恋だの愛だの、そんな言葉では片付けてしまえれば、忘れることができたのだろう。
 肩書きのない狭間に、住む世界の違う私たちの重なる一瞬があった。私の未熟な思考は彼が好きなのだと判断できず、けれど抗えずに惹かれていた。この体を構成する細胞単位の何かが、彼を求めていた。

 年月を経てもその夜は色褪せない。その声も瞳も、体を滑り落ちる汗の雫までも、焼き付いている。

 鷹宮くんは、男の人だった。

***

 初めて彼と言葉を交わした時、私は呆気に取られていた。嘲笑や罵倒以外で声をかけられるのは久しぶりだったから、天変地異が起きたのかと思ってしまった。

「無理するなよ」

 彼の短い言葉は、私の知らない低音で奏でられている。
 彫刻刀で筋を入れたような二重の線に、切れ長の瞳。彼のまなざしは視線が交差しても鋭く、わずかな動作も見透かされてしまいそうで、捕えられているような心地になった。

 私の目的地は教室の後方にある掃除用具入れだったのに、頭からすっぽ抜けてしまって、握りしめた箒の感触もわからなくなっている。押しつけられた仕事を、片付けないといけないのに。

「いやなら、いやって言えばいい」

 薄い唇にわずかな隙間が開いて、低い声はその隙間から溢れている。唇を動かす時の緩慢な動きは色めいたものを感じて、言い終えた後にちろりと出た舌が下唇を舐めるまで、私は彼から目を離せずにいた。

 (たか)(みや)くん――それが、彼の名前だ。
 高校三年の夏が終わるまで、彼と言葉を交わしたことがなかった。三年間同じクラスでも、教室は見えないグループに分けられている。

(住む世界が違う、太陽みたいな人だと思っていたのに。私に声をかける?)

 どのクラスにも太陽がいる。太陽はクラスの中心にいて周囲を明るく照らし、それに集まる生徒はまるで周回軌道をする天体のよう。その太陽が鷹宮くんだった。飛び抜けて明るい性格ではなく、発言が多い方でもない。表情変化は乏しく、大声で笑うことも少ないくせに、なぜか彼の周りに人が集まる。近くにいる者だけは彼の性格に良いものを見つけているのか、それとも人を引き寄せる何かがあったのかもしれないけれど、私は遠く離れていたのでわからない。
 クラスメイトが集まっても彼の姿は目立った。目印のように彼の頭だけがぽこんと浮いているから。背丈もあるが姿勢もよかった。授業中も休み時間も、彼の背はぴんと伸びている。鷹宮くんを取り囲む者が『イチハチナナ』と話していたことがある。鷹宮くんは背が高いから、きっと身長の数字だ。

 そんな鷹宮くんが私に話しかけるのは意外なことだった。
 なぜなら私は、周回軌道から外れて、遠く遠く、光もあたらぬ場所にいる。一刻も早く、学校生活という暗闇が終わるようにと願っている虚しい生徒だ。
 今だって、私は一人で掃除用具の片付けをし、手には五本の箒。この後は雑巾を片付けて、私じゃない日直のためにノートを書く。皆は私に雑用を押し付けて帰ってしまった。人に声をかけられる時は最低限の連絡事項か嘲笑のため。ならば無視された方が楽だと思っていた日々だから、突然声をかけてきた鷹宮くんに驚いていた。
 返答を考えなければいけないのに、うまく動けない。吸いこんだ息を吐き出すことさえ恐ろしい。

「突然、言うことじゃなかったな」

 反応できない私に焦れたらしく、鷹宮くんが立ち上がる。
 彼が使う机や椅子は背丈に合わせて高めに調整されていた。鷹宮くんは机に置いていた鞄を手に取る。その動きに合わせて、汗ばんだ開襟シャツに鎖骨の形が浮き上がった。私はなぜか息を潜めて、その様を眺めてしまった。

「じゃあな、()(みず)()

 告げるなり、彼は教室を出ていく。

(すごく、低い声をしていた)

 私は教室で立ち尽くし、呆然と考えていた。

 もしかすると、彼は私を心配してくれたのではないか。『無理するなよ』の言葉には優しさが秘められていた気がする。
 しかし、それを反芻するより先に彼の姿が思い浮かぶ。

