カラオケに来たのは久しぶりだった。
 とはいっても、目的は歌うことではない。ディスプレイに流れる映像では、知らないタレントが知らないアーティストの知らない歌を褒めちぎっていた。
 もうこの映像を見るのは三回目。
 正直全く興味がないので、ディスプレイを消して音量もゼロにしてしまいたい。
 しかしそうすると、無音の中、初対面の男と密室に二人きり、という気まずすぎる空間が出来上がってしまうので、くだらない映像でもないよりはましだ。

 長野菜乃花、高校二年生。
 高校生だが、学校には行っていない。
 三ヶ月ほど前に転校したばかりだが、一ヶ月ほど通い、行くのをやめてしまった。

 それならばせめてアルバイトでもすればいい話だ。しかし菜乃花は今、ろくにお金もないくせに、知らない男とカラオケに来ている。
 最近流行りのパパ活やマッチングアプリで出会った相手ではない。一昔前の呼び方で言うところの、援助交際でもなければ、出会い系でもない。

 まあ、でもSNSで知り合った男と軽率に会っているんだから、そんな誤解をされてもおかしくないか。

 菜乃花は心の中で呟いて、ソファーの端っこに座る男を見やる。
 黒ぶちメガネに黒マスク、黒いキャップに黒いTシャツ。ほぼ全身黒づくめで猫背な男は、出会ってからまだ一言しか言葉を発していない。

『初めまして。ハナです。ユキさんですか?』
『…………』

 待ち合わせ場所で、先に聞いていた特徴の人に菜乃花の方から声をかけた。
 SNS上でのハンドルネームを名乗ると、男は菜乃花を見て驚いたように目を見開いたあと、目を逸らして頷いた。

 …………暗そうな人だなぁ。いや、それも当然か。

 SNSで死にたい、と呟いたときに反応してくれたのが、この男、ユキだ。
 それも心配するような言葉をかけてきたのではなく、都内だったら一緒に死にませんか? という誘いだ。
 最初は菜乃花もこわい、と思って無視をした。
 しかしなんとなく気になって、返信してしまったのだ。

 あなたも死にたいんですか、と。

 ユキからの返事が来たのは、三日後だった。
 死にたいけど一人はこわいので、という文面だった。
 菜乃花はユキと会う約束をした。
 待ち合わせ場所まで行ってみて、やばそうな人だったら声をかけずに帰ればいいや、と思ったのだ。
 ユキは遠目から見ても浮いていた。目立ちたくないのか、顔を隠しているようだったが、逆に悪目立ちしてしまっている。
 その不器用さと世界から浮いてしまっている姿に、菜乃花はシンパシーを覚えた。
 そして、気づいたらユキに声をかけていたのだ。

 自殺の話など、誰かに聞かれてはまずい。
 個室カフェなども考えたが、菜乃花はカラオケを提案した。
 ユキが口を開いたのはそのときだけだ。

『…………ハナさんが話しやすいところならどこでも』

 どういう意味だろう、と道中考えていたが、ユキは男なので、女である菜乃花に一応気を遣ってくれたのかもしれない。
 ドリンクバー付きのフリータイムで入室し、菜乃花はメロンソーダ、ユキはアイスコーヒーを飲んでいた。
 部屋の中でも、ユキはソファーの端に座り俯いている。たまにアイスコーヒーに手を伸ばすが、なかなか口を開こうとはしない。
 菜乃花は仕方なく自分から話し始めた。

「とりあえず、自己紹介します? 今から死ぬのに自己紹介も何もないかもしれないけど、全く知らないままっていうのもちょっと…………」
「あ…………そうですね」
「………………えーっと、ハナです。本名ではないです。高校二年生、でも学校には……行けてないです、ちょっと、いろいろあって……」

 何をどこまで話せばいいのか分からない。
 自己紹介は自分で言い出したことなのに、菜乃花は俯いてしまう。
 言葉に詰まる菜乃花に、意外にもユキの方から話しかけてきた。

