ここに入って、確実に三十分は経過していると思う。
 誰か自分達が戻ってこないことに気づいてくれるといいなと思いかけてから、それは無理か、と博也(ひろや)は肩を落とす。
 今は深夜二時。通常、サーバーのメンテナンスは業務時間外の夜間帯に行われる。つまり今、保守作業に携わる自分達以外で社内にいる人間なんていない。
「どりゃああ!!!」
 だが、このまま閉じ込められたままというわけにもいかない。無駄だと思いながらも扉に向かって回し蹴りをくらわしてみたが、靴越しでさえわかるほど扉は頑強であり、無駄に足が痛んだだけだった。
 くうう、と呻く博也の背後でくすっと笑う気配がする。振り向くと、共に閉じ込められた松崎冬里(まつざきとうり)が面白そうにこちらを眺めていた。
大城(おおしろ)さん。ご存知だと思いますが、こちらの扉は銃弾も通さない頑丈なものです。蹴りくらいではびくともしませんよ」
 そう言われて赤くなる。考えてみればここは取引先の会社であり、自分はシステムメンテナンス会社のエンジニアとして、クライアントのメインサーバーのチェック、データバックアップ業務に訪れている人間、つまり、外部の者なのだ。そのよそ者がサーバールームの扉に回し蹴りをするなんてどう考えても非常識だ。
「す、すみません。あまりに扉が開かないものでつい」
「大丈夫です。サーバールームは会社の要ですからね、扉も簡単に壊れないようになっています。有段者の蹴りとはいえ、傷一つつけられませんよ」
 ご安心ください、と涼しげな笑みを浮かべてこちらを見つめる松崎を、博也はまじまじと見つめ返した。
 有段者。
 やはりだ。この人は、覚えている。
 なのに、この人はなぜ何も言わないのだろう。

☆☆☆

 大城博也が、株式会社プッシュのシステム部課長松崎冬里と出会ったのは今日が初めてではない。
 彼と出会ったのは三年前。
 博也が就職活動をしていたときだ。
 当時の博也はまだ就職に対してぼんやりとしたビジョンしか持てずにいて、大学で学んだ知識を活かせる職場ならどこでもいいか、程度の気持ちで就職活動に臨んでいた。そもそも大学も文系か理系かと言われたら理系の方がまだ得意だから、なんて理由で情報処理系の大学に進んだのだ。就職に関しても同様の思いだった。
 IT業界はどこも人手不足と聞いていたし、まあそれほど苦戦もせず内定をもらえるだろうという甘い目算もあった。だが、博也をほしいと言ってくれる企業が現れる気配はまるでなく、エントリーシートを書き続ける行為が写経のようにさえ、感じられるようになった。
 いくつ受けても、いくつ受けても、お祈りされるばかりだった。