 去り際に見えた横顔。彼の前髪は短いから、額から鼻筋にかけてのなだらかな曲線がよくわかる。薄い唇、顎と伝い落ちた先で突出した喉仏。太い首。彼の姿を一瞬しか見えていないのに、頭から離れてくれない。

(おとこのひと、だ)

 クラスでも街でも異性を見かける。隣に座ったこともある。保健体育の授業で男性と女性の違いを習ったこともある。
 なのに、鷹宮くんはおとこのひとだと思った。

(心臓の音がうるさい。この感覚はどうして)

 熱に浮かされる思考を止めようと念じてみるが、それでも顔が熱くなっていく。体が汗ばんでいるのは緊張が解けたことだけが理由じゃない。私の中に潜んでいた感覚的な何かが、彼に反応をしている。
 彼が私を見下ろした時、どのように影が落ちるのだろう。あの広い肩幅も逞しい腕も。
 許されるならば、触れてみたい。他人に対し、そのような考えを抱く自分自身がいるのだと、その時はじめて知った。

 私と住む世界の違う、優しい、おとこのひと。
 それが鷹宮くんだった。

***

 色づいた校庭の木々が、その葉を少しずつ落とし始めると、教室の空気はぴんと張り詰め、卒業という透明な文字に支配しているようだった。解放的な夏と終焉の冬に挟まれた、最も窮屈な季節だ。

「鷹宮はいいよな。受験、関係ないだろ」

 窓際最後列の席にて読書に耽っていた私は、鷹宮くんの名に反応して顔をあげた。両手は本を持ったまま、視線だけを動かして彼の席を見る。背筋を伸ばして椅子に座る鷹宮くんと、周りの空いた席に座るクラスメイト。そこには、いつも通りの太陽系惑星の天体図があった。

 話を振られた鷹宮くんは慌てたように答えた。

「そんなことない。俺だって勉強してる」
「鷹宮の家なら安泰じゃん。実家が太いってチートだよなあ」

 もはや本の内容は頭に入っていなかった。気づかれれば『上水流がこっち見てるぞ』と揶揄われるので、息を殺して聴覚を研ぎ澄ませる。なぜ鷹宮くんに受験は関係ないのか。その疑問を解くように、誰かが言った。

「だって、鷹宮グループじゃん。よくCMでやってる」

 鷹宮グループ。テレビのCMはリゾートホテルがメインだったが、不動産など幅広い事業を手がけ、その会社ロゴは街中でよく見かける。苗字からわかる通り、鷹宮グループの社長が彼の父親だった。両親は別の高校を勧めたらしいが、彼がこの高校を選んだらしい。「送迎してもらえよ」と揶揄うクラスメイトに「そこまでじゃないって」と鷹宮くんは苦笑いをしていた。

(本当に、違う世界に住む人だ)

 教室の立ち位置や席だけではない。住む世界も違う。
 思えば彼の背筋はいつだって伸びている。制服のシャツだって、皺ひとつない。鞄は三年使っていると思えないほど綺麗で、それに比べて私の鞄のみすぼらしいこと。兄のおさがりでもらった中古品だが、心ないクラスメイトから鞄を捨てられたり泥水をかけられたりとしたためひどく傷んでいる。できる限り補修をし、手洗いをしてきたがダメージは隠しきれず、鞄を見た母が『これじゃ弟におさがりできない』とため息を吐いていた。

「それで、鷹宮はどこの大学に行きたいの?」
「東京の大学で考えてる。親には、海外進学せめて海外留学しろって言われてるけど」

 クラスのほとんどは大学進学を希望し、就職組は一部だった。私もその一人である。学力的には問題ないのだが、いかんせん進学費用がない。奨学金制度を利用しての進学を考えたが、母に猛反対されてしまった。我が家の最重要事項は中学三年生の弟についてであり、私に関する事柄の優先順位は低かった。

「あー。お前、好きな人がいるから海外行きたくないって言ってたもんな」
「は!? 鷹宮って好きなやついるの!? 誰だよ」
「俺の話はいいから。盛り上がるなって」

 鷹宮くんは、お金だ兄弟だと悩まなくていいのだろう。羨ましい。卑屈な思考が止まらない。

(もうやめよう。住む世界が違う)