「……ハナさんの、死にたい理由」
「………………え、」
「もしかして、学校ですか……?」

 イジメとか、と小さな声で続いた単語に、菜乃花は息を飲む。
 慌てたようにユキが手を横に振り、すみません! と今までで一番はっきりとした声を出した。

「辛いこと思い出させちゃった!?」

 その喋り方は、先ほどまでのぼそぼそしたものとは違っていた。
 言葉にも優しさが含まれている。
 菜乃花は眉を下げて、小さく笑ってみせた。

「ユキさん、いい人ですね」
「え」
「全然話さないから、どうしようかと思ってたんですよ」
「あ…………それ、は」

 ユキが口ごもり、困ったような笑みを浮かべる。

「ハナさんが、妹に似てるからかな」
「妹さん? 何歳?」
「生きてたら、十七歳」

 ひゅっ、と喉が鳴る。

 生きていたら。
 つまり、ユキの妹はすでにこの世にいない、ということだ。

 ごめんなさい。泣きそうになりながら謝ると、そんな菜乃花を見て、ユキは静かに首を横に振った。

「……自己紹介がまだだったね。ユキです、二十歳。死にたいと思った理由は…………」

 ユキはまた黙り込んだ。
 言わなくてもいいですよ、と言ってあげるべきだろうか。
 悩んでいる間にも、カラオケのディスプレイに映る、全く知らないアイドルグループの少女はころころと笑う。
 菜乃花は思わず、切ってもいいですか、と画面を指差して訊いてしまった。

「人の笑い声、苦手で……」
「…………やっぱり先に、ハナさんの理由、聞いてもいいかな」

 ユキはためらいがちに菜乃花に訊ねる。
 どうせこの後死ぬんだし、と菜乃花は覚悟を決めて口を開いた。

「…………私には兄がいます」

 兄の名前は水無月光斗。
 菜乃花よりも二つ年上の、優しい人だった。
 頭が良くて、テニスがうまくて、学校では生徒会長をしていて。人望があり、誰からも好かれる自慢の兄。

「兄は…………人を、殺しました」

 菜乃花は淡々と語る。
 誰かに話すのは初めてだ。
 思ったよりも心に波は立っていなかった。

「………………えっ?」
「クラスメイト殺人事件。知ってますか?」
「え……うん、もちろん…………」

 その事件は、日本中で知らない人がいないくらい世間を騒がせた。
 田舎の公立高校で起こった、突然の殺人事件。
 被害者は五名。死者三名、重傷者一名、軽傷者一名。
 平日の昼間に起きた恐ろしい事件は、その学校に通う生徒の逮捕によって幕を下ろした。

 ユキの目に怯えの色が走る。
 誰もが知っている、少年犯罪史に名を残すような残虐な事件。
 その名称と、直前の菜乃花の発言が繋がったのだろう。

 あれから何度も向けられた、恐怖と非難、排斥の目。
 見慣れてしまったからか、その割合もなんとなく分かる。
 ユキは恐怖が九割、非難が一割、といったところだろうか。

「あの、事件の…………?」
「そうです。びっくりしました?」
「…………うん、それは、もう……」

 兄はやはり、相当な有名人だ。
 未成年なので名前や顔などは報道されなかった。
 でもインターネットで事件名を検索すれば、兄の個人情報がたくさん晒されている。
 名前に顔写真、生年月日、身長、これまで通ってきた学校や習い事、そして家族構成。

 インターネットもSNSも残酷だ。名前も顔も知らない。これまでに顔を合わせたこともない、これから先顔を合わせることもない。そんな人たちが、容赦なく悪意を向けてくる。

 兄の事件の後、菜乃花の個人情報も全て晒された。
 殺人犯の妹、というタイトルでまとめサイトまでできていた。
 妹に償ってもらおう、と知らない男が性犯罪を匂わせる書き込みをしているのを見たときには、ぞっとした。


