「遅くなってごめんなさい」
自宅に辿り着いたのは午後九時だった。食卓ではとっくに夕飯を食べ終えた伯母さんと伯父さんがテレビを見ながらお酒を飲んでいて——なんて想像していると、リビングから香ばしいスパイスの香りが漂ってきた。
「鈴ちゃん、おかえり。今からみんなでご飯にするから、ちょっと待ってね」
当たり前のようにそう言って迎えてくれる伯母さんが、お玉を片手に鍋に火をつける。
「……伯母さん、もしかしてご飯まだ食べてない?」
振り返らない伯母さんの背中が「ええ」と返事をする。
「鈴ちゃんのことだから、そんなに遅くはならないだろうって思って。ご飯はみんなで食べた方が美味しいのよ」
「……」
胸が詰まって、その場で動けなくなる。伯父さんも、「早く座り」と優しく促してくれていた。伯父さんはすでに晩酌が始まっていて顔が赤くなっているけれど、私のことだけは冷静に見つめてくれていた。
「ありがとう」
それ以外の言葉が、見つからなかった。運ばれてきたのは私が大好きなカレーライス。仕事で忙しかったお母さんが、唯一私に作ってくれていたものだ。それも、やっぱり同じ時間にご飯を食べるのが難しくて、いつも作り置きのカレーを一人で食べていたのだけれど。
「いただきます」
伯母さんの弾んだ声が食卓に響く。
私も手を合わせて、スプーンでカレーライスをすくった。鼻腔をくすぐるスパイスは、お母さんが手作りで調合してくれていたものと同じだ。伯母さんは、お母さんからスパイスのことを聞いていたのだろうか。もしそうなら、私の好みに合わせてもらって申し訳ないな——と、また罪悪感に苛まれる。
「伯母さん、あのさ」
かちゃかちゃとスプーンがお皿にぶつかる音だけが食卓に響いていた。伯母さんは私に、いちいち「どこに行っていたの?」「何をしてたの?」なんて聞かない。それなのに私は、伯母さんに迷惑をかけてばかりで。胸の奥がツンとする。
「どうしたの?」
今日中原さんから帰り際に言われた病院の件について、伯母さんと伯父さんに伝えるか迷っていた。もし、病院に行っても何も異常がなくて、単なる私のドジってことになったら、どうしよう。
「いや……やっぱりなんでもない」
結局、伯母さんたちに視界のことを話すことができなかった。私の迷いを感じ取ったのか、伯母さんは心配そうに私の顔を覗き込む。
「本当になんでもない? 何かあったらいつでも言ってね」
「う、うん。ありがとう」
伯母さんの優しさは温かいはずなのに、胸にチクチクと針を刺されるような心地にさせられる。
「ごちそうさまでした」
大好きなカレーは、少し苦い気持ちで食べてもやっぱり美味しかった。カレーのお皿をシンクまで持っていって、二階の部屋へと上がっていく。
部屋の電気をつける前に、扉の角に足の小指をぶつけた。もう慣れすぎて、痛みもあまり感じない。暗闇だと余計視界がぼやけるから、すぐに電気をつけた。
勉強机の前に座り、学校に行っていない間に進んでいそうな単元を、自習しようとした。けれど数学の教科書を開いて絶望する。まったく問題が解けないのだ。自分の情けなさに、さっきぶつけた足の小指がじんと痛んだ気がした。
勉強、頑張っても学校行かなかったら意味ないな……。
勉強して、私は何になりたかったんだろう。
きらきらした瞳でパティシエになりたいと語っていた中原さんを思い出す。
それなりに良い成績をとれば、有名大学に入れる。有名大学に入れば、有名企業に就職できる? 本当にそう?