 逃げるように、本へと視線を戻そうとし――瞬間、視界の端で鷹宮くんがこちらを見た。
 視線が交差したのは一瞬なのに、頭の中でばちりと音がなった気がした。盗み聞きしていた気まずさから、私は本を持ち上げて顔を隠す。表情を知られぬよう、自然を装って右耳にかけた髪をおろした。

(変なやつだって思っているかもしれない。こっち見るなって言われるかもしれない。見なければよかった)

 クラスのほとんどは私と目が合えばいやそうな顔をする。だから鷹宮くんも、いやだと思っているのではないか。後悔と同時に自己嫌悪の波が襲って、息が苦しくなる。興味なんて持たなければよかった。

 学校生活に期待しても裏切られるだけだ。息を潜めて、気配を殺して、やり過ごすのが一番いい。だから、鷹宮くんという存在を忘れようと決めた。

***

 冬の、いつもと変わり映えのない日。四時間目が終わるなり、地獄が始まった。

「お願いがあるんだけど。もちろんいいよね? 断らないよねえ?」

 粘ったような甘い声が降り注ぎ、私は身を震わせた。見上げれば、にやついた顔で話す女子生徒がいる。その両隣に控えた取り巻き女子たちもくすくすと笑っていた。植え付けられた恐怖によって私の表情筋が強張っていく。無理やりに押し上げ、ぎこちない動きで頷いた。

「さすが上水流さん! いつものやつ買ってきてね」
「あたし、からあげとサンドイッチ」

 昼飯を買いに行ってこいという命令だが、立て替えたお金を払ってくれるかは彼女らの気分次第で、『上水流さんのおごりね』と強制されることもある。しかし断れば悲惨な結果になるため、従うしかない。感情を殺して、理不尽を受けていれる。それが一日を平穏に終えるコツだった。
 けれど、その日は違っていた。眩しいと感じた時には彼がそばにいた。

「お前ら、いい加減にしろ」

 低い声。太陽が、照らしている。
 どうして鷹宮くんが声をかけているのか理解できていない。けれどそれを考えるよりも先に、私のあらゆる感覚は、鷹宮くんに夢中だった。
 彼の言葉や動作はスローモーションとなって、記憶に焼き付けられていく。眉根を寄せて皺が寄るまでの動き。授業が終わっているのにリムレスの眼鏡を外し忘れていること、開いた唇から覗く舌や、怒気を孕んでより低くなった声も、ぜんぶ。覚えてしまう。彼がこんなに近くにいるのは、あの放課後以来だ。けれど、その時と表情が違う。まるで今にも爆発しそうなほどに膨らんだ太陽。

「自分で買いにいけよ。子供みたいないやがらせをして楽しいか?」

 これに、女子生徒たちは顔色を変えた。

「わかったから、そんなに怒らないで!」
「鷹宮くんがそんなこと言うなんて」

 女子たちが去っていく。私は呆気にとられていた。三年近く耐えてきた地獄が、いともたやすく打ち破られてしまうなんて。けれど、同じ台詞を私が言っても彼女らの耳には届かない。生意気だの気持ち悪いだのと罵られるのが目に見えている。

(本当に、太陽かもしれない)

 今日は引っ込んだ女子生徒たちも、明日にはいつも通りの苛烈な対応に戻るかもしれない。その不安は抱かなかった。だって鷹宮くんが、眩しかったのだ。鷹宮くんの言葉は彼女らに刺さった。強烈な光に照らされて、影が消えてしまうみたいに。

「上水流、その……」

 鷹宮くんは隣に立ち、椅子に腰掛けたままの私を見下ろしていた。言葉の続きはどれほど待っても出てこない。私たちは言葉を発さずに見つめ合っている。
 夏よりも伸びた前髪を煩わしそうにかきあげるのは大きな手だ。私と違う、骨張って大きな手のひら。

 この時の私に余裕があったのなら。頭を悩ませる環境にいなかったのなら。
 鷹宮くんを前にした時だけ抱く感情について考えていたかもしれない。恋や愛といったありきたりな名称だって、受け入れることができたのかもしれない。