 今後のご活躍をお祈り申し上げます。
 お祈り申し上げます。

 祈るくらいならどうして自分が駄目なのか、教えてほしい。

 落とす理由を伝える義務は企業側にはない。そんなことはわかっている。わかっていてももやもやは晴れなかった。
 そんなときだった。
 この会社、株式会社プッシュにて最終面接まで残れたのは。
「まあ、最終面接まで残ればよっぽど大丈夫じゃね?」
 早々に内定を決めた友人はそう言っていたが、ここまで祈られ過ぎた博也はとてもじゃないが単純に栄光を信じることなんてできなかった。
 がちがちに緊張して臨んだ最終面接の終わり、面接官のひとりが言った。
「最後になにか質問はありますか?」
 そう訊かれた瞬間、博也の口が滑った。
「僕は、内定をいただけるでしょうか」
 室内に漂ったあのなんともいえない重量感のある空気をいまでも忘れられない。
 面接官たちは一様に押し黙り、視線を交わし合った。当然だ。内定をもらえるか? などという質問を臆面もなくしてくる就活生なんてめったにいない。どう返すのが正しいのか、あちらも戸惑ったのだろう。と、今ならわかる。けれどそのときの博也は追い詰められていた。
 このロープを手放したら奈落に真っ逆さまに落ちる。そう思えて仕方なかった。
 沈黙を破ったのはひとりの面接官だった。
「現段階ではお答えしかねます。ただ……個人的に申し上げるとしたら、もしもあなたが僕の部下として入社した場合、僕はまずあなたを相当絞らないといけなくなるでしょうね」
 淡々と言われ、博也はぎょっとした。椅子の上、手汗が滲む掌をズボンの布地を握ることでこらえながら博也は、すみません、と身を縮めた。
「するべきでない質問でした。申し訳ありません……」
「いえ、質問自体を責めているわけではないのです。そうではなくて……あなたがあまりにも自信なさげだから。人間を物に例えるのはよくないとは思いますが、スーパーでしなしなになってしまったレタスと、水気のあるぴんと張りのあるレタス、どちらを買うかと訊かれたらどちらですか? 張りのある方ではありませんか?」
 声に博也は一層うなだれた。情けなくて情けなくて仕方なかった。
 その博也に向かって彼はこう続けた。
「空手三段、なんですね。大城さんは」
「は……?」
 唐突な確認に顔を上げると、声の主と目が合った。細い銀フレームの眼鏡をかけた鼻筋の通った男性だった。
「空手は子どものころからですよね」
「あ……はい、小学一年生のころから、です」
「それからずっと?」
「あ、はい……」
「どうして?」
 どうして? どうしてだろう。自身の心に問いかけつつ、博也は自身の心に朧気に浮かび上がってきた答えを面接官の前に差し出した。
「好き、だったのだと思います。空手だけはやればやっただけ結果が出たので……」
「練習は辛くはなかった?」
 重ねられた問いに、博也は首を振ってみせた。
「辛かったこともあります。師範は厳しい方だったので。でも、頑張りを認めてくれる方でしたから……褒めてもらいたくてやっているうちに体が慣れて、だんだん結果もついてきて」
「楽しくなってきた」
 はい、と博也が頷いたときだった。面接官の顔にふっと笑みが浮かんだ。
「仕事も多分、同じなんですよ。大城さん。厳しいけれど楽しさもある。ただ楽しさって目の前に転がっているものではない。自分で見つけていくものです。でも今のあなたはまだ、自分から楽しさを見つけようと思えていないように思える。だから多分、あなたが部下になったら僕はまず、あなたを絞らないといけないなあと思いました。あなたの空手の師範のように」
 結局、プッシュからは内定は出なかった。そりゃあそうだ。しおれたレタスにまで例えられたのだ。受かるわけがない。そう納得はできているけれど、それでも悔しさは拭えなかった。最終面接を落ちたからというのもそうだが、それだけじゃなかった。
 自分はあの面接官と働いてみたかったと思ってしまっていたから。
 あの面接官……松崎冬里と。
 そして今、その松崎と共に、博也はサーバールームに閉じ込められている。
「今日は別棟ですが、電気設備の点検も入っていましたからね。何かの手違いで一時的に電子ロックが作動してしまったのでしょう」
 などと松崎は平気そうな顔をしているが、博也としては落ち着かないことこの上ない。
「あの、内線とか、ないんですか」
「残念ながら」
 残念ながら、じゃねえだろう! と怒鳴りたくなったがなんとかこらえ、博也はスマホを確かめる。圏外だった。
「まあ、朝になれば皆、出社してきますし、誰かが気づきます。空気を通さない金庫でもあるまいし、酸欠に怯える心配もありません。落ち着いてください。大城さん」
 まったく慌てる素振りを見せない松崎を見ていたら、じたばたしている自分がみっともなく思えてきた。はい、としぶしぶ頷く博也を松崎が手招く。サーバーラックにもたれかかるようにして松崎は腰を下ろし、博也に向かって自分の隣を指さした。
 促されるまま座るが、かすかな機械音が聞こえるばかりのサーバールームだ。沈黙が重くて仕方ない。
 ため息ひとつも大きく響いてしまいそうで、息を詰めている博也の隣で、不意に松崎が噴き出したのはそのときだった。ぎょっとして隣を窺うと、肩を揺らして笑う松崎がいた。
「ほんと、変わらないね。博也」
「…………は?」

 博也?