確かに、学歴を重視する会社は多いだろう。でも、そのフィルターを通り抜けた先に待ち受けるのは、間違いなく私という人間そのものに対する評価だ。
容姿や性質のことを言い訳にして、教室ではマスクも外せず、親切にしてくれる幼馴染にも素直になれない私。そんな私を拾ってくれる会社なんて、いくら有名大学に進学したってどこにも——。
そこまでぐるぐると考えていた時、ピコンというスマホの通知音が鳴った。
「なんだろう」
スマホの画面を見て、私は「あっ」と声を上げる。
表示された中原綾人という名前に、心臓が一回跳ねた。
逸る気持ちを抑えて、ロック画面を解除する。震える指で中原さんとのトーク画面を開く。
【今日はありがとう! 鈴ちゃんと話せてすごく楽しかった。それでさ、良かったら来週またどこかで遊びに行かない? 俺、水曜日
と金曜日がバイト休みで、土日じゃなくて申し訳ないんだけど】
目に飛び込んできた遊びの誘いに、大きく響く私の鼓動。嬉しい。中原さんが私にメッセージをくれて、遊びに誘ってくれたことが。さっきまで将来のことを考えて悶々としていたこともすっかり忘れてしまった。
私は、震える身体が鎮まるまで落ち着けて、深呼吸をしながら返信を打った。それでもまだ、指先がぷるぷると小刻みに揺れる。
【中原さん、こちらこそ今日はありがとうございました。話を聞いてもらえて、気持ちがすっきりしました。遊びのお誘い、嬉しいです。学校にはまだ当分行けそうにないから、水曜日でも金曜日でも大丈夫です。あ、でも、高校生だってバレないようにしないとダメですね……】
返信を打ち込みながら、平日に外で遊ぶことへの抵抗を覚えた。でも、彼の仕事が休みの日は平日だけだから、なんとかしなくちゃいけない。
悶々と悩んでいると、すぐに中原さんからも返事が届いた。
【返事、ありがとう。それから遊びのことについても、嬉しいよ。そうだね、俺は中退してるからともかく、鈴ちゃんはバレたらまずいね。あ、そうだ。いいこと思いついた】
メッセージは一度そこで途切れた。「いいこと」って一体なんなんだろう。気になりながら続きを待つ。
【とりあえず、来週水曜日、十時に『Perchoir』の前で待ち合わせでいい? またその時に作戦話すね】
てっきり、今「いいこと」について教えてくれるのだと思っていたので、拍子抜けする。でも、中原さんのノリについていっていると、不思議と気持ちが軽くなるのを感じた。
【分かりました。来週水曜日十時ですね。楽しみにしています】
普段は使わないスタンプを必死に探して、うさぎがワクワクと踊っているスタンプを送った。
来週水曜日、中原さんとまた会える。
これってもしかして、デート?
学校を不登校になって男の人とデートに行くなんて、さすがに不良すぎる。そうは思いつつも、やっぱり心は踊っていて、その夜はよく眠れなかった。
自宅に辿り着いたのは午後九時だった。食卓ではとっくに夕飯を食べ終えた伯母さんと伯父さんがテレビを見ながらお酒を飲んでいて——なんて想像していると、リビングから香ばしいスパイスの香りが漂ってきた。
「鈴ちゃん、おかえり。今からみんなでご飯にするから、ちょっと待ってね」
当たり前のようにそう言って迎えてくれる伯母さんが、お玉を片手に鍋に火をつける。
「……伯母さん、もしかしてご飯まだ食べてない?」
振り返らない伯母さんの背中が「ええ」と返事をする。
「鈴ちゃんのことだから、そんなに遅くはならないだろうって思って。ご飯はみんなで食べた方が美味しいのよ」
「……」
胸が詰まって、その場で動けなくなる。伯父さんも、「早く座り」と優しく促してくれていた。伯父さんはすでに晩酌が始まっていて顔が赤くなっているけれど、私のことだけは冷静に見つめてくれていた。
「ありがとう」
それ以外の言葉が、見つからなかった。運ばれてきたのは私が大好きなカレーライス。仕事で忙しかったお母さんが、唯一私に作ってくれていたものだ。それも、やっぱり同じ時間にご飯を食べるのが難しくて、いつも作り置きのカレーを一人で食べていたのだけれど。
「いただきます」
伯母さんの弾んだ声が食卓に響く。
私も手を合わせて、スプーンでカレーライスをすくった。鼻腔をくすぐるスパイスは、お母さんが手作りで調合してくれていたものと同じだ。伯母さんは、お母さんからスパイスのことを聞いていたのだろうか。もしそうなら、私の好みに合わせてもらって申し訳ないな——と、また罪悪感に苛まれる。
「伯母さん、あのさ」