(私、また変なことを考えている。だめだ。冷静にならないと。鷹宮くんは住む世界が違うのだから)

 私は、逃げるように顔を背けた。鷹宮くんのまなざしに晒されれば、この浅ましい感情が見透かされる気がした。

「……いや。なんでもない」

 彼は何かを言いかけるもやめてしまった。去り行く鷹宮くんの背を眺めていると、寂しさと後悔が一気に押し寄せてくる。

(ありがとうと言えなかった)

 彼の様子をつぶさに観察していたくせに、肝心なことが言えていない。
 勇気を振り絞ってお礼を言いにいこうと考えたが、鷹宮くんの周りにはいつもの人たちが集まっていた。心なしか、鷹宮くんの表情が暗い。私が近づける隙はなかった。

 その後から女子生徒たちに絡まれることが減った。冬休みや自由登校日のせいなのか、それとも鷹宮くんの影響力なのか。理由はわからないまま、私の地獄は軽減されていった。

***

 待ち望んで居た日を迎えて、やっと解放されるのだと思った。
 黒板には『卒業おめでとう』の文字がでかでかと描かれ、周りは色紙で作った花が飾られていた。

「上水流さん、これまでごめんね」
「いろいろあったけど、お互い頑張ろ」

 散々私を虐げてきた女子生徒が手のひらを返して声をかけてくる。この三年を都合良く書き換えてしまったらしい。私は曖昧な返事をして終わらせたけれど、この先も彼女らを許すことはできないだろう。

 鷹宮くんはあちこちに引っ張りだこで、卒業式が終わっても声をかけられなかった。そのうちにいなくなってしまって、きっと帰ったのだ。この後は仲の良い友達と出かけるのかもしれない。

(最後までお礼が言えなかった)

 駅まで向かう道中はひどく憂鬱だった。
 高校生が終わってしまった。私は狭間の時間にいる。来月から社会人として仕事がはじまるけれど、それまでは肩書きがない。高校生が終わって社会に入るまでの、宙ぶらりんの状態。大学進学が決まって学生でいられたのなら、この寂寥は姿を変えていただろうか。
 あれほど待ち望んでいた卒業を迎えたのに、突然放り出されたような気がする。学生だからと守ってくれた制服に袖を通さなくなる。新しい道を行くのに、こんなにも気が重たいなんて。

「――っ、上水流!」

 鷹宮くんの声がした。
 その方を見やれば駆けてくる彼がいて、私は縫い止められたように動けなくなった。彼は急いでこちらにやってきて、荒い呼吸を整える間もなく早口で捲し立てる。

「ずっと探してた。時間ある? 少しでいいから話したい」

 時間は余りすぎるほどあった。家に帰っても母は仕事があって帰宅は遅く、弟は卒業旅行でいない。兄もサークル活動に勤しんで家を空けてばかり。私の卒業は、軽いイベントとして扱われている。
 それよりも、鷹宮くんと話がしたかった。こんな形で会えるなんて思っていなかったのだ。私だって彼と話がしたい。お礼を言いたい。

「じゃあ、一緒に来て」

 私が頷くと、すぐに手を引っ張られた。私の手に、鷹宮くんの手のひらが重なっている。
 ぴり、と体のどこかに電流が走ったような気がした。彼の手のひらはやっぱり大きくて、私の手を包みこんでしまう。触れた箇所から、熱が伝わってくる。これが他人の皮膚の感触か。けれど、触れているうちに熱はぬるくなって、まるで体温が混ざっている。
 そのうちに手を繋ぐような形になり、けれど鷹宮くんは一度も振り返らなかった。私は彼の後ろ姿ばかりを追いかけるだけ。

 辿り着いたのは、別の世界の住人であると見せつけるような家だった。敷地はフェンスでぐるりと囲まれ、庭も手入れが行き届いている。西洋の本に描かれていそうな美しい二階建ての家に私は面食らっていた。ぴかぴかに磨かれた玄関に私のくたびれたローファーは悪目立ちし、恥ずかしい気持ちになる。
 広い家に私たち以外の人の気配がなかった。問うと、鷹宮くんは「いつも、仕事で遅いから」と私の顔を見ずに答えていた。

