「――っ! お前のことが、好きだーーーっ!」

 昼休み。雄々しい叫び声は唐突に夏空を駆けた。
 聞こえたのは、窓の外から。方向からして上だから、もしかして屋上だろうか。

「ははっ! 聞こえた?」

「聞こえた聞こえた! まったく、誰だよ」

 僕のいる教室では、一瞬の静寂のあとにどよめきが走った。机を挟んで真向かいにいる田口も、右隣にいる横峰も類にもれない。田口は購買で買ってきた焼きそばパンを片手にからかうような笑みを浮かべているし、横峰も呆れたように肩をすくめている。

「まあでも、すげえ青春っぽいよな」

 ただひとり。左隣にいる澤矢だけが感心したようにつぶやいた。僕も同感で、まるで僕の好きな青春恋愛の小説か映画を見ているような高揚感を覚えていた。そんな感想を口にしようとしたところで、田口の笑い声が響いた。

「はははっ、マジで言ってる? さすがに映画かドラマの見過ぎだろ」

「それな。つーかはずくね?」

 横峰も同意とばかりに頷く。続けて、「なあ、黒木?」と僕に訊いてきた。
 僕は中途半端に開けた口を閉じてから、「うん。ちょっと恥ずかしいかな」と小さく笑った。

「ほらー! はい、三対一〜!」

「えーマジで?」

「そういう澤矢は大声で告白できんのかよ。俺はぜってー無理。そもそも朝野はそういうの嫌いそうだし」

「まーた始まったよ。田口の朝野大好き恋バナが」

「ほんと物好きだよな」

 やいのやいのと歓談が加速する。もう僕は置いてけぼりだ。
 もう一度、窓の外へと目を向ける。開け放たれた窓から涼やかな風が吹き込んできた。
 もう、あのカッコいい声は聞こえてこない。もし告白なのだとすれば、相手の人はどんな返答をしたんだろう。受け入れてくれたんだろうか。それとも拒まれたんだろうか。
 ふう、と気づかれないように小さく息をつく。
 それから、いつものように田口の白熱した恋バナに愛想笑いを返した。


 *


 僕、黒木(くろき)浩介(こうすけ)は、青春恋愛小説が好きだ。
 中でも、ライトノベルに代表されるラブコメ要素の強いものというよりは、一冊で完結するシリアス要素の強いライト文芸が好みだ。
 でも、周囲には同じ趣味を持つ人はいない。アニメや映画で青春要素の入ったものを見る人はいても、男子高校生で青春恋愛メインの、それも小説を好んで読んでいる人は、少なくとも僕の周りでは聞いたことがない。もちろんSNSとかで探せばいることにはいるが、やはり青春恋愛小説を好んで読んでいるのは女子が多いし、出版社の多くも女性をメインターゲットに設定しているし、おそらく世間一般でもメジャーではないんだろう。
 小説よりも、漫画やアニメや映画。
 ライト文芸よりも、ライトノベル。
 青春恋愛よりも、ファンタジーやアクションやミステリー。
 僕の好みはとことん少数派で、昼休みのやりとりを見てもわかるように友達もさして興味がなさそうなジャンルだ。だから、僕はいつも一緒にいる田口にも横峰にも澤矢にも趣味については言っていない。雰囲気に合わせて、一緒に笑っているほうが楽だから。一緒に映画を観に行く時は必ずウケの良いアクション映画を勧め、流行っている異世界ファンタジーのアニメをリアタイ視聴し、僕なりのありきたりな感想を言っては盛り上がる場に与する。
 べつになにも変ではない。その時々の流行りをしっかり拾っておくことは大切だし、雰囲気を壊さないように話を合わせるのは誰もがやっていることだ。
 ただ、モヤモヤはしている。
 自分の好きなものの話になった時、僕はそれを好きということができない。
 話の流れは「好きではない」、あるいは「興味がない」に向けられていることが多いから。だから、その空気を読むなら、僕が答えるべきはYESではなくNOになってしまう。
 本当は、僕は好きなのだと言いたい。今日の昼休みに聞こえてきた告白の声だって、ややラブコメに近いけれどいかにも青春恋愛小説のクライマックスみたいな感じで僕は好きだ。茶化すのではなく、全力で応援したい。
 でも、できない。僕はへらへらと笑って、曖昧に頷きながら中途半端な回答しかできない。そんな回答しかできない自分が、心底嫌いだ。
 だからだろうか。
 僕は、青春系の小説が好きであると同時に憧れも抱いていた。
 子どもでも大人でもない主人公が、逆境を乗り越えて成長していく物語に惹かれていた。
 もっとも、あんなふうになれたらとは思うけれど、なかなかうまくいかない。自分の気持ちを素直に話したいと思っても、友達の顔を見れば怖気づいてしまって、僕にはやっぱり無理なんじゃないかと思ってしまう。
 青春小説の主人公がまぶしい。
 大好きな小説を閉じる時、僕はいつもそんな想いに駆られていた。