 『水無月菜乃花』はインターネットに殺された。
 両親はぼろぼろになりながらも、菜乃花だけは守ろうとしてくれた。
 離婚を決断し、遠く離れた地に母と共に逃げた。
 父は今も矢面に立ち、頭を下げ続けている。インタビューで謝罪する父は、顔にはモザイクがかけられていたが、それでも信じられないほど老け込んでいた。
 髪が老人のように真っ白になっていたのだ。

 菜乃花は今、母の旧姓を名乗っている。しかしそれもすぐに晒された。
 狭いアパートの一室で、母は一日中ぼんやりしている。ずっと虚空を見つめ、現実から逃げている。

 それも仕方のないことだと思う。
 引っ越してきてすぐに住所がバレて、迫害は始まった。
 窓から石が投げ込まれる。夜中に火のついた花火を投げ込まれたこともあった。
 アパートのドアを埋め尽くすほどの貼り紙がされている。剥がしても、剥がしても、何度も貼られる凶器。凶器というのは大袈裟だろうか。菜乃花はそんなことはないと思う。

 人殺し。
 今すぐ出て行け。
 消えろ。
 死んで償え。
 
 泣きながら貼り紙を剥がし続けていた母も、ある日ぷつんと糸が切れたように、動かなくなってしまった。

 『加害者』の家族は、プライバシーも人権も認められない。
 そもそも“人”として扱われないのだ。

 新しい学校でも、ひそひそと陰口を叩かれ続け、常に嫌な噂が菜乃花に付きまとった。
 イジメとは少し違うかもしれない。
 彼女たちは恐れていたからだ。
 『殺人犯』の妹である、菜乃花のことを。
 だから陰で笑い、陰で噂話をし、ひっそりと、着実に迫害されていく。
 菜乃花は苦しくなって、学校に行くのをやめてしまった。

 話をしながら菜乃花が笑うと、ユキは驚きに目を見開いた。
 笑えるような話ではない。そんなことは分かっている。
 だって兄は、人の命を奪った。一生残らぬ傷を残した。心に恐怖を植え付けた。
 そんな罪が、許されるはずはない。

 ユキはおそるおそる、口を開いた。

「ハナさんは…………その、お兄さんのことを、どう思ってるの……?」

 菜乃花は間髪入れずに答えた。

「人殺しだと思ってますよ。兄のせいで、たくさんの人が傷ついた。亡くなった人もいる。心に傷を負わせてしまった人だって…………」
「………………」
「私たち家族も、壊れちゃった……」


 菜乃花はずっと、誰かに訊きたかった。


 『殺人犯』の家族は、共犯者ですか。
 生育環境が悪かったのですか。
 同じものを食べて、同じ家で暮らしていたら、家族も犯罪者ですか。
 自分は悪いことをしていなくても、家族の罪を一緒に背負い、非難され、迫害され、傷つけられながら生きていかなければいけませんか。
 逃げる場所も、憩いのときも、許してはもらえませんか。
 死ぬことでしか、この罪からは解放してもらえないのですか。


 そんなこと、誰にも言えるわけがない。
 だってこの世界に生きる多くの人は、罪を犯すことなく生きている。
 人の命や健康を害することなく、普通に生きている。

 普通から外れてしまった兄が。
 兄を育てた両親が。
 兄と同じように育てられた菜乃花が。
 圧倒的マイノリティなのだ。
 恐れられても仕方のない、排斥されても受け入れるしかない、許されざる『加害者家族』なのだ。


「兄のせいで、苦しくてたまらない。『加害者家族』なんてレッテルを貼られて、どこに行っても消えてほしいって願われる」

 この状況から解放される方法なんて、死ぬ以外に思いつかない。
 菜乃花の言葉に、ユキは悲しそうな顔をした。

「…………答えたくなかったら、いいんだけど」
「……なんですか」
「お兄さんは、どうしてあんなことをしたんだろう」

 菜乃花は俯いた。
 メロンソーダは氷が溶けて、薄くなっているように見える。炭酸もほとんど残っていない。
 それでもストローでかき混ぜると、小さな泡がぷくぷくと表面に上がってきた。