 目を白黒させた博也の横で松崎はなおもくつくつと笑っていたが、ややあって首を巡らせてこちらを見た。
「本当に覚えてないんだなあと思ったら寂しいやら、情けないやら。結構稽古もつけてやったはずなんだけど。綺麗に忘れちゃうもんなんだね。まあ……忘れたかったのかなあ、とも思ったけれど」
「え、あの、稽古ってその……」
「じゃあ、ヒント。西方修二」
 さらりと告げられた名前に聞き覚えがあった。
「師範の名前……」
「それ、俺のじいちゃんだから」
 じいちゃん?! とのけぞりながら博也は必死に記憶を掻きまわす。
 その博也の脳裏をふっと面影が過った。
──大丈夫、大丈夫。博也は案外負けん気が強いから。絶対、勝てるようになるよ。
 頭を撫でる誰かの手の感触。
──こら! ふざけてたら怪我するぞ! 集中!
 おっとりとしているのに、稽古中は厳しい顔を見せた人。
──全少出場! 博也、やったなあ! ほんとすごいよ!
 空手の全国大会に出場が決定したとき、自分のことのように泣いて喜んでくれた人。
 博也が中学に上がるころ、その人は大学生だった。遠くの学校に行くとかで道場にも顔を見せなくなってしまったからそれっきりになってしまったけれど確かにいた。博也の稽古にもつきあってくれたお兄さんが。
 師範よりもずっと線が細くて弱そうに見えたのに、やたら強い人が。
「え、え?! とーりにいちゃん?」
「当たり」
 松崎が、いや冬里がにやっと笑う。打ち合わせでは見せたことのない人の悪そうな笑顔に博也は混乱しながらも食ってかかった。
「は?! ちょっと待った……いつから? いつから気づいてたんだよ」
「うちの会社にエントリーシート送って来たときから。面接で会ったら博也、驚くかな〜とわくわくしてたのに、全然反応ないし。っていうか、俺の顔どころか周り全然見えてなかったし。知ってた? 一次も二次も俺、担当してたんだけど」
 確かにこの人が面接官だったことは覚えてはいる。いるが……取り澄ました顔で机越しに切れ味鋭い質問を繰り出してくる相手と、空手道場で笑うお兄さんが同一人物だなんて誰が予想するだろうか。
「ぎづがながっだ……」
「だろうねえ」
 呟いてから、冬里はこつん、と後ろ頭をサーバーラックに当てた。
「面接してて思った。うちの会社はいつから死神養成所になったんだってくらい、闇背負ったやつがきたなあって」
「どういう意味」
「目がね、完全に闇堕ちしてたからさあ」
 そこまで言ってから冬里がこちらを向く。軽く首を傾げるようにして顔を覗き込まれ、博也は動揺する。
 眼鏡のレンズ越し、鳶色の目がしげしげと博也の目を覗き込んだ。
「ああ、でも、うん。よかった。仕事、楽しいんだね。今」
 確かに……仕事は今、楽しい。プッシュに蹴られてから博也は再び就職活動に励んだ。ゴールの見えない長い闘いではあった。でもこれまでとは少し違う思いがあった。
 どこでもいい、じゃなくて、楽しいを少しでも見つけられる場所へ行きたい、そう思えるようになっていた。
 そう思えたきっかけは確実に、最終面接でこの人に言われたあの言葉だった。