 *


 夏の青空に響く告白を聞いた日の翌日。四限目終了のチャイムが鳴り終わるや、僕は弁当と小説を持って教室を出た。
 今日は週に一度、ひとりでお昼を食べる日だ。いつも一緒に食べている田口と横峰は部活の昼ミーティングがあり、澤矢も委員会の仕事で図書室に行かないといけないらしい。他のクラスメイトと食べるのもいいのだが、僕は密かに小説を読みながらご飯を食べられるこのぼっち飯の日を楽しみにしていた。

 昨日の夜に半分読んだし、今日で読み終えられそうだな。

 自然歩調は速くなり、左手に持った文庫本の表紙を無意識に指でなぞる。この小説は昨日の帰りに寄った書店で衝動買いしたものだ。そのまま夕食後には夢中で読み始め、あやうく宿題をやり忘れるところだった。今日の通学時間と昼休み、そして帰宅してからの自由時間で読み終え、余韻に浸る予定でいる。
 はやる気持ちを抑えつつ、僕はいつも使っている誰もいない駐輪場裏へと続く通用口をくぐった。

「うおっと!?」

「わっ!?」

 その時、タイミング悪く角から出てきた生徒とぶつかった。拍子に僕の手からは小説が滑り落ち、相手の手からも数冊の本が床に散らばる。

「あっ、ご、ごめん!」

 慌てて謝り、その相手を見上げて、驚いた。
 そこに立っていたのは、僕よりも頭ひとつ分は大きい高身長の男子。爽やかで端正な顔立ちはもちろんのこと、その運動神経の良さやコミュニケーション能力の高さは僕の比ではない。
 同じクラスの人気者、凛堂(りんどう)(ひかる)が僕を見下ろしていた。

「いや、俺のほうこそごめん。ちょっと余所見してて」

 苦笑いを浮かべて、凛堂くんは顔の前で片手を上げた。それだけの仕草がもはや絵のようで、僕とは住む世界が違うんだなと実感する。

「それとこれ、ほい」

「あ……」

 手渡されて、はたと気づく。
 今しがた落とした本を、凛堂くんがすべて拾ってくれていた。つまり僕の手にあるのは、紛れもなく僕が落としたもので。それはすなわち、僕が他の人には見られたくないもの、特に同じクラスの男子で友達も多い人には知られたくなかったものを見られ、知られてしまったことを意味していた。
 思わず、僕はお礼を言うことも忘れて彼の手から本を引き取る。

「可愛いイラストの小説だな」

「……っ」

 どくん、と一際大きく心臓が跳ねる。最悪だ。確かに僕もイラストに惹かれて手に取ったのでその感想には同意なのだが、言葉の裏にあるだろう彼の感情を想像すると素直に頷けなかった。文庫カバーを付けてもらうのを忘れた昨日の浮かれアンポンタンな僕を呪いたい。