「お兄ちゃんが傷つけた五人、私、みんな知ってるんです」

 男子生徒三名、女子生徒一名、教師一名。
 少し記憶の蓋を開けるだけでも、身体が震え出す。


 体育館の用具入れ。
 日直で、体育の授業の片付けをしようとしただけだった。
 一年生の菜乃花の視界に入ってきたのは、知らない男子生徒三人。上履きの色からして、兄と同じ三年生だ。
 用具入れで隠れてタバコを吸っていたらしい。
 見てはいけないものを見てしまった。
 慌ててすみません! と引き返そうとしたとき、男の一人に腕を掴まれた。

「俺たちさー、次、体育の授業なんだよ」
「…………?」
「いやでも準備運動? 必要じゃない? って話」
「準備じゃなくて本番だろ!」

 ギャハハ、という下卑た笑い声に、思わず身をよじる。
 なんだか嫌な予感がする。
 こわそうな人たちだし、ちょっと気持ちが悪い。
 今すぐに逃げ出したい。
 そんな菜乃花の考えを嘲笑うように、男は無理矢理腕を引き、埃だらけのマットの上に菜乃花を押し倒した。

「ひゃあっ!」

 驚きと恐怖に悲鳴を上げ、震える菜乃花を、男たちは笑った。
 やめてください、と必死にお願いすると、用具入れのドアが開き、一人の女子生徒が顔を出す。

「何やってんの」

 入ってきた女子の先輩が声を上げる。
 助かった、と息を吐きかけたそのとき、とても残酷な言葉が菜乃花の鼓膜を揺らした。

「やるときは動画撮れっていつも言ってるじゃん。バカなの?」
「おまえが撮ってよ」
「だるーい」

 そう言いながらスマートフォンのカメラを向けられ、菜乃花は身体をこわばらせた。

 動画? いつも? なんで? 何をされてるの?

 男に押さえつけられた身体は痛いけれど、体操着を胸元あたりまで捲り上げられ、菜乃花は必死で抵抗した。
 身の危険を察知し、火事場の馬鹿力が出たのかもしれない。
 男の手を振り解き、無茶苦茶に振り回した手が、リーダー格の男の顎にぶつかってしまった。
 瞬間、頭がぐわんぐわんと揺れるような衝撃と、遅れて頰に激しい熱が帯びてくる。

「いってえな、くそが」
「ギャハハ! 容赦ねえなぁ!」

 男に殴られたのだ、と理解し、痛みによる恐怖が菜乃花の抵抗を奪った。
 そのとき、再び用具入れの扉が開き、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「…………なに、してんだよ…………」
「おに、いちゃん……」

 無意識にこぼれた兄を呼ぶ声に、男たちが舌打ちして離れていく。
 なんだよ会長様の妹かよ、と。
 めんどくせえ。いいよ萎えたし。いい兄ちゃん持ってラッキーだったな。
 そんな言葉が投げつけられて、用具入れには菜乃花と兄の二人きりになる。

 兄は菜乃花の乱れた服を整えながら、強く唇を噛み、怒りに震えていた。
 菜乃花は自身に降りかかった出来事に、感情が置いてけぼりにされていて、何も考えられなかった。
 ぼんやりとする菜乃花を隠すように移動し、兄は生徒指導の教師の元へ向かった。
 必死に事情を説明し、妹の安全のためにも関係者全員退学処分にしてほしい、と訴えた。

