それからというもの、『ジェンダー論』の授業ではいつも滝波くんが私の席の隣に座ってくれた。こそばゆい感じもして、男の子と二人並んで周りから変に思われたらどうしようと不安になったものの、誰も私たちのことなど目に入っていない様子だった。
『ジェンダー論』の講義だけではなく、お昼も食堂で十二時に待ち合わせをするようになった。ひとりぼっちじゃない。誰かと一緒に食べるご飯は、不思議と味に彩りが宿ったようだった。
滝波くんは講義中、いつも私のノートをじっと見ていた。何がそんなに面白いんだろうか。私は不思議に思ったけれど、ノートについては特に何も聞けなかった。最初に話しかけてくれた時も「ノートを熱心に書いてたから気になった」と言ってくれたっけ。そんなことを気にしてくれる人がいるんだ。滝波くんって、ノートオタクだったりして……と、勝手に妄想を膨らませてはおかしくてぷっと吹き出した。
「なんで笑ってるの?」
『いや、なんでもない。妄想してた』
「妄想? なんだよ、本間さんってそういうおかしな妄想癖があるのか?」
『ないない! 勘違いしないでよ。滝波くんがずっとノートを見てるから気になって!』
「ああ、それはごめん。本間さんが書いてる文字があんまり綺麗だから気になってさ」
さらりと上手に私の字を褒めてくれる滝波くん。私たちは、講義中なのに小声と筆談でどうでもいい話を繰り広げる。
『滝波くんはどうしてこの講義を受けることにしたの?』
「『ジェンダー論』のこと? ああ、それは。世間はマイノリティな人たちに対して、どう向き合うべきなのか、考えさせられるのかなって思って。そう言う本間さんは?」
マイノリティ。
彼の口から飛び出してきた単語に、咄嗟に頭に浮かんだのは『なないろ』のキャッチコピーだ。
【一人では抱えきれないマイノリティな悩みを、掲示板につぶやこう。『なないろ』できっと、誰かが共感してくれる】
『私もだいだい同じ。ねえ、知ってる? マイノリティの悩みを、相談できるアプリがあるんだ』
気がつけば私は、講義中にもかかわらずスマホの画面を開き、滝波くんに『なないろ』を見せていた。彼と友達になってから『なないろ』を開いていない。昨日、「ぼっち飯だ」と投稿したものに、いくつかコメントが来ていることに気がついた。
【ぼっち飯はツラいな。気持ちわかるよ。ao】
【大丈夫!明日には友達できるって!yaaaa】
【ぜひ、一緒にご飯を食べましょう!笑 kano】
「これ……」
なぜか、私の昨日の投稿を見た滝波くんの目が大きく見開かれた。
「ねえ、ちょっと見せてもらっていい?」
私は咄嗟に頷く。『なないろ』に興味を持ってくれたのかと思い、彼にスマホを渡した。
滝波くんは私のスマホをスクロールして、いくつかの投稿を眺めていた。
「これって、誰でも投稿したりコメントしたりできるの?」
滝波くんはグッと私に近づいて聞いた。ち、近い。講義中なのに、こんなに接近していいんだろうか——。
不覚にもドキドキと高鳴ってしまう鼓動をなんとか無視して、私は頷いた。
『うん。マイノリティな悩みを持つ人なら基本的に誰でも投稿できるよ。何か審査があるわけでもないし、自分が“マイノリティな人間だ”って思えば、参加できる。そもそも、そういう悩みを持った人しか、このアプリの存在にすら気づかないんじゃないかな』
「なるほど」
滝波くんが、ふんふんと頷きながら私の書いた文章を見つめている。
私は、自分が『なないろ』に出会った時のことを思い出していた。
場面緘黙症で長年悩んでいた私は、ネットに癒しを求め、いろんなアプリを使ってみた。だが、みんなが使っている写真投稿SNSやつぶやきアプリは合わなかったのだ。写真でキラキラした自分を見せたいという欲求もないし、そもそも自分の人生で煌めいていたと思える瞬間がない。つぶやきアプリに至っては、誰彼構わず有名人の悪口を叩く人や、世の中に文句を言う人で溢れていて嫌だった。一度、つぶやきアプリで日常生活が上手くいかないという弱音を吐き出したら、フォロワーがどんどん減っていくという現象に見舞われたこともある。自分の趣味嗜好と合わない投稿をしている人がいれば即ブロック。悩みに寄り添う義理なんてない。そんな、針山のような場に、私の求める癒しはなかった。
『なないろ』に出会ったのは、他のSNSを使うことを諦め、「マイノリティ つらい」というワードでネットで検索をしたのがきっかけだ。
マイノリティの人が集うアプリを紹介している記事がヒットして、記事を読み終えた私は即『なないろ』をダウンロードした。初めて投稿をした時、なんでもないつぶやきに知らない誰かから「いいね」が来たこと、「つらいですね」と共感してくれるようなコメントが届いたこと、あの時の胸の高揚は忘れられない。
私の居場所はここだったんだ。
瞬時にそう理解して、それ以来SNSはもっぱら『なないろ』だけを使っている。
そんな『なないろ』も、滝波くんと話すようになってからはあまり依存しなくなっているのだけれど。久しぶりに開くと、やっぱりここは私にぴったりな優しい空気感が漂っていると思う。
「ちなみにさ、コメントをするのはどういう人? このコメントも、ユーザーなら誰でもでいるんだよね?」
『うん、誰でもできるよ。フォローとかフォロワーとかないから。お悩み掲示板みたいなものなんだ。だから、絡んだことのない人の投稿に、いきなりコメントすることもできるよ』
「そっか。この“kano”って人は? すごくたくさんコメントくれてるようだね」
私の投稿をいくつか眺めていた滝波くんが、ふとkanoさんの名前を口にした。
kanoさんは、入学式の日の投稿にコメントをくれてから、毎日欠かさず私の投稿に反応を示してくれていた。同じ「場面緘黙症」という病気を患っていたことが大きな要因なのだろう。確かに私自身、毎回コメントをくれるkanoさんには、他のどのユーザーよりも親近感を抱いている。
『kanoさん、最近コメントくれるようになったんだけど、確かにいつも見てくれてて優しい人だなって思う』
『なないろ』に生息している人たちは基本的にみな優しい。
一人一人が、心に傷を抱えていたり、孤独感に苛まれていたりするから、他人の痛みが分かるのだ。だからこそ私は、他のSNSよりも『なないろ』にハマっていると言える。
「そうなんだ。気が合うのかもね。あとごめん。見ちゃったんだけど……本間さんって場面緘黙症なの?」
どきりと、心臓が一回大きく跳ねる。
場面緘黙症のことを、リアルで他人に教えたことはない。滝波くんが『なないろ』の私の投稿を見始めてから、きっとあの病気についての投稿も見られるとは覚悟していた。逆を言えば、彼ならば、病気について知られても良いと思ったのだ。
私はゆっくりと深く息を吐きながら、小さく頷いた。
「そっか。プライベートなこと、詮索するようなことしてごめんね」
滝波くんの眉が斜めに下がる。心から申し訳ないと思ってくれているようで、私は胸がツンとした。彼が謝るようなことは一つもないから。
『大丈夫。滝波くんになら、教えてもいいって思ったから。滝波くんは、私が人前で喋れないことも、すぐに受け入れてくれたから』
そうだ。彼は、初めて言葉を交わした時から、私が喋れないと察してすぐに筆談をしようと言ってくれた。ああ、私、嬉しかったんだって、ようやく気づいたんだ。
小学生で場面緘黙症を発症してから、新しく知り合う人たちには奇異の目で見られてきた。その視線から逃れるように、自分の殻に引きこもった。友達をつくりたくても勇気が出なかったのは、「また変な目で見られたら嫌だ」という根本的な悩みが胸を巣食っていたから。
「……僕は、目の前にいる本間さんが、どう思ってるとかどう感じてるとか、そういうことを大切にしたいんだ。受け入れるとか受け入れないとかじゃなくて、本間さんは本間さんだから」
滝波くんは吐息を吐くような繊細な言葉で、思いをぶつけてくれた。
どうしてだろう。耳には、講義中の教授の声がマイクを通して大きく響いていて、滝波くんの声の方が小さいはずなのに、マイクの音はBGMみたいに遠く感じた。
本間さんは本間さんだよ。
出会って間もない私の病気を知ってもなお、本音で答えてくれる滝波くんのことを、私は不思議なほど愛しいと感じてしまった。
『ジェンダー論』の講義だけではなく、お昼も食堂で十二時に待ち合わせをするようになった。ひとりぼっちじゃない。誰かと一緒に食べるご飯は、不思議と味に彩りが宿ったようだった。
滝波くんは講義中、いつも私のノートをじっと見ていた。何がそんなに面白いんだろうか。私は不思議に思ったけれど、ノートについては特に何も聞けなかった。最初に話しかけてくれた時も「ノートを熱心に書いてたから気になった」と言ってくれたっけ。そんなことを気にしてくれる人がいるんだ。滝波くんって、ノートオタクだったりして……と、勝手に妄想を膨らませてはおかしくてぷっと吹き出した。
「なんで笑ってるの?」
『いや、なんでもない。妄想してた』
「妄想? なんだよ、本間さんってそういうおかしな妄想癖があるのか?」
『ないない! 勘違いしないでよ。滝波くんがずっとノートを見てるから気になって!』
「ああ、それはごめん。本間さんが書いてる文字があんまり綺麗だから気になってさ」
さらりと上手に私の字を褒めてくれる滝波くん。私たちは、講義中なのに小声と筆談でどうでもいい話を繰り広げる。
『滝波くんはどうしてこの講義を受けることにしたの?』
「『ジェンダー論』のこと? ああ、それは。世間はマイノリティな人たちに対して、どう向き合うべきなのか、考えさせられるのかなって思って。そう言う本間さんは?」
マイノリティ。
彼の口から飛び出してきた単語に、咄嗟に頭に浮かんだのは『なないろ』のキャッチコピーだ。
【一人では抱えきれないマイノリティな悩みを、掲示板につぶやこう。『なないろ』できっと、誰かが共感してくれる】
『私もだいだい同じ。ねえ、知ってる? マイノリティの悩みを、相談できるアプリがあるんだ』
気がつけば私は、講義中にもかかわらずスマホの画面を開き、滝波くんに『なないろ』を見せていた。彼と友達になってから『なないろ』を開いていない。昨日、「ぼっち飯だ」と投稿したものに、いくつかコメントが来ていることに気がついた。
【ぼっち飯はツラいな。気持ちわかるよ。ao】
【大丈夫!明日には友達できるって!yaaaa】
【ぜひ、一緒にご飯を食べましょう!笑 kano】
「これ……」
なぜか、私の昨日の投稿を見た滝波くんの目が大きく見開かれた。
「ねえ、ちょっと見せてもらっていい?」
私は咄嗟に頷く。『なないろ』に興味を持ってくれたのかと思い、彼にスマホを渡した。
滝波くんは私のスマホをスクロールして、いくつかの投稿を眺めていた。
「これって、誰でも投稿したりコメントしたりできるの?」
滝波くんはグッと私に近づいて聞いた。ち、近い。講義中なのに、こんなに接近していいんだろうか——。
不覚にもドキドキと高鳴ってしまう鼓動をなんとか無視して、私は頷いた。
『うん。マイノリティな悩みを持つ人なら基本的に誰でも投稿できるよ。何か審査があるわけでもないし、自分が“マイノリティな人間だ”って思えば、参加できる。そもそも、そういう悩みを持った人しか、このアプリの存在にすら気づかないんじゃないかな』
「なるほど」
滝波くんが、ふんふんと頷きながら私の書いた文章を見つめている。
私は、自分が『なないろ』に出会った時のことを思い出していた。
場面緘黙症で長年悩んでいた私は、ネットに癒しを求め、いろんなアプリを使ってみた。だが、みんなが使っている写真投稿SNSやつぶやきアプリは合わなかったのだ。写真でキラキラした自分を見せたいという欲求もないし、そもそも自分の人生で煌めいていたと思える瞬間がない。つぶやきアプリに至っては、誰彼構わず有名人の悪口を叩く人や、世の中に文句を言う人で溢れていて嫌だった。一度、つぶやきアプリで日常生活が上手くいかないという弱音を吐き出したら、フォロワーがどんどん減っていくという現象に見舞われたこともある。自分の趣味嗜好と合わない投稿をしている人がいれば即ブロック。悩みに寄り添う義理なんてない。そんな、針山のような場に、私の求める癒しはなかった。