「あんまし黒木と話したことなかったから知らなかったけど、そういうの結構読むの?」

「え、と、まあ……」

「へぇ、そっか」

 ほんとに最悪だ。寄りにもよって見られたのがなんで凛堂くんなんだろう。教室で見かける彼は話し上手で、いつもみんなを笑わせている印象がある。もしかしたら、本当に悪気なく話題の一環で話されてしまう可能性だってある。ここは言わないように口止めをお願いしたほうがいいんだろうか。でもべつに変なものを読んでるわけでもないし、「みんなに言わないで」なんて言うのもおかしい気もする。いったいどうしたら……

「やっぱり、そうか」

 そこで、ふいにクスリと笑う声が聞こえた。なにを言えばいいのかわからずただ突っ立っていた僕は、再度彼を見やる。

「黒木、これ読んでるの誰かに知られたくなかったんだろ?」

「え」

 衝撃の言葉に、僕は固まった。けれど、その後に続く言葉は被害妄想的に想像していたものとは全く異なっていた。

「俺もさ、じつは同じなんだ。この本読んでるの、クラスのやつらとか周りの友達に知られたくない」

 そう言って僕に見せてきたのは、今しがたぶつかって落とした本だった。その表紙には、どこかアンニュイな表情をした和服のイケメン男性が、同じ和服の可愛いらしい女性を抱き寄せているイラストが描かれている。

「俺、溺愛ものの小説が好きなんだ」

 凛堂くんは、教室でも見たことのない困った表情で笑った。


 *


 それから僕は、凛堂くんに誘われるがまま一緒に昼食を食べることになった。

「ごめんな、いきなり誘っちまって」

「いや、大丈夫、だよ」

 ぎこちなく返事をしてから、僕は膝の上に広げた弁当箱からウインナーを口に運んだ。緊張しているせいか、味はあまりわからない。
 僕たちが今いるのは、駐輪場裏手にある芝生だ。なんでも、ちょうど凛堂くんも最近この場所を見つけてちょくちょく通っていたらしい。僕も毎週来ていたので、鉢合わせしなかったのが不思議なくらいだ。

「にしても、まさか黒木も俺と同じような悩みを抱えてたなんてな。こう言っちゃなんだけど、俺だけだと思ってたわ」

「だよね。じつは僕もそう」

「やっぱし? 恋愛とか進路とかに悩んでるやつは多いけど、趣味で悩んでるってあんま聞かないもんな。まあ、言ってないだけかもしれねーけど」

 おにぎりを片手に、からからと凛堂くんは笑う。そこには先ほどまでの困ったような表情はなく、むしろどこかいきいきとしているように見えた。
 その笑顔を見ていると不思議と緊張がほぐれてきて、僕はおもむろに口を開く。

「ちなみになんだけど、凛堂くんはどうして自分の読んでる小説を知られたくないの?」

 どうしても気になったこと。
 僕が知る限り、凛堂くんは意思表示がはっきりしている人だ。この前あった文化祭の出し物決めでも自分の好き嫌いをはっきり発言していたし、休み時間に友達と話しているところを見ても僕みたいに曖昧に頷いているだけといったことはない。そんな凛堂くんなら、多少小説の好みが周りと違っていても仲の良い友達くらいになら言ってそうなものだ。
 僕の問いに凛堂くんは少し考えてから、すぐ近くに置いてあった小説を手にとった。

「この小説さ、知ってる?」

「え、いや……ごめん」

「だろ? 黒木の持ってる小説と同じレーベルから出てるのに知らない。だったら、普段小説を読まない俺の友達や彼女はなおさらだ。んで、仮に知ってもらうとするならイチから説明しないといけない。青春恋愛もそうだけど、溺愛系はやっぱり女性向け要素が強くてさ。変にいじられるのも腹立つし、うまく面白さを伝えられる自信もないから知られたくないってわけ」

