数名高校三年生には変人と呼ばれる人が数人いて。その中でもダントツに変な人がいる。

蜂須(はちす)ちゃあああん」

 放課後。廊下を歩いていたところで、後ろから名前を呼ばれてびくりと体が震えた。

 またあの変人がきた。きてしまった。
 速やかにお帰りくださいと心の中で悪態をついて、うんざりしながら振り返る。

 そこにいたのは、三年生変人ズの中でも最高に変人。キングオブ変人。(やち)(また)先輩だ。

「どうして一人で帰ろうとしちゃうんだい!? 君の場所はこっちだよ、さあ僕の胸にダイブ!」
「嫌です。お断りです。帰ります」

 さてこの八街先輩。いったいどこが変人なのかというと。

「はー……今日もいい感じにツンデレを極めているね。最高。尊みが限界」

 どれだけ冷たいことを言っても、恐ろしい脳内変換力を生かしてポジティブに受け止めるのである。それだけじゃない。ポジティブ変換された喜びを、尊いだの萌えだの謎の言語を駆使して表現するのだ。

 今もほら。両手を合わせて拝んでいる。なんで私が拝まれるのよ。

 何が困るというと、このやりとりが生徒たち行き交う廊下で行われていることだ。通り過ぎていく二年生たちがひそひそと話し、こちらを見ている。私と八街先輩のやりとりに慣れた生徒は「ほらまた蜂須さんが絡まれて」なんて哀れんでいた。

「とにかく! 私、帰りますから!」
「誰が帰すもんか。ほーら、行くよ。生徒会室は僕たちのラブ・プリズン。僕と蜂須ちゃんを待っているよ」
「ラブ・プリズン……うわっ、きもちわる」

 変人と呼ばれて当然だと思う。変人を極めたいのなら好きにすればいい。でも私まで巻きこむのはやめてほしい。
 けれど逃げ出そうとした私のかばんは、がっしりと八街先輩に掴まれていた。

「ははっ。今日も子猫ちゃんはツンツンして可愛いね」
「気持ち悪すぎ……子猫とか現実に言う人いるの……勘弁してくださいって」

 じたばた暴れてなんとか振りほどこうとしていると、通りすがった三年の女子生徒と男子生徒がこちらに向けて微笑んだ。そして八街先輩を見て言う。

「会長、またね」
「うん。またね。三年生の久瀬(くぜ)さん! それから隣の九重(ここのえ)くんも!」
「……おう」

 名前がぽんぽんと出てくるのは同じクラス――だけじゃなくて。数名高校生徒会長である彼は非常に物覚えがいいのだ。他学年の生徒まで、一回顔を見るだけで名前を覚える。一体その記憶力はどうなっているのか。神様は記憶力を与えて常識を奪ったのかもしれない。

 あっけに取られてやりとりを眺めているうちに八街先輩は歩き出す。かばんから手を離さないので、私はずるずると引きずられていく。

「ちょ、ちょっと! 離してください!」
「いやよいやよも好きのうちってやつ。僕の数少ない友人が言ってたよ」
「どうせ五十嵐(いがらし)先輩でしょ」
「おや。どうして知ってるんだ――ハッ、まさか蜂須ちゃんは僕のストーカー……なんてこったい僕も君のストーカーだよ」
「んなわけあるか!」

 吹奏楽部をやめて帰宅部になってからというもの、八街先輩は私を生徒会室に引きずりこもうと必死だ。私は生徒会役員でないというのに、気づけば生徒会メンバーは私のことを覚えている。

 引きずられて仕方なくやってきた生徒会室。中に入ると今日はメンバーが少なく、いるのは三年の篠宮先輩だけだった。これまた変人。二年の平井四葉さんがお気に入りで、いつも篠宮兄弟がつきまとっている。ボディーガード篠宮兄弟。
 その篠宮先輩は部屋にやってきた私を見るなり、二回ほど頷いた。

