「鈴ちゃんごめん! 笑いすぎた。許して」

「許しません。もう帰っちゃいます」

「そんなあ〜デートはこれからでしょ? あ、俺、いい場所知ってるんだ。この街を見下ろせる素敵な場所。行ってみたくない!?」

 彼からの言葉に、私はぴたりと歩みを止める。
 何それ、行ってみたい。
 本当に単純バカだと思うけれど、私に服や化粧品をプレゼントしてくれた彼の提案に、のらずにはいられなかった。

「どこ? 早く行きたい」

 知らず知らずのうちにタメ口になっていた私は、はっと口を手で押さえる。

「いいよ、そっちの方が。タメでいこう!」

「う、うん」

 中原さんの勢いに押されて、私はもう敬語で話すことをやめた。彼は嬉しそうに頬を綻ばせる。男性にこんな表現を使うのが正解なのか分からないけれど、朝顔とか向日葵とか、笑うと大きく花弁を開く花みたいな人だと感じた。
『シュクレ』を後にした私たちは、そこから徒歩で、この街を見下ろすことができるビルの方まで向かった。『スカイタワー』と呼ばれるそのビルは、二十階までがオフィスビルになっていて、それ以降は展望台として一般客に開放されている。例によって家に引きこもってばかりだった私は、『スカイタワー』に登ったことがなかった。

「中原さんは登ったことあるの?」

「うーん、あるよ。一回だけ。二年ぐらい前だったかな」

「へえ。それって……」

 誰と? と聞こうとしたところで、やっぱり口を噤む。何となく、聞いてはいけない質問のような気がした。
 春の暖かな陽光に包まれながら『スカイタワー』までの道のりを歩いていると、平日とはいえ同じように『スカイタワー』に向かう人たちと一緒になった。初めての体験に、すでにバクバクと心臓が音を立てている。

「着いたね。受付は二十一階みたいだから上に行こう」

「うん」

 勝手知ったる様子で中原さんが高層階行きエレベーターに乗り込む。私は言われるがままについていくだけだった。
 受付でチケットを買い、いざ展望スペースへ。
 急速に上がっていくエレベーターの中で、耳がつんとしたので何度も唾を飲み込んだ。

「こちら、三十六階、展望広場でございます」

 スタッフさんに案内されてたどり着いた先で、私はすぐにはっと息を呑んだ。

「すごく高い! それに、綺麗な景色……」

 目の前に広がる街のパノラマ風景に、感動してうまく言葉が出てこない。ガラス張りの窓に張り付くようにして街全体を見下ろしてみる。自分が住んでいる街とは思えないほどダイナミックな風景に胸を打たれた。

「おお、久しぶりに見たけどやっぱりすごいなあ。何回見ても感動する」

 私の後ろから、背の高い中原さんが私を覆うようにして窓の外の景色を眺める。身動きの取れなくなった私の意識は、目下に広がる景色から、彼の鼓動へと移っていく。
 とく、とく、とく。中原さんの心臓の音が、自分の心臓の音と重なって、やがてずれた。私の心臓の方が余計速く動いて、時計の長針と短針みたいに追いかけっこを繰り返す。

「鈴ちゃん、俺……」

 中原さんが何かを言いかけた。その時私は、急に視界がぐわんと回るようなめまいがして頭を抑えた。一瞬の出来事で、それ自体大したことではなかったけど、次に目を開いた時には先ほど見ていたパノラマの風景の端がぼやけて、見える範囲が狭まっていることに気づいた。

「見えない……」

「え?」

 咄嗟に口から漏れて出た吐息ほどの呟きに、至近距離にいた中原さんが反応する。

「どうしよう。見えないの」

 チカチカと視界が明滅しているような気がする。私は、再び頭を抑えたけれど、症状は先ほどよりも辛い。
 目の前の景色から、色がなくなった。ぐわんぐわんと目が回るように、焦点が定まらない。
 やがて立っていることも限界となり、私はその場で崩れ落ちた。

「鈴ちゃん!」

 床に倒れ込む前に、中原さんがさっと私を抱き抱える。

「大丈夫か、あの子」

「ちょっとまずいんじゃない?」

 周りにいたお客さんたちも、何事かとざわついている声が響いた。でも私は、目を開けることができない。

「誰か、救急車を呼んでください!」

 ざわめく空気の中で電光石火の矢のように尖った声が頭上から降ってくる。誰かが電話で救急車を呼ぶ声。「鈴ちゃん!」と私の名前を必死に呼びかける中原さんの声が、何度もこだました。
 私の意識はそこで、すっと途切れた。