 いやに饒舌に凛堂くんは言った。文化祭の出し物決めで熱く話していた時よりも早口で、僕は心底驚いた。

「やっぱりさ、怖いんだよ。自分の好きなものを否定されるかもしれないってのは」

 そしてなにより、あの明るくてクラスの中心にいる凛堂くんが、他人の顔色をうかがってばかりで地味な僕と、本当の意味で同じ悩みを持っていることに驚愕していた。
 なにも変わらなかった。
 凛堂くんも、僕と同じで心の内を話すことに怯えていた。

「あの、さ」

 見覚えのある凛堂くんの横顔に、僕は言葉をかける。

「良かったら、凛堂くんのおすすめの小説、僕に教えてくれないかな?」

「え?」

「なんていうか、面白さを伝える練習、じゃないけど……僕も小説好きだし、同じレーベルが好きな仲間として知りたいなって、思って……」

 しどろもどろになりつつも僕は言った。
 純粋に、本当に知りたいと思った。
 僕自身の勝手なフィルターを通してじゃなくて、凛堂くん自身の言葉で、彼のことを、小説のことを知りたいと思った。こんな気持ちになったのは、初めてだった。
 凛堂くんはしばらくポカンと口を開けていたけれど、やがて短く笑ってから頷いてくれた。

「わかったよ。じゃあ、来週もここで弁当一緒に食べようぜ」

 青春小説の、始まりみたいだと思った。


 *


 あの日以降、僕と凛堂くんは毎週金曜日に駐輪場の裏でお昼を一緒に食べるようになった。

「俺が今読んでる中で一番おすすめしたいのは、これかな。いわゆるシンデレラストーリーなんだけど、敵国の皇子に見初められてからのヒロインの甘やかされっぷりがたまらなくてさ」

「へぇー! ちょっと見せてもらってもいい?」

「おう、ぜんぜん! つーか、一巻はもう読み終わったし、これも良かったら貸してやるよ」

 凛堂くんは僕の想像以上に詳しくて、毎週おすすめの小説を貸してくれた。最初はコミカライズもされている有名どころの王道溺愛小説、次は凛堂くんが持ってる中で一番のお気に入りらしいあやかし和風ファンタジー要素が入った甘々な溺愛小説、そして今回のシンデレラストーリーらしい溺愛小説と、溺愛ものの中でもいろんな方向性のものを勧めてくれた。
 しかもそれだけじゃなくて、凛堂くんは僕の読んでる青春ものにも興味を示してくれた。

「それと、この前貸してもらった余命もののやつ、めっちゃ良かった! あのラストは予想外すぎるだろ」

「だよね! 想像の斜め上というか、ヒロインの過去と繋がった伏線が回収された時は泣きそうになったよ」

「わかる。でも黒木、泣いてはいないのな?」

「まあ、涙腺が干からびてるからね」

 最初は気を遣っておすすめを訊いてくれたのかと思ってたけれど、すぐに違うとわかった。凛堂くんは僕のおすすめはもちろん、図書館にある青春小説コーナーの本まで読んで、逆に「これ読んだ?」と訊いてくるほどだった。こういうところはさすがの凛堂くんコミュ力で、僕もいつの間にか軽口をたたけるくらいには気を抜けるようになっていた。
 けれど、僕たちはこの金曜日のお昼以外はみんなの前でなるべく喋らないことにしていた。やっぱりいきなり仲良くなると周りからあやしまれるし、そこから僕たちの趣味が知られて変なイメージが友達の中で独り歩きしようものならたまったものじゃない。
 あくまでも学校生活はいつも通り。土日は凛堂くんは部活だし僕も塾があるので、貸し借りしている小説のやりとりも、その感想の共有も、周囲に見知った人が誰もいない金曜の昼休みだけにしていた。そんなルールのうえで、僕と凛堂くんは繋がっていた。
 楽しかった。
 こんなに充実した気持ちになったのはいつ以来だろう。
 素直に話せることが心地良かった。その相手がまさか、凛堂くんとは思っていなかったけど。