「証拠がないようだとなぁ。そもそも、未遂だったんだろ?」

 ハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。
 むしろ、そうであってほしかった。

 ひくっと喉を鳴らす菜乃花と、隣で立ち上がり、教師に掴み掛かろうとする兄。
 兄を睨みつけた教師は、呆れたようにため息をついた。

「らしくないぞ水無月。世の中には正しくないことでも受け入れなきゃならないことがある。理不尽も飲み込まないといけないときが、必ずあるんだからな」

 教師はそう言って、その話をそれ以上は聞いてくれなかった。

 菜乃花は翌日、学校を休んだ。親には恥ずかしくて話せなかった。事情を知っている兄は、「俺がなんとかするよ」といつもの優しい笑顔を向けてくれた。

 兄はその日、大ぶりのナイフを持って学校に行ったらしい。
 登校して真っ先に、いつも例の男たちが休憩所にしている、体育館の用具入れに向かった。
 迷わずナイフを振りかざし、腹を刺す。動揺する男たちに、ナイフで怪我を負わせた後、彼らの所持品のタバコを口の中に詰め込み、火消し用の水で無理矢理飲ませた。
 嘔吐する背中を蹴り飛ばし、用具入れにあったバットで頭を強く殴る。
 そして最後は、喉元をナイフで突き刺して、絶命させたそうだ。

 残り二人の被害者は言わずもがな、動画を撮影した女子生徒と、被害を訴えたのに取り合わなかった教師だ。
 女子生徒は切り付けられて怪我をしたが、傷は残らないらしい。
 教師は足の腱を切られ動けなくなり、左目の視力も失った。

「理不尽も飲み込まないといけないときが必ずあるんですよね? じゃあ飲み込んでくださいよ」

 そう言って笑いながら、動けなくした教師の左目に、火のついたタバコを押し付けた。
 菜乃花はそう聞いている。


 日本では、私刑が許されていない。
 法律で定められた手続きを踏まなければ、罪を犯した人は裁かれない。
 でもその罪が表面化されなかったら?
 助けを求めても、一蹴されてしまったら?
 そのときは、泣き寝入りするしかない。

 だから兄は、凶器を手に取った。
 自分の手を汚し、脅威を排除することで、妹の菜乃花を守ろうとしたのだ。
 その行動により、別の意味で菜乃花が苦しむことになるなんて、知りもせずに。


 ユキは言葉を失っていた。
 菜乃花は苦笑しながら、炭酸の抜けたメロンソーダを飲み干した。

「兄は三人もの人を殺しました。女の子に怪我をさせて、先生にも一生ものの傷を残しました」
「………………」
「お兄ちゃんのせいで、みんな壊れた。私たちは加害者の家族になって、世界中から迫害されてる」

 でもお兄ちゃんは、私を守ろうとしたんだ。

 そのことを知っているのは、菜乃花だけ。
 兄は決して動機について語ろうとしないからだ。
 殺人者になって、世界中から疎まれ、拒まれ、消えてほしいと願われる存在になっても。
 それでもなお、菜乃花の兄であろうとしてくれている。

 菜乃花がこの世界からいなくなれば、兄は守るものもなくなる。
 動機を話せば、少しは刑も軽くなるかもしれない。
 もしも刑が変わらなかったとしても、世間の認識は変わるはずだ。
 頭のおかしい無差別殺人犯から、妹を守るために手を汚した殺人犯に。
 世間からすればほとんど変わらないかもしれない。でも兄と、一家にとっては大きな違いだ。


「…………だから、死にたいんです」

 菜乃花の話を聞き終えて、ユキは呆然としていた。
 それに毎日悪意を向けられ続けるのに疲れちゃった、と菜乃花が続けると、ユキは心配そうな顔をしてみせた。

「苦しいね」
「ん?」
「お兄さんのせいで人生ががらりと変わって、苦しくて仕方がないのに…………ハナちゃんにとって、ハナちゃんにだけは、優しいお兄さんだから」

 憎みたくても憎めない。
 その言葉がやけに腑に落ちて、菜乃花はなるほど、と呟いた。

「私、お兄ちゃんを憎みたかったのかもしれない……」

 兄の行動で、世界中の全てが敵になってしまった。
 でも兄は菜乃花の心と、名誉と、生活を守るために、人を傷つけた。そのことを知っているから。
 どんなに周りから石を投げられても。
 迫害されそうになっても。
 菜乃花だけは、どうしても兄のことを憎みきれないから。