 楽しいは、目の前に転がってはいない。
 見つけようとしなければ、見つからない。

 自分は内定しか見ていなかった。内定の先になにがあるのか、それを考えもせずに就職試験にひたすら挑んでいた。
 博也はもっと見なきゃいけなかったのだ。会社を。仕事を。そこで働く人の顔を。
 その職場で自分が笑っている未来を。
 そう思えるようになってすぐだった。現在の会社から内定がもらえた。
 そして今、自分はあのとき内定をもらえなかったこの会社で、自分を面接してくれたこの人と仕事をしている。
 かつて子どもだった自分に笑いかけてくれたこの人と。
 不思議な縁だと思う。だが、その縁を思うたび、納得いかないこともあった。
「でもさ、そんなに心配してくれてるなら、最終で俺、落とさないでいてくれたらよかったのに。あの後もまあまあ苦労したんだぜ」
 抗議めいた口調で言うと、冬里は目をぱちぱちさせてからくくっと笑った。
「いや、無理だよ。さすがにあの状況で内定出すのはさあ」
「じゃあ、一次二次通してくれたのはなんで? 闇堕ちして見えたんだろ。普通なら通さないよな。昔のよしみ?」
 自分自身を蔑むようなそんなひねた響きが声に混じっていると思ったけれど、訊ねずにいられなかった。けれど訊ねた瞬間に後悔した。ふっと冬里の顔から笑みが消えたから。
「え、あ、ごめん。俺」
「昔のよしみってことはない」
 低い声で言い、冬里は不快そうに目を細めた。
「そんな子供のとき道場が一緒だった程度の繋がりで社員を選ぶってのいうのは、さすがにしない。しないけど、ただ……」
 そこまで言って彼は目を伏せる。相変わらずこの人、睫毛長いな、と場違いなことを思った。
「一度熱中したら最後までやり切るとこ、稽古で見てたから。そういうのに期待して通したところは、あるよ」
「そう、なんだ」
 ふっと鼻先に道場の畳の匂いが蘇る。開け放した窓の向こうから聞こえてくる夏を全身で歌う蝉の声と、イグサの青臭くて、でも懐かしい匂いが絡まりあってじわりと脳内を熱くした。
「開かないね」
 ぽつり、と冬里が呟く。その声を聞きながら、博也は一度小さく息を吸う。静まり返った室内で呼吸音がくっきりと響いた。なにも言わずに口を閉じることが不可能なくらいはっきりと空気を震わせたその音に急き立てられ、博也は冬里を呼んだ。
「とーり兄ちゃん」
 なに? と眼鏡越しの目がこちらを向く。その彼に向かい、博也は問いを口にした。
「なんでもっと早く自分があのとーり兄ちゃんだって言ってくれなかったの。三回も会ってたのに。なんで」
 冬里が目を見張る。まっすぐに見つめられ、頬が熱くなる。そろそろと視線を外した博也の耳にあっけらかんと言う冬里の声が響いた。
「いやいや、駄目だろ。こっちは採用する側。君は試験を受けに来た側。知り合いがいるとなったらどうしたって気が緩む。それで失敗したら申し訳が立たない」
「言わなくても失敗したよ」
 言い返すと、可愛くないねえ、と彼は苦笑いした後、ついでのように呟いた。
「まあ、でも……思い出さないならそれはそれでいいと思ったんだよ」

 それは、それで。

 言われて博也はいらっとした。だが、瞬間的にわき上がった怒りにすぐさま首も傾げた。
 なぜ、自分はいらっとしたのだろう。
 別に取り立てて失礼なことを言われたわけでもないのに。
 この人と自分の間になにかがあったからなのか? なにが?
──俺、とーり兄ちゃん、好き。
「わあああああ!」
 頭の中に蘇った子どもの自分の声に博也はとっさに声を上げる。え、なに、と冬里が腰を浮かせた。
「急に大声出すなよ。心臓に悪い」
 胸の辺りを押さえた冬里に、ごめん、と謝りながらも、バクバクする心臓と上昇する体温に動揺し、博也は俯いた。
 そうだ。思い出した。
 小学六年生のときだった。この人に自分は告白をした。