 そして今日。祝日でいつもの感想共有ができない金曜日に、僕と凛堂くんは最近新しくできた大型書店に行くことになった。

「うわぁ〜、広いなあー!」

「ほんとに! あ、あそこに併設されてるカフェに買う前の本持ち込みできるらしいよ」

「おっ、ブックカフェってやつか。買うか迷ってるやついくつかあるし、持ち込んで読もうかな〜」

「あーいいね!」

 ウキウキと胸が高鳴る。ひとりで書店に行く時とはまた違った感覚で、いつもは心の中で消化していた気持ちを共有できるのが嬉しい。

「僕もいくつか買いたいものがあるのと、この前凛堂くんが勧めてくれたシリーズ、買ってじっくり読んでみようかなって思ってる」

「お、いいじゃん! じゃあとりあえず俺はいくつか見繕ってカフェのほうにいるから、また後で来てくれよ」

 そう言うと、凛堂くんはひらひらと手を振って女性向けの小説が多く置かれているコーナーへと歩いていった。
 なんだか不思議な感じだった。
 今日ここへ来ることになったのは凛堂くんが誘ってくれたからだ。いつもお昼を食べている金曜日が今週は休みで少し残念に思っていただけに、誘ってくれた時はすごく嬉しかった。僕がふたつ返事で頷くと、凛堂くんは大袈裟なくらいに喜んでくれた。その笑顔を見て、また僕は嬉しくなった。
 田口たち他の友達と一緒にいる時間とは異なる感覚。もちろん、彼らと過ごす時間も楽しい。だけど、趣味を含めてありのままの自分でいられる凛堂くんとの時間は、それ以上に楽しかった。

「みんなとも、こんなふうに過ごせたらな」

 平積みされた新刊の青春恋愛小説を二冊手に取る。透明感溢れる二人の学生が向き合っているイラストに、涙を風に乗せながら儚げに笑う女の子のイラスト。きっと、この二冊の小説の主人公たちも、物語の中で自分や相手と向き合っているんだろう。
 そしてさらに、その横にあった溺愛ものの小説を眺める。表紙の中で、華やかな和装に身を包んだ女性が、軍服のような装いの男性にしなだれかかっている。凛堂くんからいろいろ勧められてわかったけれど、どうやら僕は和風溺愛ファンタジーが好みらしい。こんな発見があったのも、凛堂くんと話せるようになったからだ。

「まっ、言えない趣味も増えたけどね」

 つい持ち上がる口の端を我慢しながら、僕はその新刊も買おうと手に取った。

「あれ、黒木じゃん」

 唐突に、聞き慣れた声が耳を衝いた。ヒヤッと背筋に冷たいものを感じつつ、僕は声のほうを振り返る。

「お、やっぱり。奇遇だな」

「澤矢」

 学校指定のジャージ姿に、大きめのナイロンバックを肩にかけた澤矢がにこやかに片手を上げていた。


 *


 どきりと心臓が嫌な音を立てた。さらに鼓動は早くなり、背中には汗が伝っている。

「こんなとこで会うなんてな。俺、部活帰りにちょっと涼もうかなって寄ったんだよ。黒木は?」

「僕、は」

 上手く言葉が出てこない。なんて答えたらいいんだろう。
 なんて答えるのが、正解なんだろう。

「欲しい、本があって。あと、最近できたから一度来てみたかったんだ」

「おーそうなんだ! 確かに品揃え豊富だもんな〜」

 のんびりと話す澤矢に対して、僕の頭の中ではぐるぐると思考が駆け巡っていた。

「う、うん。しかもブックカフェも併設されてるし」

「そうそう。漫画は無理だけど、ラノベなら持ち込めるじゃん? 今月金欠だからさ、買うやつ選別しないとなんだよな」

「そ、そうなんだ」

 話しているうちにも、三冊の小説を持つ手に汗がにじむ。つられて、可能なら小説を見えないように隠したい衝動に駆られるも、せっかく話題が逸れてるのにそっちに話題が引かれるのは避けたい。
 どうかこのまま、訊かれませんように。
 そんな願いを心のうちで思う。