「うんうん。今日もきたんだねえ、蜂須さん」
「来たくないです。ってか私生徒会役員じゃないんで」

 生徒会役員じゃないと主張しても篠宮先輩は助けようとしない。それどころか。

「蜂須さんがきたなら大丈夫かな。ちょっと確認してほしいことがあったんだけど、会長に任せてもいいね?」
「もーちろん。蜂須ちゃんがいれば僕は何でもできるとも! 彼女はね、僕に翼を与えてくれるアフロディーテいやアルテ――」
「うんうん。何言ってるのかわからなくなってきたね。じゃあ僕は、四葉のところに行ってくるよ。美術室にいるから」

 仕事放棄して美術室に行くと、堂々の宣言である。
 この学校の生徒会ってどうなってんのよ。生徒会室に私たち二人を残すな。

 抵抗しても無駄なのはこれまでの学校生活で染みついていて、私は仕方なく空席に腰を下ろす。八街先輩も会長席に座った。

「……で。私は何か手伝えばいいんですか?」

 普段はあれやこれやと仕事を手伝わせてくるけれど、今日はその様子がない。八街先輩は書類に目を通したまま言った。

「そこにいてくれれば大丈夫。蜂須ちゃんは僕に元気を分け与えてくれる尊さ放出大明神だからね」
「尊さ放出大明神……? ちょっと言ってる意味がわからないです」
「いいかい!? 萌えってのはね、火山なんだよ。つもりにつもった萌えパワーがある時期にドカーンと放出される。つまり君はキラウエア火山みたいな萌えの塊」

 何言ってんだこの人。
 大げさにため息をついて呆れているアピールをするけれど、八街先輩はニコニコしてまったく効いていない。空気ってものが読めないんだこの人は。

 まともな会話をしようと思ったところで無駄だ。私は八街先輩を無視してスマートフォンを取り出す。といっても友達からメッセージもきてないし、することはなくて。
 さっき八街先輩が言っていたラブ・プリズンって何だろうと思いつき、検索する。ラブ刑務所。

「……ふ、くく、刑務所って」

 ラブ刑務所が笑いのツボに入ってしまって、堪えきれず吹き出してしまった。突然笑い出した私に気づき、八街先輩が顔をあげる。それから。

「あああああッ! 笑ってる顔、たまらん珍百景! 永久保存!」

 こちらをじっと見てどうするのかと思えば、普段通りの謎言語が爆発していた。

 しかし。生徒会室に拉致されたところで手伝うものもないってのはつまらない。スマートフォンを見ているのにも飽きてしまって、私は八街先輩の机に近づく。

「八街先輩は何してるんですか?」
「これかい? もちろん僕のミューズには教えるとも」

 そしてひらり、とわら半紙が視界を泳ぐ。揺れる紙に書いてあったのは今月行われる生徒会総選挙の内容だった。

「もうすぐ生徒会総選挙だろう? 立候補者は出そろったから、選挙当日の流れを確認しているんだ」
「なるほど。11月ですもんねえ」

 数名高校の生徒会は自薦他薦で決まり、候補が複数名いた場合は11月の生徒総会で全校生徒の投票によって決まる。
 数名高校の生徒会は比較的ゆるいらしく、部活に入部している人でも生徒会役員になることができる。実際に三年の篠宮先輩だってバスケ部とかけもちだった。

 八街先輩は少し寂しそうな顔をしてわら半紙を眺めた。

「といってもね……僕は三年生だから」
「さっさと卒業してください」
「でもそうしたら蜂須ちゃんが寂しくなるだろう!? 僕は君のために留年したい!」
「結構です。私のためを思うならどうぞ卒業してください」

 寂しそうな顔と思ったけれど、なんだかんだいつも通りの気持ち悪い八街先輩だ。心配して損した。

「あーっ。蜂須ちゃんの存在が可愛すぎて無理無理の無理。この世の萌え集合体~~!」
「いいからさっさとやること終わらせてください。私、帰りたいんで」
「鞭のようにビシビシと刺さる言葉。ご褒美。たまらん最高です」
「……はあ」

 逃げるように再びスマートフォンを見る。ロック画面には日付が出ていて、11月と書いてある。
 秋だ。確かに最近寒くなってきた。

 生徒会室の窓からはグラウンドに集まった運動部が見える。三年生はとっくに引退しているから、いるのは一年生と二年生だけ。
 春や夏に比べて少し寂しいその景色は、枯れ葉が落ちてほっそりとした冬の木に似ている気がした。

