視野が狭くなっているような気がするんです。暗いところで見えなくなることも多いです。単純に目が悪くなっているような気もするし……。でも、どうしたらいか、分からなくて。これまで誰にも相談できませんでした……」

 不安に思っていた心のうちを曝け出す中で、私は涙がポロポロと溢れてきた。
 先週、中原さんに初めて目のことを伝えた時、病気かもしれないと不安になったのだ。
 だけど、伯母さんや伯父さんには心配かけたくなくて。私は黙ってやりすごそうとしていた。でももし、このまま目が見えなくなって大好きなピアノも弾けなくなったら、私はどうやって生きていけばいいのだろう。
 そんなやるせない気持ちが、ここにきて一気に泉のように湧き出したのだ。