「にしても、珍しいの買おうとしてんな。黒木って、そういうのも読むっけ?」

「あ……えと」

 しかし、願いも虚しく澤矢は僕の手にある小説へと目を向けた。渦巻いていた思考は、さらに加速する。
 どうしよう。なんて、なんて言えばいいんだろう。

「この、本は」

 僕はいつも、澤矢たちにファンタジーやミステリーが好きだと言っていて。
 澤矢もファンタジーが好きだから、よくその話で盛り上がっていて。
 だから、僕が青春恋愛や溺愛の小説が好きだなんて伝えてはいなくて。
 ……伝えられれば、いいのだと思う。
 べつに悪いことをしているわけでもない。ただ、周囲とちょっと違ったジャンルが好きなだけだから。でも、それでも。

「……ちょっと、妹に頼まれたんだ。ついでに買ってきてほしいって、さ」

 僕はいつものようににへらと笑って、言い訳を吐いた。
 やっぱり、どうしても僕は空気を読んでしまう。
 事実として嫌いではないから、みんなが好きなものを僕も好きと言って話を合わせる。そのほうが場は盛り上がるし、変な空気にもならない。みんながどんな反応をすればいいのか困るジャンルは、そっと僕の心の中にしまって、そしてひとりで楽しめばいい。

「へぇ、なるほどね。黒木って意外と優しいもんな〜」

「いや、意外とってなに」

「はははっ、冗談だよ。黒木、ファンタジーも見るだろ? 俺あんまし長居できないから、少しだけ一緒に見ようぜ」

「うん、行こう」

 でも、このままでいいんだろうか。
 田口も横峰も、そして澤矢も、決して悪いやつじゃない。ひとの趣味を、ただ笑って馬鹿にするような人ではない。多少からかわれるかもしれないけれど、真っ向から否定するようなやつではない。
 それに、凛堂くんと素直に話せるようになって思った。
 もう少しだけ自分のことを話して、さらけ出してもいいんじゃないだろうか。
 そのほうが、もっと楽しく過ごせるんじゃないだろうか。
 凛堂くんのことだって、最初僕は一方的な偏見で見てしまっていた。クラスの人気者が、僕と同じような悩みを持つはずがないと。けれど、実際は違くて。出会い頭にぶつかったあの時をきっかけに、僕たちは自分の心の内を話すようになって、そして仲良くなった。だったら……

「澤矢」

 歩き出しかけた歩みを止めて、僕はジャージの後ろ姿に声をかけた。

「ん? どうした?」

 澤矢が振り返る。緊張からか、さっきと同じように心臓がひときわ大きく脈動する。
 小さく一度深呼吸をしてから、僕は口を開いた。

「えと、妹もまあたまに読むんだけど……じつは、僕もこのジャンル、好きなんだ」
 
 僕の言葉に、澤矢が驚いたように目を見開いた。

「ごめん、今まで言ってなくて。ファンタジーももちろん好きなんだけど、この青春恋愛もののほうがすきで、最近は溺愛ものっていうジャンルも面白いって思ってる」

 声が震えた。
 さっきまでとは比べ物にならないくらい、背中を冷たい汗が伝っていた。やっぱり、話を合わせているほうが何倍も楽だと思った。
 けれど、僕は少しでも、僕が憧れる青春小説の主人公に近づきたい。一歩だけでもいいから、前に進みたい。

「へぇ、そうなんだ」

 澤矢の顔からは、いつの間にか驚きの表情が消えていた。なにを言われるのかと、僕は身を固くする。

「まっ、俺は知ってたけどな」

「…………へ?」

 予想外の言葉に、僕の口からは呆けた声が漏れた。

「あーでも勘違いするなよ。その溺愛もの、だっけ? そのジャンルが好きなのは今初めて知った。そしてまさか、このタイミングでそれを話してきたことにも驚いた」

 からからと澤矢はあけすけに笑う。馬鹿にしているふうではない。

「いつ話してくれんのかなーって思ってはいた。田口や横峰と本屋行った時だって、黒木、青春系の本棚チラチラ見てただろ」

「え」

「それに、俺は図書委員だぞ。借りるタイミングずらしてたのかもしれねーけど、返却された本の記録整理してたらわかるんだよ、黒木がよく青春系借りてること。つーか、だから俺は図書室に青春小説コーナー作ってくれーって司書の先生に提案したんだし」

