翼と別れた直後は少しだけ軽かった足も家に近づけば近づくほど次第に重くなっていって、帰った時のお父さんの一言目ばかりを想像するようになっていた。
覚悟は決めても、怖いものは怖いし、嫌なものは嫌だ。
誰だって好きで自分を否定されに行くような人はいない。
「私も私の家族にこのことを話す。もちろんこの姿で」
それなのに、翼は私のために自分の秘密をかけてまで私を鼓舞してくれた。
これに答えなくて何が仲間だ。
その感情だけが今の私を突き動かしていた。
やっと家の前に着き、ドアノブにそっと手をかけて息を大きく吸い込んだ。
翼だって、私と同じことをしてくれているんだ。私だけ逃げる訳にはいかない。
私は意を決してドアを開けた。
「ただい……」
「遅い!どこへ行っていたんだ!」
私が挨拶仕切る前にお父さんはリビングから玄関までやってきた。
そして、私の格好をみて言葉を失っていた。
「お父さんに話があるの」
真剣な私の表情にお父さんは「わかった」とだけ言って先にリビングへ戻って行った。
手を洗い、服は着替えずそのまま席についた。
「お前に聞かねばならんことが山ほどあるが……」
お父さんはそうため息をついた。
一体何についてから話そうかといった様子だった。
一方、私の方はというと黙って机の下で足を手を震えさしているだけだった。
覚悟は決めたとはいえ、怖いものはやっぱり怖い。
そう感じる自分が情けなかった。
「まずはその格好から聞こうか」
お父さんは呆れた様子で私に聞いた。
「私がこの格好が好きなだけ。それとも私には好きな服を着る権利もないの?」
恐怖を感じているのを威勢のよさで誤魔化した。
それが悪手なのはわかっているけどそれを今考えて直すことができるほど私は冷静ではなかった。
「そもそも、今は勉強する時間だろう。それなのにお前はどこへ行っていたんだ」
「……友達と隣町に」
「結芽!!」
やはりと言わんばかりにお父さんは机を勢いよく叩き、大きな音を立てた。
「そんなことをしていて成績は大丈夫なのか?お前にそんな余裕があるのか?」
責め立てるようなお父さんの質問攻めを私は黙って聞いた。
怖くて反論ができなくなっていた。
「今、そんな余裕をこいていて一年後の受験はどうなるんだ?入る大学を間違えると将来、結芽が……」
お父さんの声が次第に遠ざかって行く気がした。
このまま黙っていたらどうなるだろう。
今まで以上に家への拘束がつよくなるかもしれない。
そしたら、翼にも会えなくなる。
翼……。
翼という名前を聞いて翼も今こんな状況なのかなとまた思い出す。
翼はわざわざ晒すことの無い危険に身を晒し、私を表面だけではなく、心の奥底から救ってくれようとしていた。
それのことが私にとっての最大の応援だった。
「私はお父さんのお人形じゃないよ」
気づけば小さな声としてこの言葉が漏れていた。
「私はなんでもかんでもお父さんの言う通りになるお人形じゃないの!」
さっきまで黙っていた私の突然の大声にお父さんは驚き、たじろいだ。
「私、今までずっと頑張って来たの!私を一人で育ててくれてるお父さんを心配させない為に!全力で前を走り続けてきた!走って、走って。脇目も振らずにただ、お父さんのために走り続けたの!なのに……」
お父さんは私に反論されるとは思っていたかったようで私のこの格好を初めて見た時と同じように呆気に取られていた。
「ふと、後ろを見るとね、誰も居ないの。友達も居なければ部活もしてないから仲間と呼べる人もいなかった。私は、たった一人で終わりも見えないマラソンを全力で走っていたことに気づいたの」
お父さんはさっきとは打って変わって私の話を真剣に聞いてくれていた。
「人はずっと全力で走り続けることはできない。お父さん、私はいったいどこまで走ればいいの?」
最後の方は今にも消え入りそうな声だった。
リビングには私が鼻をすする音と、嗚咽の音だけが響いていた。
お父さんはやはりまだ信じられないといった様子で固まっていたが次第に口をゆっくりと動かした。
「……結芽に口答えされるなんて初めてだな。そっか、そうだな」
お父さんはまるで自分に言い聞かせるかのように同じ言葉を反芻していた。
「結芽、すまなかった。俺の考えが不足していたようだ」
お父さんは椅子に座ったまま、正面にいる私に深々と頭を下げた。
「やめてよ、お父さん!」
「お母さんが結芽を産んで亡くなってから、俺は天国にいるお母さんに結芽を自慢できるような子に育てようと、そのことだけを考えて生きてきた。だが、それも間違っていたようだ。子供は親の道具なんかじゃないよな」
お父さんは制止する私を振り切ってもう一度頭を下げた。
私はお父さんにそんな思いがあったなんて知らなくてただ驚いていた。
私は私のことを拘束してくるお父さんがずっと苦手だった。
だから、そこから隠れて逃げることを選んだ。
もし、私がお父さんと普段からしっかり話せていたらこんなことにはならなかっただろう。
私が部屋から逃げたのに理由が会ったように、お父さんにも私のことにこだわっていたのには理由があったのだ。
私は私のことしか見えていなかった。見ようとしていなかった。
「お父さん。私ね、この格好を始めたのはお父さんに言われたことをやるだけの弱い私を紛らわすためだった。でも、そのために男装(これ)を選んだのは、お父さんの影響を受けたんじゃないかなって思ってるの」
お父さんは顔を上げて私の目を見た。
このことには薄々気づいていたけど、翼に聞かれた時に言わなかったのは、お父さんのことが苦手で、そのことを認めたくなかったから。でも、今ならそれも言えると思った。
「お父さんは私に今まで、何から何まで口うるさく言ってきたけど間違ったことなんて一つも言ったことはなかった。いつも堂々として、何でも知っているお父さんを私は密かに尊敬してた……んだと思う。だから、この格好も私の中での男性像がお父さんに引っ張られてたからなんだろうなって。今思ったの」
お父さんは涙を流しそうになりながら静かに聞いていた。
「ねぇ、お父さん。改めて今の私の姿はどう?」
「……かっこいいよ。本当に立派に育って」
私は何故、この格好をすること選んだのか。お父さんは私を愛してくれていた。そのことを知って私は初めてこの姿を心から愛することができた。
この姿はお父さんが私にくれた一つの贈りものだったのだ。
「でも、憧れたのが本当にこんな自分のことしか考えていなかったお父さんでいいのか?」
「うん。お父さんだからいいんだよ。でも、私。まだまだやりたいことがあるんだ。そんな私のことも応援してくれる?もちろん、勉強だってきちんとするよ。約束する」
「あぁ、お父さんにできることがあったらなんでも言ってくれ」
お父さんとここまでは心を開いて話したのは久しぶりで嬉しかった。
お父さんだって、お父さんなりの思いがあったことが知れたから、お父さんが得体の知れない何かではなくなったのが大きかったんだろうと思う。
「なら、私ね。お父さんと一緒に服を見に行きたかったの、手伝ってくれる?お仕事もう終わったんでしょ?」
「お父さんで良ければ、そんなのいくらでも行ってやる」
早い内に帰ってきて良かったと思った。
私とお父さんはそのまま支度をして家を出た。
久しぶりの親子水入らずの時間に仏壇に飾られた母の写真から向けられている目から気のせいかもしれないけど少し暖かなものを感じた気がした。