かちゃかちゃとスプーンがお皿にぶつかる音だけが食卓に響いていた。伯母さんは私に、いちいち「どこに行っていたの?」「何をしてたの?」なんて聞かない。それなのに私は、伯母さんに迷惑をかけてばかりで。胸の奥がツンとする。
「どうしたの?」
今日中原さんから帰り際に言われた病院の件について、伯母さんと伯父さんに伝えるか迷っていた。もし、病院に行っても何も異常がなくて、単なる私のドジってことになったら、どうしよう。
「いや……やっぱりなんでもない」
結局、伯母さんたちに視界のことを話すことができなかった。私の迷いを感じ取ったのか、伯母さんは心配そうに私の顔を覗き込む。
「本当になんでもない? 何かあったらいつでも言ってね」
「う、うん。ありがとう」
伯母さんの優しさは温かいはずなのに、胸にチクチクと針を刺されるような心地にさせられる。
「ごちそうさまでした」
大好きなカレーは、少し苦い気持ちで食べてもやっぱり美味しかった。カレーのお皿をシンクまで持っていって、二階の部屋へと上がっていく。
部屋の電気をつける前に、扉の角に足の小指をぶつけた。もう慣れすぎて、痛みもあまり感じない。暗闇だと余計視界がぼやけるから、すぐに電気をつけた。
勉強机の前に座り、学校に行っていない間に進んでいそうな単元を、自習しようとした。けれど数学の教科書を開いて絶望する。まったく問題が解けないのだ。自分の情けなさに、さっきぶつけた足の小指がじんと痛んだ気がした。
勉強、頑張っても学校行かなかったら意味ないな……。
勉強して、私は何になりたかったんだろう。
きらきらした瞳でパティシエになりたいと語っていた中原さんを思い出す。
それなりに良い成績をとれば、有名大学に入れる。有名大学に入れば、有名企業に就職できる? 本当にそう?
確かに、学歴を重視する会社は多いだろう。でも、そのフィルターを通り抜けた先に待ち受けるのは、間違いなく私という人間そのものに対する評価だ。
容姿や性質のことを言い訳にして、教室ではマスクも外せず、親切にしてくれる幼馴染にも素直になれない私。そんな私を拾ってくれる会社なんて、いくら有名大学に進学したってどこにも——。
そこまでぐるぐると考えていた時、ピコンというスマホの通知音が鳴った。
「なんだろう」
スマホの画面を見て、私は「あっ」と声を上げる。
表示された中原綾人という名前に、心臓が一回跳ねた。
逸る気持ちを抑えて、ロック画面を解除する。震える指で中原さんとのトーク画面を開く。
【今日はありがとう! 鈴ちゃんと話せてすごく楽しかった。それでさ、良かったら来週またどこかで遊びに行かない? 俺、水曜日
と金曜日がバイト休みで、土日じゃなくて申し訳ないんだけど】
目に飛び込んできた遊びの誘いに、大きく響く私の鼓動。嬉しい。中原さんが私にメッセージをくれて、遊びに誘ってくれたことが。さっきまで将来のことを考えて悶々としていたこともすっかり忘れてしまった。
私は、震える身体が鎮まるまで落ち着けて、深呼吸をしながら返信を打った。それでもまだ、指先がぷるぷると小刻みに揺れる。
【中原さん、こちらこそ今日はありがとうございました。話を聞いてもらえて、気持ちがすっきりしました。遊びのお誘い、嬉しいです。学校にはまだ当分行けそうにないから、水曜日でも金曜日でも大丈夫です。あ、でも、高校生だってバレないようにしないとダメですね……】
返信を打ち込みながら、平日に外で遊ぶことへの抵抗を覚えた。でも、彼の仕事が休みの日は平日だけだから、なんとかしなくちゃいけない。
悶々と悩んでいると、すぐに中原さんからも返事が届いた。
【返事、ありがとう。それから遊びのことについても、嬉しいよ。そうだね、俺は中退してるからともかく、鈴ちゃんはバレたらまずいね。あ、そうだ。いいこと思いついた】
メッセージは一度そこで途切れた。「いいこと」って一体なんなんだろう。気になりながら続きを待つ。
【とりあえず、来週水曜日、十時に『Perchoir』の前で待ち合わせでいい? またその時に作戦話すね】
てっきり、今「いいこと」について教えてくれるのだと思っていたので、拍子抜けする。でも、中原さんのノリについていっていると、不思議と気持ちが軽くなるのを感じた。
【分かりました。来週水曜日十時ですね。楽しみにしています】
普段は使わないスタンプを必死に探して、うさぎがワクワクと踊っているスタンプを送った。
来週水曜日、中原さんとまた会える。
これってもしかして、デート?
学校を不登校になって男の人とデートに行くなんて、さすがに不良すぎる。そうは思いつつも、やっぱり心は踊っていて、その夜はよく眠れなかった。