「えぇっ!」

 今度は僕が驚く番だった。最近凛堂くんもよく見てたみたいだけど、青春小説コーナーは確かに僕好みの小説がたくさん陳列されていた。あれはそういう理由だったのか。

「まあでも、俺らが話しにくくしてたんだよな。そこは、わりい」

「いやいや! そんなの、ただ僕が怖気づいてただけだし」

「それでも、だ。それと、話してくれてサンキューな」

 澤矢が短く笑う。
 その時、心がすうっと軽くなったのがわかった。抱えていた苦しさが、薄れていく。
 涙がこぼれそうになった。ほかの人にしてみれば、そんなことでと思うかもしれないけれど。
 でも、「そんなこと」が、「そんなこと」を受け入れてくれたことが、僕にとってはたまらなく嬉しかった。

「っと、やべっ。俺そろそろ行かねーと。黒木、できたら来週の月曜、早めに学校来てくれ!」

「え、なんで?」

「いいからいいから。それまでに俺も心の準備しておくし。時間はそうだな、七時半ごろで頼むな!」

「え、早っ! ちょっ」

 悲鳴に近い僕の呼びかけも虚しく、澤矢は書店の出入り口へと小走りに駆けていった。
 僕はぽかんと馬鹿みたいに口を開けたまま、その背中を見送る。

「やるなあ、黒木」

 図ったようなタイミングで、凛堂くんが現れた。手を乗せられた肩が、ほんのりと温かい。
 僕はどんな顔をしたらいいのかわからず、「俺も頑張らないとな」と話す凛堂くんに曖昧な笑顔を返すだけだった。
 けれど、決して嫌な曖昧さではなかった。


 *


 土日を挟んだ、月曜日の早朝。
 澤矢に言われた通り、僕はいつもより三十分以上早く登校した。

「おーおはよ。黒木」

「澤矢、おはよ」

 校門横の塀に背中を預けて立っていた澤矢に、僕は挨拶を返す。

「悪いな、こんな早くに」

「いや、いいよ。おかげでいつもより電車は快適だったし」

 いつもより何本か早めの電車に乗ってきたからか、車内はかなり空いていた。あの満員電車を回避できるなら、もう少し早い時間に出てもいいかもしれない。

「よし、じゃあそろそろ時間だし行くか」

 僕がそんなどうでもいいことを考えていると、澤矢はスマホに目を落としてから言った。

「行くって、どこに?」

 僕はきょとんとして首を傾げる。
 結局、金曜日のあの後にSNSで澤矢に理由を尋ねたが「まだ準備できてないから当日まで秘密」と教えてくれなかった。こんな朝早くに登校して、しかもこれからどこかに行くだなんて、いったいなにをするんだろうか。