「……連れ込んで、ごめん」

 リビングを足早に通り抜け、階段をあがった先の部屋に入る。鷹宮くんが詫びてから、繋いだ手は離れた。

「上水流と落ち着いて話がしたくて。良い場所が思いつかなかった」

 その部屋は鷹宮くんという人間を体現するように整理整頓されている。シルバーのワイヤーデスクには学校で見たことのある眼鏡ケースが置いてあった。
 彼は制服のブレザーを脱いでハンガーに掛け、クローゼットに戻す。ネクタイは緩んだままでシャツの第一ボタンも外れていたけれど、それらを整えることなくベッドに腰を下ろした。彼がこちらを見る。

「隣、座って」
「でも」

 良いのだろうか、と返答に悩んでしまった。その気まずさを和らげるように彼は続ける。

「床に座らせるっていやだから、こっちにきて。ソファとかあればよかったけど」

 部屋に家具は少なく床に座るぐらいしか選択肢がない。ならば隣に腰掛けてもよいのかもしれない。免罪符を得たような気持ちになって、私はおずおずと歩を進める。
 隣に腰掛けると、ベッドのスプリングの沈む音が、やけに耳についた。

「鷹宮くんの部屋、素敵だね」

 純粋にそう思った。私とは住む世界が違う、綺麗な部屋だ。

 鷹宮くんはあのデスクで勉強をしている。彼の身長に合わせたチェアに悠然と座るのだろう。時には隣に置いてある書棚の本に手を伸ばすかもしれない。書棚には本がきっちりと並び、どれも読んだことのあるタイトルだった。最近、学校で読んでいたものもある。彼も同じ物を好むなんて初めて知った。彼も、ベッドに寝転んで本を読むのだろうか。ああ、でも鷹宮くんには似合わないかもしれない。背筋を正して読む姿のがいい。
 どうしても想像してしまう。彼の普段の姿を探してしまう。あの放課後に声をかけられるまで、こんな自分がいるとは知らなかった。理性というよりは本能という単語が似合う。

(鷹宮くんのことになると、私はおかしくなってしまうみたいだ)

 今は、隣にいるというのに。冷静にならなければと念じていると、鷹宮くんが強張った表情で告げた。

「俺、東京の大学に行く。一人暮らしになるから、しばらく戻ってこないと思う」
「合格おめでとう。大事な話って、そのこと?」
「違う」

 二人きりの部屋に、短く息を吸いこむ音が聞こえる。
 彼は、意を決したように真剣な表情をして、私を見つめて。それから――。

「俺は、上水流が好きだった」

 ぴたり、と動きが止まった。頷くなどの動作が出来なくなって、鷹宮くんから視線が剥がせない。

「一年の時から今日までずっと、好きだった。いつも目で追いかけて、上水流が放課後に残る時は俺も残った。上水流が読んでる本を真似して読んだこともある」
「……気づいてなかった」
「ごめん。俺が意気地なしだったから。声をかけたいのにかけられない。いやがらせから守りたいのに勇気がでない。情けない高校三年間だろ」

 鷹宮くんは自嘲ぎみに笑っていたけれど、鷹宮くんが声をあげてくれた日から、私を取り巻く環境は変化した。あれは鷹宮くんだからこそ届いた言葉だと思っている。

「でも。鷹宮くんが私を助けてくれたこと嬉しかった。ずっとお礼を言いたかった。ありがとう」
「お礼を言われるようなことしていない。俺は三年の冬まであいつらを止められなかった、好きな人を守れなかったやつだから。東京に行くって追い込まれるまで告白できない情けない男なんだ。本当は気持ちを告げる資格もないのかもしれないけど」

 心の弱さを口にし、俯く。私の知らない一面だった。
 どう言葉をかけたらいいのかわからなくて、私はあたふたとするばかり。告白をされたのだとわかっているけれど。

「あ、あの……鷹宮くんの気持ちは嬉しくて……でも、私、好きとか考えたことが」
「いいよ。そんな余裕はなかったこと、ずっと上水流を追いかけていたから知ってる」

 彼は目を伏せてふっと短く笑っていた。
 鷹宮くんは三年間抱き続けた想いを終わらせようとしているのだ。これから新しい道に進むため、心残りを狭間の時間に置いていくために。