「……もうすぐ冬ですね」

 その独り言に、八街先輩は笑った。

「当たり前なことを言ってどうしたんだい? 僕への愛に目覚めてしまった?」
「ほら、11月って影が薄いじゃないですか。クリスマスみたいなビッグイベントもないし、秋なのか冬なのか難しい中途半端な季節だし」
「とっくに11月だし、冬だよ」

 珍しく真面目に言った。

「君よりも僕の方が、カレンダーに詳しいから」
「う、ううん……? 自信たっぷりに言ってますけど、カレンダーぐらいみんな見るでしょ」
「もちろん。でも日付に関する意識ってのが違うんだよ。だから僕は、全身で11月を感じている」

 はあ、と適当な返事をして後は放っておく。
 以降はいつものごとく「もちろん蜂須ちゃんのことも全身で感じている」だの「足の小指から頭のてっぺんまで萌えが詰まってる」だの斜め上の謎言語が飛んできたので、無視しておいた。

***

「やあやあ蜂須ちゃん!」

 その呼び方をするのは一人しかいなくて、振り返るのも嫌になる。
 どうしてこの男は廊下で私を見つけるのがうまいのだろう。勘弁してほしい。透明人間になる薬があったらがぶ飲みして逃げてる。

「……おやあ聞こえないのかな? マイスウィート蜂須ちゃん」
「聞こえてるんでそのマイスイートなんちゃらやめてもらえます? スウィートの発音が無駄に上手いの腹立ちます」

 周りの冷えた視線を浴びながら結局逃げ切れずに向き合うしかなく。
 一度捕まれば逃げ出せないのがわかっているから、引きずられる前に後ろをついていく。

「てか八街先輩。どうして私ばかり狙うんです?」
「む。狙うとは失礼な言い方だね、僕は蜂須ちゃんだから追いかけているんだよ」
「ああ、もうめんどくさい。どうして私ばかり構うのかって聞いてるんです!」

 とぼとぼと歩きながら聞くと、八街先輩は「今更そんなこと」と笑った。

「僕は蜂須ちゃんから元気パワーをもらっているからね。君は僕の太陽なんだ。例えると、そうだね、空腹の時に頭をもぎって分け与えてくれる正義の味方」
「そんなパワーないですし、太陽じゃなくて人間ですし、食べ物分けた覚えもありません」
「君が隣にいるだけで力がみなぎってくるんだよ。存在が奇跡」

 これまでに何回か『どうして私なのか』と聞いたことはあるけれど、いつも抽象的な答えだったりぼかしていたりで、いまいちよくわからない。結局この日もよくわからないまま、私は八街先輩の後を追う。

「……って、生徒会室に行かないんですか?」

 てっきり生徒会室に行くと思ったのに、八街先輩が向かったのはその隣の生徒指導室。普段は空き教室になっていて、先生に頼めば自習用に教室を貸してくれるらしい。私は頼んだことないけど。

「君はあれだね、カレンダーに疎すぎる」
「またカレンダーの話ですか」
「だって12月だよ」

 そう言って八街先輩は教室に入っていく。生徒会室と違って、埃をかぶっているし、備品も最低限のものだけ。八街先輩が会長席に置いていた極彩色レインボークッションみたいなお遊び的なものは一切ない。

「で。今日は何を手伝えばいいんです? ここまで連れてきたんですから、何か手伝いがあるんですよね?」
「思えば今まで色んなものを手伝ってもらったねえ」
「ペットボトルのフタ回収の色分けが一番つらかったです。あれは夢に出ました」
「プルタブ回収で手を切ったこともあったね。蜂須ちゃんの美指に傷つくなんて許せないけど、痛そうにしていた蜂須ちゃん性癖に響いた。プルタブちゃん最高に仕事した。やばかった。夢に出た」
「……今のは聞かなかったことにします」

 夢にまで私を巻きこまないで。そんなことを言おうもんならどんな夢だったかの詳細まで語られそうだ。

 ここに連れてきて今日はどうするのだろう。生徒会室じゃないから生徒会の仕事はないだろうし。そう考えていると八街会長は空いた椅子に腰掛けてかばんから教科書を取り出した。