☆☆☆

 当時、学校では恋愛が流行っていた。同じクラスの誰それが好きとか、誰と誰が付き合ったとか、三角関係になっていてもめているとか。
 正直、心震えるほど誰かを好きとか、手を繋ぎたいとか、そんなもの全然わからなかったし、むしろみんながそうやって騒ぐのも、一種の流行に乗りたいだけで本当の意味で恋愛をしている奴なんてどれほどいるんだよ、と醒めた目で周りを見てすらいた。
 なのに、自分はこの人に告白をした。
 理由は……離れたくなかったから。
 高校に入ってから勉強やら部活やらが忙しい冬里が、道場に顔を出す頻度は昔に比べたらぐっと減っていて、寂しさを感じてはいた。だから、よう、と気易い様子で道場へ入ってきた冬里を見て、博也は子犬のように駆け寄ってしまった。
「博也、背、伸びたな」
「親戚のおじさんみたいだよ。兄ちゃん」
 憎まれ口をたたくと、いいだろ、と冬里は目を細め、ぽんぽん、と博也の頭を叩いてから他の生徒のところへ行ってしまった。わらわらと子ども達が彼を取り囲む。そのひとりひとりに笑顔を向ける彼を遠目に見ながら、博也は小さく呼吸を整え、そうっと頭に手を触れた。
 彼の触れた部分がじんわりと温かく感じられてなぜか笑みがこぼれた。
 けれど、嬉しかったのはそこまでだった。
「俺さ、東京の大学、目指してるんだ」
 その日の練習終わりだった。モノトーンの制服に着替えた冬里と共に訪れたコンビニで、ラムネ味の棒アイスを買ってもらってほくほくしていると、同じアイスを食べながら冬里がなんでもないことみたいにそう言った。
「けど俺の成績だと結構厳しくてさ。予備校、明日から通うことになった」
「そう、なんだ」
 大人みたいな口調でなんとかそう返した。なんて言っていいのか、全然わからなかった。受験というものがまあまあ大変だということくらいは博也にだってわかっている。けれどその一大事に臨む冬里を気遣う気持ちよりも、そうなることでますます顔を見られなくなることのほうが、博也としては大問題に思えた。
「とーり兄ちゃんなら頭いいもん。大丈夫だろ」
 明るさを装ってそう言うと、お前ねえ、と冬里が眉を下げた。
「神童なんて呼ばれてたのはお前くらいの歳まで。中学でも高校でも俺は凡人だったよ。だからここで踏ん張らないとさ」
 もとからこの人は自分よりもずっと大人だった。でもアイスを片手に呟いた顔は元からある年齢の開きをさらに広げて見せるもので、博也はたまらなくなった。
 さっきまで夏を凝縮した青空みたいな味だと思っていたアイスが、子供だましの甘ったるさを舌に与えてきて、無性にいらいらした。
「受かんなきゃいいのに」
 気が付いたらそう言っていた。ぎょっとしたように冬里がこちらを向く。その彼の顔を見ないままに博也は怒鳴った。
「受かんなきゃ、ここにいられるんだろ!」
 歩く自分たちの横をバスが通り過ぎていく。その大きな影が冬里の顔を一瞬暗く沈ませた。
 謝らなきゃ、ととっさに思った。
 ごめん、ひどいこと言ってごめん。失敗しろなんて思ってないんだ。ただ、ただ。俺は兄ちゃんに頭を撫でられたかった。よくできたなって笑ってほしかった。
 博也って傍で名前を呼んでほしかった。
 これからもずっと。
 皆が熱中する恋愛ってやつが全然わからないと思っていたのに、このとき、すとんと腑に落ちた。
「俺、とーり兄ちゃんのこと、好きだ」