 そこまで、私を好きだったのだろうか。でも好きとは何だろう。好きとか恋とか、そういうものはよくわからない。生半可な覚悟で答えを出してはいけない気がする。
 けれどひとつだけ、確かなことがあった。

「私、鷹宮くんはおとこのこだと思っていた。手とか腕とか、私と違う体をしているって」

 許されるのならば、触れてみたい。その欲が生じたことは言えなかったけれど、交差する視線から彼は何かを読み取ったのかもしれない。
 私を捉えるまなざしに、覚悟を秘めた色が宿る。

「最後だから、わがまま言ってもいいか?」

 頷くと、すかさず鷹宮くんが言った。

「上水流を抱きしめてみたい」

 柔らかな表情をし、懇願するように小首を傾げている。けれど、その瞳だけは違う。
 やっぱり、おとこのひとだ。
 あの瞳に間近で見つめられたら。あの腕に抱きすくめられたら。さっきまで繋いでいた手の熱が恋しい。温度が溶けてわからなくなるあの感覚がほしい。
 彼から視線を外すことなく、告げた。

「いいよ」

 私の返答を、鷹宮くんは予測していたのだろう。大きな体が私を覆う。視界が暗くなったけれど怖くない。背に回された腕は太陽のように温かくて、抱きしめる力が切ない。
 手を回せば逞しい背に触れる。シャツ越しに浮き上がった肩甲骨と、肌にあるしっとりとした熱さ。けれど触れているうちに温度はわからなくなる。もう混ざってしまった。

「俺も、上水流を見るたびにおんなのこだと思ってた。柔らかくて小さくて、触れたくなる。さっき、手を繋いだ時も離したくなかった。ずっと上水流に触れてみたかった」

 きっと引き返せない。
 彼の腕にいるのはおんなのこで、私を抱きしめているのはおとこのひとで。彼が好きだと理性が結論を出すより早く、本能が惹かれている。
 彼は三年間も、この感情を抱き続けていたのだろうか。

 鷹宮くんは私の首元に顔を埋めていたけれど、切羽詰まったように息を吐いて顔をあげた。

「ごめん。止められないかもしれない――いやなら、いやって言って」

 彼の言葉が示唆するものは理解していた。きっと私も、彼と同じ瞳をしている。
 触れてしまえば次の欲が生じて、止まらなくなって、次は唇に触れてみたいと願うのだ。
 その予感の答えあわせをするように影が落ちた。



 名残を惜しむように、鷹宮くんは繋いだ手を離そうとしなかった。男の人の、優しい手だ。狭間の時間にいる私たちは、甘えるように指先を絡めて、過去や未来についてたくさんの話をし、いずれ来るだろう明日に知らないふりをしている。 
 私たちは住む世界が違う。卒業したばかりの私たちは別々の道を行くことが決まっている。明日を放棄できる勇気があれば未来を誓い合えたのかもしれないけれど、三年間気づけずにいた私や情けない男だと自嘲する彼も、そんな勇気を持っていない。お互い自覚しているから、連絡先について語ることはしなかった。

 駅の近くまで手を繋いで歩いていく。夜が、終わっていく。それぞれの場所に帰る時間がくる。

「私、帰るね。大学生活、頑張って」
「そっちも無理すんなよ」

 うん、と短く言った後に、手が離れた。
 もう振り返らないと決めて、歩きはじめる。彼の足音は聞こえなかった。まだその場に立ち止まっているのかもしれない。

「いつか、お前を守れるほど強くなったら――」

 自らを意気地なしだと嘆いていた彼が、一歩を踏み出す音が聞こえた。

「また、会いたい」

 本当は振り返って『私も』と伝えたかった。けれど、次に彼の顔を見てしまえば耐えられずに駆け出してしまうだろう。
 私たちの道が交わったこの夜には愛や恋といった名前が相応しく、鷹宮くんのことが好きだと伝えてしまうかもしれない。だから、伝えたかった言葉は胸の奥に深く沈める。

 この夜に名前を付けたくない。
 私たちの道が交わる日が来てまた会えたなら。その時はこの夜に名前を付けよう。

 鷹宮くんは、男の人だった。