「勉強ですか」
「うん」
「八街先輩、頭めっちゃいいから勉強しなくてもいいと思うんですけど」
「僕、頭いいからね! 蜂須ちゃんは成績悪いけど、あっはっは」
「ともかく。勉強するなら、私いない方がいいと思うんですけど。一人の方が集中できると思いますよ」

 すると八街先輩は首を横に振って「それはだめだよ!」と演技かかった声で言う。

「マイスイート蜂須ちゃんがここにいる。女神がそばで見守ってくれている緊張感。それが大事なんだ」
「……それ私のことガン無視ですよね? ここで見守っていろって暇すぎるんですけど」
「じゃあ君も勉強すればいい。僕と一緒だね! わからないところはいつでも教えてあげるよ! さあ!」

 しばらくは言う通り、大人しくここにいるとして。八街先輩が勉強に夢中になった頃に抜け出せばいいだろうか。
 そんなことを考えてスマートフォンを取り出す。パズルゲームに勤しんでいる隣では、八街先輩が教科書開いて勉強中。勉強している時に隣で遊んでいる人がいたら、集中できないと思うんだけど。

 どんな勉強をしているんだろうと覗きこもうとして、瞬間八街先輩が顔をあげた。こちらをじっと見ている。

「……もう、トランペットは吹かないの?」

 先輩はそう言った。

「やることがなくてゲームするぐらいなら、ここでトランペットを吹いてほしいんだけど」
「……こんな狭い部屋で吹いたら騒がしいと思いますよ」

 何を言われても、トランペットを吹くことはないけど。ひねくれた返答をしたけれど八街先輩は目を細めて笑うだけ。

「騒がしくなんてないよ! 蜂須ちゃんの二酸化炭素が美しい音を鳴らすなんて最高じゃあないか。楽器って素晴らしいよ、君のためにある!」
「……はあ」

 くだらん。この人の話に付き合った私が馬鹿だった。再びスマートフォンを握りしめる。パズルゲームのゆるゆるした音楽が教室に響く。

「……もう一度、聴きたかったけどねえ」

 八街先輩が呟いたそれが何のことかわからなくて、私は答えなかった。


 そうしてしばらく経ってから、廊下が騒がしくなった。隣の生徒会室から生徒が出てきたところでこれから帰るのだろう。
 その一人が廊下を歩き、そしてこちらの教室を見る。ドアのガラス越しに目があって、それから。

「あ。八街《《元》》会長だ」

 確かにそう言った。
 その声をきっかけに生徒会役員たちが教室に入り、八街先輩を囲む。「ここにいたなら生徒会室にきてくださいよ」とか「聞きたいことがあったんです」だの騒いでいた。
 中心にいる八街先輩はからからと笑っている。

 でも私には。
 なぜか、その笑顔が薄っぺらく見えてしまって。普段と違う、腹の底から笑ってる感じじゃない。薄っぺらな笑顔で何かを隠している。

 隠しているものは何だろう。それを表現するにふさわしい言葉を探す。
 一つだけ、ぴったりと当てはまるものがあった。八街先輩が隠しているもの、それは。

「……喪失感」

 その独り言が聞こえてしまったのかわからない。
 でも生徒会役員たちが去ってから、閉じた教科書を開き直きなおして八街先輩が言った。

「『元会長』だってさ」
「……だから生徒会室に行かなかったんですね。八街先輩、もう生徒会長じゃないから」
「そりゃあ11月に生徒会選挙をしたからね。新しいメンバーが決まった。僕は三年生だから、これでおしまい」

 おしまい。と言って、筆箱から出した付箋を教科書に貼る。みれば教科書やノートだけじゃない、参考書やあらゆるものにたくさんの付箋がついていて、使いこんだ印のように表紙は汚れている。

「君、ほんとカレンダーに疎いね」

 八街先輩は喪失感を隠すように、薄っぺらく微笑んでいた。

***

「蜂須ちゃあああ――」
「はい。どうも蜂須です。呼び出しですね行きましょう」

 その声が聞こえて、すぐに振り返る。
 抵抗したって無駄なんだから、それならさっさと従って終わらせた方がいい。

「今日は随分と理解が早いね……はっ、まさか、これが蜂須ちゃんのデレ期!? 蜂須ちