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綻びは、あまりにもあっさりと現れた。
県立松葉大学の入学式が行われる学内のホールには、約二千人もの新一年生がずらりと並んでいる。私もそのうちの一人だ。みんな、一様に黒いスーツに身を包んでいて、溢れんばかりの期待と、喜びが滲み出ていた。もちろん不安を抱えている人もいるだろうけれど、視界に映る同級生たちはみな、学長の長い話にもしっかりと頭を上げて前を見据えている。私はみんなと違って、大勢の人たちを前にして、不安に心を黒く塗りつぶされていった。家を出る前は、あんなにも希望を持って前に進もうと思っていたのに、これまでと変わらない。むしろ、今まで以上に多くの同級生たちに囲まれて、より一層焦燥感に駆られた。
それでも、式の最中はまだ良かった。誰も、私語をしている人なんていないから。
入学式が終わり、学部ごとに行われるオリエンテーションに向かう最中、私は動悸がずっと止まらなかった。
ガヤガヤと、周囲の人間が近くの人と喋る声が私の耳に届く。
「初めまして、磯貝佳奈です。よろしくね」
「初めまして。こちらこそよろしく」
自己紹介をして、「どこ高校出身?」「何学部?」「現役?」「何県出身?」「一人暮らし?」などと互いのパーソナリティについて尋ねる声が、何度も聞こえてきた。折り重なるようにして、隣を歩く人も、前を歩く人も、後ろを歩く人も、誰かと言葉を交わしている。時々笑い声だって聞こえてくる。決して不快な音ではないはずなのに、きぃんという嫌な響きだった。まるで、モスキート音みたいだと思った。
「あの」
ふいに、トントンと誰かから肩を叩かれる。私はびくりと身体を震わせて、声がした方に視線をやる。私の、右隣だった。そこには、なぜか私の水色のハンカチを持った女の子がいた。
「これ、落としましたよ」
その女の子は、見た目は地味で、教室の窓際の席で本を読んでいるのが似合うような、真面目らしい人だった。私が、友達になるならいちばん適しているように思える。私も、派手なタイプではないから。
「……」
ありがとう、と言おうとして口を開いたけれど、言葉は出てこない。
今朝、階段を降りながら必死に練習したのに、やっぱり……。
黙りこくっている私を不思議そうに見つめる女の子は、私が緊張しているとでも思ったんだろう。「はい」と私の手にハンカチを握らせてくれた。
「ねえ、もし良かったら私と友達になってくれないかな?」
私の名前は、上山花乃っていうの。
女の子——上山さんが、自分の名前をそっと告げる。
花乃……って、どこかで聞いたような……。
頭の中でぐるぐると記憶をまさぐっていると、ようやくピンときた。そうだ。今日、『なないろ』の私の投稿にコメントをくれた人。確か、ハンドルネームが『kano』だったような。
でも、その人が上山さんだという保証はない。むしろ、そうである可能性の方が低い。
「……」
私は、上山さんの「友達になろう」という言葉に、やっぱり何も返すことができなかった。
これにはさすがに彼女も戸惑いを覚えたのか、遠慮がちに「また、今度ね」と手を振りながら、私の隣からさっといなくなった。
そりゃ、そうだよね……。
親切に落としたハンカチを拾ってあげたのに、その人に「友達になろう」って提案したのに。その相手は、ただの一言も喋らないんだもの。「ありがとう」さえ言えない人間に、これ以上付き合うべきではないと判断したに違いない。
私は、誰にも聞こえないくらいの大きさでため息をつく。朝、お母さんと話している時は今度こそ、新しい自分に生まれ変わって楽しい学生生活を送れるって信じていたのに。
一度ネガティブな思考に支配されると、出口のない迷路に迷い込んだような心地にさせられる。私は、どの道を選んでも結局行き止まりにしか辿り着けない。
大学生生活の始まりの日。
私は誰とも言葉を交わすことなく、オリエンテーションを受け終え、意気消沈したまま帰宅した。
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綻びは、あまりにもあっさりと現れた。
県立松葉大学の入学式が行われる学内のホールには、約二千人もの新一年生がずらりと並んでいる。私もそのうちの一人だ。みんな、一様に黒いスーツに身を包んでいて、溢れんばかりの期待と、喜びが滲み出ていた。もちろん不安を抱えている人もいるだろうけれど、視界に映る同級生たちはみな、学長の長い話にもしっかりと頭を上げて前を見据えている。私はみんなと違って、大勢の人たちを前にして、不安に心を黒く塗りつぶされていった。家を出る前は、あんなにも希望を持って前に進もうと思っていたのに、これまでと変わらない。むしろ、今まで以上に多くの同級生たちに囲まれて、より一層焦燥感に駆られた。
それでも、式の最中はまだ良かった。誰も、私語をしている人なんていないから。
入学式が終わり、学部ごとに行われるオリエンテーションに向かう最中、私は動悸がずっと止まらなかった。
ガヤガヤと、周囲の人間が近くの人と喋る声が私の耳に届く。
「初めまして、磯貝佳奈です。よろしくね」
「初めまして。こちらこそよろしく」
自己紹介をして、「どこ高校出身?」「何学部?」「現役?」「何県出身?」「一人暮らし?」などと互いのパーソナリティについて尋ねる声が、何度も聞こえてきた。折り重なるようにして、隣を歩く人も、前を歩く人も、後ろを歩く人も、誰かと言葉を交わしている。時々笑い声だって聞こえてくる。決して不快な音ではないはずなのに、きぃんという嫌な響きだった。まるで、モスキート音みたいだと思った。
「あの」
ふいに、トントンと誰かから肩を叩かれる。私はびくりと身体を震わせて、声がした方に視線をやる。私の、右隣だった。そこには、なぜか私の水色のハンカチを持った女の子がいた。
「これ、落としましたよ」
その女の子は、見た目は地味で、教室の窓際の席で本を読んでいるのが似合うような、真面目らしい人だった。私が、友達になるならいちばん適しているように思える。私も、派手なタイプではないから。
「……」
ありがとう、と言おうとして口を開いたけれど、言葉は出てこない。
今朝、階段を降りながら必死に練習したのに、やっぱり……。
黙りこくっている私を不思議そうに見つめる女の子は、私が緊張しているとでも思ったんだろう。「はい」と私の手にハンカチを握らせてくれた。
「ねえ、もし良かったら私と友達になってくれないかな?」
私の名前は、上山花乃っていうの。
女の子——上山さんが、自分の名前をそっと告げる。
花乃……って、どこかで聞いたような……。
頭の中でぐるぐると記憶をまさぐっていると、ようやくピンときた。そうだ。今日、『なないろ』の私の投稿にコメントをくれた人。確か、ハンドルネームが『kano』だったような。
でも、その人が上山さんだという保証はない。むしろ、そうである可能性の方が低い。
「……」
私は、上山さんの「友達になろう」という言葉に、やっぱり何も返すことができなかった。
これにはさすがに彼女も戸惑いを覚えたのか、遠慮がちに「また、今度ね」と手を振りながら、私の隣からさっといなくなった。
そりゃ、そうだよね……。
親切に落としたハンカチを拾ってあげたのに、その人に「友達になろう」って提案したのに。その相手は、ただの一言も喋らないんだもの。「ありがとう」さえ言えない人間に、これ以上付き合うべきではないと判断したに違いない。
私は、誰にも聞こえないくらいの大きさでため息をつく。朝、お母さんと話している時は今度こそ、新しい自分に生まれ変わって楽しい学生生活を送れるって信じていたのに。
一度ネガティブな思考に支配されると、出口のない迷路に迷い込んだような心地にさせられる。私は、どの道を選んでも結局行き止まりにしか辿り着けない。
大学生生活の始まりの日。
私は誰とも言葉を交わすことなく、オリエンテーションを受け終え、意気消沈したまま帰宅した。