 空っぽになったコップを手に取り、席を立つ。
 鉛のように重いこの空気を少しでも入れ替えたかったからだ。
 再びメロンソーダをコップに注ぎ、部屋に戻ると、ユキは眉をひそめて目を閉じていた。

 お待たせしました、と菜乃花は椅子に座る。ユキもドリンクを取りに行き、やはりアイスコーヒーを持って戻ってきた。
 今度はユキの番だった。

「ハナさんが加害者家族だっていうなら、僕は被害者の遺族とも言えるかもしれない」

 その言葉に背筋がぞくりと凍った。
 同じように世間から切り離された、少数の存在。誰とも気持ちを分かち合うことのできない、辛い思いを抱えているであろう人。
 しかし、実際には加害者の家族と被害者の遺族では立場も状況も全く違う。
 たとえ同じ事件でなくても、犯罪被害者の家族というのは、加害者の妹である菜乃花にとって、一番顔を合わせづらい相手だった。

 殺人犯の妹のくせに何被害者ぶってるんだよ、と怒鳴られるかもしれない。
 死にたいなんて甘えたことを言ってんじゃねえぞ、と。
 そんな風に思われても仕方がない。

 菜乃花の顔に怯えが混ざったことに気づいたのだろう。
 ユキは静かに首を横に振った。

「僕は確かに、妹を殺したやつらを憎んでる。でも、ハナさんは事件に関係ないよ」

 ユキはそう言って、妹のことについて語り出した。

 ユキの妹は中学三年生の夏に差し掛かる頃、学校の屋上から飛び降りた。
 その場には、二人の女子生徒がいたという。
 彼女たちは妹の友達だと名乗り、一人で死ぬのはこわいから見守っていて、と頼まれたのだと主張した。
 ユキの妹は、飛び降りてからしばらくの間、息があった。
 救急車を呼んでもらえれば助かったかもしれないのに、とユキは悔しそうな声を出した。

 ユキは必死に自殺の理由を探した。
 どうして妹が突然死を選んだのか、その理由が知りたかった。
 遺書の類は残っていなくて、妹に心の中で謝りながら、部屋の中を隅々まで漁った。
 やりかけの宿題。栞の挟んである小説。
 買ったばかりの白いワンピースは、妹が袖を通すことのないまま、クローゼットにしまわれていた。

 お兄ちゃんお誕生日おめでとう。
 そんなメッセージカードの添えられた袋も見つけた。
 中には、ユキの好きなアーティストのライブTシャツが入っていた。
 一ヶ月後に控えたユキの誕生日のために、早めにプレゼントを用意してくれていたのだ。
 本当にそんな妹が自殺をするのだろうか。
 ユキの疑念は深まるばかりだった。

 そんなとき、ユキの元に宛名も差出人もない封筒が届いた。切手も貼られていなかったので、差出人の誰かがわざわざ投函しに来てくれたのだろう。
 封筒の中には、一枚の便箋。

 ユキの妹はいじめられていた。
 自分は見ているだけで助けられなかった。
 あの日そばにいたのはいじめの主犯格だ。
 彼女たちは度胸試しだといってベランダから身を乗り出させたりしていたので、もしかしたら同じようなことがあって転落してしまったのかもしれない。
 助けられなくて本当にごめんなさい。
 名乗る勇気もなくてごめんなさい。

 そんな手紙だった。
 妹がいじめられていたなんて、知らなかった。
 ユキは学校側に必死に訴えた。
 警察にも捜査をしてほしいと頼んだ。
 しかし、結果は無情なものだった。