☆☆☆

 叫んだ自分の声の高さが耳に蘇ってきて、博也は赤くなる。
 大昔の告白だ。もう時効だ。そう思うのに動悸が止まらない。どうしよう、と慌てながらも博也は思い出していた。
 この人が言った「思い出さないならそれはそれで」を。
 この人は覚えているのだろうか。博也の告白を。覚えていて「思い出さないならそれはそれで」と言ったのか。
 棒アイスを一気に頬張ったときのように頭のてっぺんが痛む。思わず頭を押さえると、どうした? と冬里が顔を覗き込んできた。
「もしかして気分悪い?」
 そうじゃない。激しく首を振るが、彼はスマホを引っ張り出す。やっぱり圏外だよな、と焦った声で呟くその彼の手元を見て博也は瞠目した。
 小さな鈴がスマホについていた。目に鮮やかな赤い紐で結わえられたその鈴に書かれた文字に目が吸い寄せられた。
 そこには、合格祈願、とあった。
 好きと言ったあの日。答えも聞かず自分は走り去り、しばらく道場へ行くこともやめた。恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったから。でも冬里に投げつけた「受からなきゃいい」がずっと気になって仕方なかった。
 本気じゃなかったのだ。本当は応援したいのだ。離れたくないけど、冬里が悲しい顔をするのは断じて嫌なのだ。
 後日、神社でもらった合格祈願の鈴守りを握りしめ、博也は冬里の家へ行った。でも会う勇気はなかったから、そっとポストへ鈴を入れて帰った。
 その鈴が彼のスマホの横で揺れている。
 ちりり、と涼やかな音が耳に落ちる。
 彼は知っているのだろうか。ポストに鈴を入れたのが博也であることを。
 知らないのかもしれない。でももしも知っていて今もつけていてくれるのだとしたら。
 もしもそうだとしたら。
 ちりり、ちりり。鈴が鳴る。
 じりり。
 襲ってきた胸の疼きに急かされながら、博也は揺れる鈴を凝視する。
「あの、さ、訊いて、いい?」
 訊いたら戻れなくなる。そんな気がする。でも胸の奥に宿った熱が胸を締め付けてどうにも、ならない。
「鈴、それ……俺がポストに入れたやつ……なの、知ってた?」
 冬里がスマホを耳から離す。眼鏡のレンズ越しにわずかに目を見張ってから、彼はささやかに口角を上げた。
「うん、知ってたよ」
「どうして」
 どうしてそんな昔のものを、今まで持っていてくれたの?
 なあ、兄ちゃん。
 教えて。
 問いを重ねようとしたとき、機械音と共に扉のロックが外れる音が聞こえた。
「ああ、開いた」
 ほっとしたように冬里が腰を上げる。
 その手をとっさに博也は掴む。
「兄ちゃんは……覚えてたんだよな。俺が……兄ちゃんに告白、したこと、それ、あの」
「覚えてたよ」
 続けようとした博也の頭がそうっと撫でられたのはそのときだった。
「でも子どものときのことだ。博也は忘れたかったのかもなって思ったし、あえて言わなかった」
 あくまでも博也の気持ちに寄り添うように彼は言う。
 だけど知りたいのは、聞きたいのはそういう言葉じゃない。
「どう思ったの。あのとき。それから、あの、今……」
 再会した今、なにを思っているの。
「大城さん」
 不意に冬里の声がビジネス仕様へと様変わりする。唖然とする博也の頭に置かれていた手もすっと引かれる。そうされて、握りしめていた彼の手を博也は思わず離した。
「サーバーの動作チェック、お願いできますか? ドアの電子キーとは別系統から電源は引いていますから問題はないでしょうが、念のために」
 てきぱきと言われ、はい、と返事をし立ち上がりながら、博也は唇を噛みしめた。
 自分は、なにを期待していたのだろう。今でも鈴を持ってくれていた? それがなんだというのだ。
 そもそも、何年前の話だと思っているのだ。自分でさえ、生活に追われ忘れてしまっていたくせに。
 その自分が今さら何を言えるのか。
 うなだれながらも必死に仕事モードに戻ろうと博也は息を吸い、サーバー横で作業用PCを立ち上げる。
「大変失礼いたしました。すぐ取り掛からせていただきます」
「そうですね。お願いします。作業が終わりましたら……」
 そこでふっと言葉が途切れる。モニターに向けていた視線をそろそろと彼に戻した博也は息を呑んだ。
 彼が、微笑んでいた。
「朝ご飯食べにいこうか、一緒に」
 柔らかい彼の声に胸が、どきり、と鳴った。
 もう何年も前の恋だったはずなのに。
 この人の笑顔を見ただけで。この人の声を聞いただけで。
 自分はなぜ今、こんなにどきどきしてしまうのだろう。
 どうして自分は、今の彼の気持ちを知りたいと思ってしまうのだろう。
 この仕事が終わった後、自分は今までの自分でいられるのか。
 この夜が明けたら、自分は。
 不安なのに。怖いのに。
 彼が自分と同じ気持ちを持ってくれることなんて、きっとないのに。
 それでも。
「は、い……」
 頷いてしまう博也に向かって冬里がもう一度微笑む。その彼の手の中、スマホにつけられた鈴が、ちりり、とまた、鳴いた。