『なないろ』に出会ったのは、他のSNSを使うことを諦め、「マイノリティ つらい」というワードでネットで検索をしたのがきっかけだ。
マイノリティの人が集うアプリを紹介している記事がヒットして、記事を読み終えた私は即『なないろ』をダウンロードした。初めて投稿をした時、なんでもないつぶやきに知らない誰かから「いいね」が来たこと、「つらいですね」と共感してくれるようなコメントが届いたこと、あの時の胸の高揚は忘れられない。
私の居場所はここだったんだ。
瞬時にそう理解して、それ以来SNSはもっぱら『なないろ』だけを使っている。
そんな『なないろ』も、滝波くんと話すようになってからはあまり依存しなくなっているのだけれど。久しぶりに開くと、やっぱりここは私にぴったりな優しい空気感が漂っていると思う。
「ちなみにさ、コメントをするのはどういう人? このコメントも、ユーザーなら誰でもでいるんだよね?」
『うん、誰でもできるよ。フォローとかフォロワーとかないから。お悩み掲示板みたいなものなんだ。だから、絡んだことのない人の投稿に、いきなりコメントすることもできるよ』
「そっか。この“kano”って人は? すごくたくさんコメントくれてるようだね」
私の投稿をいくつか眺めていた滝波くんが、ふとkanoさんの名前を口にした。
kanoさんは、入学式の日の投稿にコメントをくれてから、毎日欠かさず私の投稿に反応を示してくれていた。同じ「場面緘黙症」という病気を患っていたことが大きな要因なのだろう。確かに私自身、毎回コメントをくれるkanoさんには、他のどのユーザーよりも親近感を抱いている。
『kanoさん、最近コメントくれるようになったんだけど、確かにいつも見てくれてて優しい人だなって思う』
『なないろ』に生息している人たちは基本的にみな優しい。
一人一人が、心に傷を抱えていたり、孤独感に苛まれていたりするから、他人の痛みが分かるのだ。だからこそ私は、他のSNSよりも『なないろ』にハマっていると言える。
「そうなんだ。気が合うのかもね。あとごめん。見ちゃったんだけど……本間さんって場面緘黙症なの?」
どきりと、心臓が一回大きく跳ねる。
場面緘黙症のことを、リアルで他人に教えたことはない。滝波くんが『なないろ』の私の投稿を見始めてから、きっとあの病気についての投稿も見られるとは覚悟していた。逆を言えば、彼ならば、病気について知られても良いと思ったのだ。
私はゆっくりと深く息を吐きながら、小さく頷いた。
「そっか。プライベートなこと、詮索するようなことしてごめんね」
滝波くんの眉が斜めに下がる。心から申し訳ないと思ってくれているようで、私は胸がツンとした。彼が謝るようなことは一つもないから。
『大丈夫。滝波くんになら、教えてもいいって思ったから。滝波くんは、私が人前で喋れないことも、すぐに受け入れてくれたから』
そうだ。彼は、初めて言葉を交わした時から、私が喋れないと察してすぐに筆談をしようと言ってくれた。ああ、私、嬉しかったんだって、ようやく気づいたんだ。
小学生で場面緘黙症を発症してから、新しく知り合う人たちには奇異の目で見られてきた。その視線から逃れるように、自分の殻に引きこもった。友達をつくりたくても勇気が出なかったのは、「また変な目で見られたら嫌だ」という根本的な悩みが胸を巣食っていたから。
「……僕は、目の前にいる本間さんが、どう思ってるとかどう感じてるとか、そういうことを大切にしたいんだ。受け入れるとか受け入れないとかじゃなくて、本間さんは本間さんだから」
滝波くんは吐息を吐くような繊細な言葉で、思いをぶつけてくれた。
どうしてだろう。耳には、講義中の教授の声がマイクを通して大きく響いていて、滝波くんの声の方が小さいはずなのに、マイクの音はBGMみたいに遠く感じた。
本間さんは本間さんだよ。
出会って間もない私の病気を知ってもなお、本音で答えてくれる滝波くんのことを、私は不思議なほど愛しいと感じてしまった。