「ねぇ、中原(なかはら)(つばさ)……君?だよね?」
「え、はい。そうですけど……」
「良かった!突然で悪いんだけどさ、今日君に話したいことがあるからさ、放課後、隣の練の空き教室に来て。それじゃ!」
昼休みの一幕。もはや一方的とも言える、廊下での嵐のような彼女とのやり取りの後、僕は呆然と立ちすくんでしまった。
鈴音(すずね)結芽(ゆめ)さん。
この学校で彼女のことを知らない人はいないだろう。
今までクラスも一緒になったことも、話したこともなかったがその名前は僕でも知っていた。
容姿端麗な上、性格も穏やか。男子からも女子からの人気も高い優等生で、テストは常に1位をキープしているような人。
そのおかげで僕はどんなに努力しても万年2位止まりだ。
そんなアイドル的な彼女からのお誘いはこの廊下全体をざわつかせるのに十分過ぎるほどでその視線に僕は大変いたたまれなくなった。
……僕、鈴音さんに何かしたっけ?
話したこともないから何もしてないよな。なんて冷や汗だらだらで考えを巡らしたけど、思い当たる節もない。
その日の昼休みは鋭すぎる視線を受けながら過ごした。その視線は嫉妬なのか、はたまた別の感情からなのか。そんな怨念にも似たようなものも感じながら残りの授業も無事に受けることが出来た。
正直言って、生きた心地はしなかった。
友達が少なかったおかげで、そもそも話しかけられることがなかったので詰められたり、校舎裏に呼び出されたりしなくて、この時だけは本当に良かったと思った。
……裏であんな地味なやつに。と聞いた時はさすがに傷ついたけれども。
正直なところ、これも僕があの姉さんの弟であるということの恩恵でもあるといえる。
僕と入れ替わりでこの学校を卒業した姉さんは県内一の進学校であるこの学校で一位以外を取ったことはないし、生徒会長で、部活では大会の新記録も塗り替えた。
あまりにも優秀だったから、その噂は僕らの代にも伝わってきている。
だからなのか、生徒からは無駄に敬遠され、教師からは無駄な期待を向けられて、体の良い雑用をやらされることは多々あるけれど面倒事に巻き込まれることは少ない。
「中原。放課後に悪いんだが、この教材を職員室まで運んどいてくれないか?」
……まさにこんな感じの。
おかげで毎回、この手の先生からの頼み後は自分から言ったことはないのに全部僕の担当になってしまった。
放課後は鈴音さんに呼び出されてるから、早く行かないといけないのに。
だけど、僕にはこう答えることしか出来ない。
「はい。分かりました」
笑顔で。それがまるで一切の迷惑を感じていないように。
まるで僕も姉のように完璧であるように振る舞う。
僕には、その選択肢しか残されていなかった。
仮にもし、ここで、僕が先生の頼みを断ったらどうなるか。
今、僕がYESと答えると信じて疑わない先生は僕がこのことを断ったらきっと今は笑顔の顔を曇らせて、「君のお姉ちゃんならやってくれてたんだけどな」なんて言うだろう。
とてもじゃないけど僕は耐えられない。
だから、ただ、笑顔で。「はい」と答える。
相手の欲しい言葉を探して。自分の本心なんて見せずに。
『自分を貫け』なんて言う人も居るけど、それはその人が強いから言えることなのだ。
貫いたあとの自分を想像してもやっていけるという自信がある人。
弱い人は貫いた先の自分が簡単に折れることを、折られることが分かってるからそんなこと言えないし、できない。
だからら僕はそんな自分を突き通すこともできない弱い僕のことをずっと憎んでいる。

職員室へ寄り、教材を担任の先生の机に置いてから僕は急いで隣の練の空き教室へ向かった。
隣の練には化学や生物の理系科目のための教室があるのだが、3階の化学室の奥の一教室だけ、誰にも使われてない教室がある。
噂によると、使われなくなった家庭科室だとか、事故があって今は使われてないもう一つの化学教室だとか噂が尾ひれをつけて広まっているけど真相は定かでは無い。
「すみません鈴音さん。遅れました」
「遅いよ中原君!私結構待ったんだけど!」
空き教室の中には既に頬を膨らませながら怒る鈴音さんがいた。
僕のせいで随分と待たせてしまったようで流石に申し訳なかった。
「ところで、中原くん。どうして私に呼び出されたか分かるかな?」
「それが本当に心当たりがないんですけど、僕何かしましたか?」
「安心して、中原君は何もしてないから」
机に座っていた鈴音さんは宙ずりになっていた両足を地につけた。
「私はただ、落し物を持ち主に返しに来ただかけだよ」
「落し物?」
僕の目の前までゆっくりと歩いてきた鈴音さんが僕に差し出したのは昨日から無くしたと思っていた僕の学生証だった。
僕は普段学生証は財布の中に入れている。
カード型で財布にしまっているのが一番便利だからだ。
帰宅後、いつものようにあの緑色のショートウォレットの財布の中身を『僕』の時に使う黒の二つ折りの財布に移そうとした時、学生証がないことに気がついた。
でも、うちの学校の学生証には顔写真は載っておらず、名前と学校名、校章、などの基本情報しか乗ってないものだったからまた週末にでも同じ道を通ったり交番に行ったりして探そうと思っていたから特になくしたことを気にしてはいなかったのだが、昨日鈴音さんが拾っていてくれたらしい。
「はいどうぞ」と鈴音さんに差し出され「ありがとうございます」と言って受け取ってからあることに気づき、血の気が引いた。
これを渡すためだけにこの教室に呼んだ意味がやっと分かったのだ。
もしかしたら彼女は『私』を目撃していたからわざわざここに呼んだのかもしれないということ。
もし、そんなことがバレて、鈴音さんが他の人にでも言ったとしたら僕は一気に学校一の変人になってしまうのではないか。
そう考えると心臓の音がうるさいくらいに耳に響いて聞こえた。
「あの、これ、どこで拾いました……か?」
まだ単に僕が学生証を道に落とし、その後を鈴音さんが通っただけで僕自体は見てない。なんて可能性もある。
その場合、「僕が女装してることは誰にも言わないでください」なんて言ってしまったら自分から暴露しにいったようなものだ。
まだ僕は諦めてないぞ。
「あぁ、昨日中原君とぶつかった時に君が落としていったんだけど気づいてなかったみたいだったから私と同じ学校だったしと思って私の方で保管してたの」
あ、終わった。
元々姉さんと比べてパッとしないやつだなと思われていたのにこのことが明るみに出たら僕はもう普通に学校には通えない。
姉さんの顔にも泥を塗ることになるし、母さんは僕になんて言うだろう。
そう、絶望を感じていたらあることに気づく。
(ん?昨日、ぶつかったとき?)