「ああ、そんな遠くじゃねーよ。すぐそこでやってる、サッカー部の朝練をのぞきに行くだけ」

「はい?」

 ますます意味がわからない。
 さらに急角度で首を傾ける僕を促して、澤矢はグラウンドのほうへと歩き始めた。

「一応聞いておくけどさ、黒木って青春恋愛の小説が好きなんだよな?」

「え? うん、まあ」

「じゃあきっと、おあつらえ向きだ」

 グラウンド横にある部室練近くまで歩いてくると、その影に身を潜める。僕も彼に倣って、とりあえずその横に並んだ。

「ほら、見てみろよ」

「あれって……」

 彼と同じように建物の影から顔をのぞかせると、その先にはグラウンドの隅で仲良さそうに話す田口と、朝野さんがいた。

「ほら、田口ってマネージャーの朝野のこと大好きだろ? いつもああして、アプローチしてるらしい」

「あ、そうなんだ」

 朝練自体は終わっているらしく、部員の数は随分と少ない。その中で、確かに田口は積極的にあれやこれやと朝野さんに話題を振っていた。

「でもあの様子じゃ、朝野はまだ田口のこと意識してなさそうだな。友達感覚って感じがする」

「そ、そう? 結構親しげだけど」

「それはそうだけど、まだ大丈夫。てか今はそうであってくれ」

 澤矢の言葉に、僕は弾かれたように彼の顔を見た。

「俺な、じつは好きなんだ」

 ぽつりとつぶやく澤矢の表情は、複雑そうに歪んでいた。

「ずっと田口の話聞いてて心配でさ。でも朝野とはべつに親しくないから訊けないし、のぞき見する勇気も出なくて」

 苦しくて、でもどこかホッとしたような表情。
 いつかの日に読んだ小説の場面が思い出される。そうだ、それこそ確か、青春小説コーナーにあったものだった。その小説でも、主人公の友達は叶わない恋をしていて、影からのぞいていた。

「だけど、金曜に黒木が小説のこと話してくれて、俺もちょっと前に進んでみようかなって思った。これは、その一歩目」

「そう、なんだ」

「ああ、だから、今日だけは一緒にのぞき見してほしくてさ。それとほら、見てみ」

「え、あれって……」

 視線を戻すと、ちょうど横峰が二人の間に割って入るところだった。

「笑えるだろ。横峰のやつ、俺たちと一緒に田口の恋バナを茶化して物好きだとか言ってたくせに、あいつも朝野のこと好きみたいでさ。なんとなくそんな気はしてたけど、やっぱり好きらしいな」

 衝撃だった。
 僕は、心の底から驚いていた。
 澤矢も横峰も、どちらかといえば素直にあれこれと自分の考えを言うタイプだと思っていた。
 けれど、これも違っていた。二人とも、僕と同じように素直な気持ちを隠していた。

「黒木もさ、その場の空気を読んで言わなかったんだろ。俺も、横峰もたぶん同じだと思う。やっぱり、雰囲気とか関係って壊したくないからな。だから、黒木はそのままでいいんだよ」

「澤矢……」

 しみじみとつぶやく彼の横顔は、いつかの僕と、そして凛堂くんと似ていた。
 僕は本当に、違ってばかりだ。

「って、おい! そこにいるのは澤矢か!」

 その時、早朝の空に大きな叫び声が響いた。見れば、大きく目を見開いた田口に、戸惑う横峰と朝野さんがこちらを見ていた。

「あらーどうやらバレちまったみたい。そろそろ行きますか」

「う、うん」

 部室棟の影から、僕たちは出る。すると、「えー! 黒木もいたのかよ!」とさらに叫び声が続いた。

「ったく、うるさいな。にしても、愛が重いことで有名な朝野のどこがいいんだか」

「え」

 その言葉に、また僕は驚く。
 澤矢は、走ってくる田口に呆れたような、どこか愛おしさをはらんだような、そんな視線を送っていた。

 そっか。本当に、みんなは……。

 どうやら、僕はどこまでも勘違いをしていたらしい。

「おい! 澤矢に黒木! お前らなんでのぞき見なんてしてんだよ!」

 目を怒らせて迫ってくる田口。

「うっせーな! 青春してたんだよ!」

 そんな田口に澤矢は屈託のない笑みを返してから、「なっ?」と僕のほうを振り返った。

 ふいに、凛堂くんとぶつかった時のことが蘇る。
 あの時、僕は青春小説の始まりみたいだと思った。
 そして今も、僕は同じことを思っていた。
 いつか田口や横峰にも伝えたい。
 だから、まずはその一歩を僕は踏み出す。

「うん、そう! 青春してたんだ!」
 
 グラウンドに立つみんなに向かって、僕は力一杯叫んだ。
 凛堂くんにもこの気持ちを伝えたいな、と思いながら。
 
 僕たちを照らす朝日は、とてもまぶしかった。