 いじめがあった、という証拠はない。
 そんな報告も受けていない。
 フェンスや衣類についている指紋、そして落ちたときの状況から、少なくともユキの妹が屋上のフェンスを自分で乗り越え、飛び降りたことは確かだ、と。

 飛び降りろと脅されていたかもしれない。
 笑いながら飛んでみてよ、と遊び道具にされていたのかも。
 そう思っても、そんな想像を証明するものは、どこにもなかった。

 ユキは全てを諦めた。
 妹のことは自殺として処理され、いじめの事実もなかったことにされてしまった。
 手元に残ったのは匿名の手紙と、妹がいつも使っていたリボンの髪飾りだけだった。
 その髪飾りは彼女の誕生日にユキがプレゼントしたものだ。
 年頃の女の子の好みなど分からないユキは、妹に似合いそうなものを選んだが、使わなくてもいいからね、と何度も言った。
 でも妹は、毎日必ず身につけてくれていた。

 両親を早くに亡くし、ユキと妹はたった二人の家族だった。
 仲は良かったけれど喧嘩だってたくさんした。
 大好きとか大切だとか、そんな小っ恥ずかしい言葉は口にしたこともない。
 でも妹を失ってから強く思う。
 もっと口に出して伝えておけばよかった、と。
 たくさん話を聞いて、学校なんて行かなくていいと言ってやればよかった。
 そうすれば妹は今も、ユキと同じ家で笑っていたかもしれないのに。

「………………ユキさんが死にたいのは、妹さんのことで、自分を強く責めているから?」

 菜乃花が訊ねると、ユキは力無く頷いた。

 カラオケルームに沈黙が流れた。
 気まずくなってメロンソーダを一口飲むと、甘ったるい味が口いっぱいに広がる。
 しばらく黙っていた菜乃花は、少しだけ勇気を出してみようと思った。
 立場は違うけれど、私たち少しだけ似ていますね、と。言葉にして紡いでみようと思った。
 でもそれはユキを傷つけてしまう気がして、喉の奥に飲み込んだ。
 すると、ずっと黙っていたユキがふいに口を開いた。

「僕とハナさん、状況も立場も……被害者の兄と加害者の妹で、全然違う」

 妹の件は事件として扱ってもらえていないから、被害者と呼んでいいかも分からないけれど。
 ユキはそう付け足した後、言葉を続けた。

「…………でも、ちょっとだけ、僕たちは似てるね」

 菜乃花は驚いて、目を丸くする。
 言おうと思って、でも傷つけるのがこわくて言えなかった言葉を、ユキが口にしたからだ。

「ハナさんも僕も、自分のせいだって、思ってる」
「…………でも、私の兄は、人を殺していて…………」

 菜乃花の紡いだ言葉に、ユキは頷いた。
 どんな理由があっても。それがたとえ妹のためだったとしても、人を傷つけていい理由にはならない、と。
 その通りだと菜乃花も思った。
 込み上げてきた涙を隠すため、慌てて俯く。

「でもハナさんは、悪くないよ」
「…………え、?」
「お兄さんが何をした人でも。『加害者』の家族っていう、一生剥がれないレッテルを貼られてしまっても、ハナさんは悪くない」

 『きみ』は生きていいんだよ。

 とても、ありきたりな。
 そして自殺を思いとどまるには少しもの足りない、そんな言葉だった。

 それでも菜乃花の目からは涙が溢れて止まらなかった。

 自分がいなくなれば、兄は守るものがなくなる。
 だから死んでしまおう。

 そんなのは、言い訳だ。
 本当は、たくさんの人から向けられる非難の目が、行動が、こわくてたまらなかった。
 兄の行動によって、自分どころか家族ごと否定されて、世界に居場所がなくなった。
 苦しくて、逃げてしまいたかった。

 兄が引き金を引いたのは、菜乃花のためなのに。
 兄が人を殺したのは、菜乃花のせいなのに。
 それを受け入れることができなくて、兄を置いて、死んで、逃げようとしていた。