とあることに僕は疑問を抱いた。
昨日、家を出てから誰かとぶつかったことや、ましてや財布から何かを落としてしまうような場面なんて思い当たるのはあの一件だけしかなかった。
そう、喫茶店を出たあとのあのイケメンの彼との一件だけだ。
最初は鈴音さんのお兄さんかなとも思ったけど、彼女は『私とぶつかった時』と言っていたから、そうではないのだろう。
ならば、考えられることは一つしかないだろう。
「……昨日鈴音さんってどんな格好してた?」
「ん?私?写真見る?」
鈴音さんはスカートのポケットからスマホを取り出し少しいじった後、僕の方に画面を見せた。
そこには僕が昨日ぶつかったあのイケメンの写真が映し出されていた。
「これ、鈴音さんなの?」
「そうだよ。意外?」
「まぁ、そりゃ……」
だって、鈴音さんと言えばまるで人が考える理想の女の子ような人だ。男子からの人気が高いのも知ってる。
彼女はこの学校のアイドル的な存在なのだ。休日は男装をしているなんて誰が思うだろうか。
ただ、そう考えると合点がいくこともあった。
男性にしては高い声。聞き心地が良かったのは多分、鈴音さんの声にエッジがかかってなかったからだ。
「でも、中原君も随分可愛い格好だったじゃん」
「それは……まぁ……」
「うちの学生証は顔写真乗らないから最初は『翼ちゃん』かと思ってたんだけど学校で実際に会ってびっくりしちゃった」
「なんか、すみません」
スマホをポケットに仕舞った鈴音さんは僕に背を向けて少し歩き、再び近くにあった机に座って僕の方を見た。
「でもね、あの日の中原君と会って、私ちょっと嬉しかったんだ。なんだか仲間が出来たみたいでさ」
「仲間?」
「そう。正直、私たちがやってることはあんまり人に言えることじゃないしさ、言ったとしても理解されることの方が少ないでしょ?それが分かってるから私自身もだんだん不安になってくるの。私自身が私を疑い始めてくるの。自分を貫くって難しいことだから、徐々に不安になる。でも、君のことを知って『良かった。私だけじゃなかったんだ』って思えたから、ちょっと安心した」
鈴音さんの言っていることに僕は共感ができた。
人に言えないことも、女装している自分は異常なんだと自分自身が思い始めてくることも、それで不安になることも、痛いほどわかった。
『自分』でいることは難しい。
特に僕らのような人は、自分が他の人と違うことを一番よく分かっているから、自分自身のことを疑ってしまう。
そして、その疑いの声は他の人からの声と違って、耳を塞ぐことも聞き流すことも出来ない。
そんな中でなお自分を信じてあげるということは想像以上に難しい。
だからこその、仲間なのだ。
自分には少なくとも同じような仲間がいるということはそれだけで自分を守る盾になってくれる。
「少なくとも私は君のことを仲間だと思ってるよ。ねぇ、中原君、君はどう?」
神妙な顔をして話す鈴音さんに僕の視線は釘付けになっていた。
「ねぇ、中原君。私の『仲間』になってくれないかな?」
「うん。なる。なるよ、君の『仲間』に」
気づけば僕は二つ返事で了承していた。
「ふふ、そっか。ありがとう」
また、机から降りて僕の目の前まで来た彼女との距離はさっきよりもずっと近かった。
よく見ると彼女の手は微かに震えていた。
彼女も僕と同じで自分の秘密を打ち明けるのはきっと怖かったんだ。
それでも、彼女は僕に秘密を話してくれた。
それがどれだけ勇気のいることか僕は知っているから、彼女のことは尊敬できた。
「これからよろしくね。中原翼君」
「こちらこそ。鈴音結芽さん」
彼女が差し出してくれた右手を掴んで握手を交わした。
この瞬間、僕達はお互い、安心して自分でいることの出来る『安地』を得たのだ。