「僕も兄だから分かるけど…………そうまでして守りたかった大事な妹が、自分で命を投げ出してしまったら、悲しいよ」

 ユキの言葉が、やけに痛く感じる。
 傷だらけだった心に消毒液をかけられているみたいだ。
 菜乃花は泣きながら、両親の前ですら口にできなかったことを、初めて言葉にした。

「私…………っ、お兄ちゃんに、手紙、書きたい…………っ」
「うん。喜ぶと思う」
「私のせいでごめんねって、謝りたい…………っ」

 泣きじゃくる菜乃花を、ユキはソファーの端から見つめているだけだった。


 自殺の計画は、延期になった。
 ユキは言った。
 ハナさんが僕の妹に似ていたから。苦しみながら、頑張ってるから。ハナさんが頑張る間は、僕も頑張ってみるよ、と。

 ユキは菜乃花を亡くした妹と重ねているのだろう。
 そして、今はそばにいない菜乃花の兄の代わりに、見守ってくれるのかもしれない。

 菜乃花が兄に手紙を書きたい、と言うと、ユキは一緒に便箋を買いに行こうと言ってくれた。
 最後は待ち合わせをした駅前で、別れを告げる。

「ユキさん、今日はありがとね。話を聞いてもらえて、よかった」
「うん。僕も……久しぶりに妹に会えたみたいで、嬉しかった」

 黒いキャップとマスクを外すと、ユキは韓流のアイドルみたいだった。
 きっもユキの妹も、ユキに似て整った顔立ちをしていたのだろうな、と菜乃花は心の中で呟いた。

「ユキさん。あのアカウント、消さないでよね。また死にたくなったら連絡するから」
「連絡がないことを祈ってるよ」

 ユキがはにかんで笑うので、菜乃花もユキに笑いかける。
 二人はそのまま別方向に歩き出した。振り返ることなく、まっすぐ前を見て。



『水無月光斗様

 お元気ですか。
 私は、正直あまり元気ではありません。
 お父さんは老けました。
 お母さんは生気が抜けたように、ずっとぼーっとしています。
 お父さんとお母さんは離婚しました。
 私を守るためです。
 加害者の家族としての業を背負わなくていいように、必死に守ってくれています。

 私はお兄ちゃんのことを、恨みたいと思いました。
 お兄ちゃんのせいで家族が壊れた、と責めたい気持ちもあります。

 お兄ちゃんのしたことは、絶対に許されません。
 罪は償ってください。
 でもお兄ちゃんが私のことを守ろうとしてくれたことは、分かっています。
 私のせいで、本当にごめんなさい。
 私のことは気にせず、全てを話してください。
 全てを話して初めて、償いは始まると思うから。

 私はお兄ちゃんのことを、今でも家族だと思っています。
 優しくて大好きな、たった一人のお兄ちゃんです。

 書き慣れていないから上手く伝えられないけれど、どうか身体に気をつけてお過ごしください。』

 最後に書く名前だけ、とても悩んだ。
 そして、水無月菜乃花、と書き慣れた旧姓で名前を記した。


 この手紙は無事に兄に届くだろうか。
 もしかしたら兄を傷つけるかもしれない。
 悲しませてしまうかもしれない。
 それでも、必要なものだと菜乃花は思うから。

 手紙を郵便局に預け、ハナという名前でやっているSNSを開く。
 お手紙出した!
 たったそれだけの、短い投稿。
 いいね、と反応してくれたのは、ユキだった。
 それを見て菜乃花は小さく笑みをこぼし、SNSを閉じる。

 世界は何も変わっていない。
 今日も菜乃花たち『加害者家族』を迫害しようと、たくさんの悪意が押し寄せてくる。


 でも、菜乃花の人生はまだ長いのだ。

 もう少しだけ、頑張ってみよう。
 死ぬのはそれからでも遅くないのだから。

 そう言い聞かせ、菜乃花は歩き出した。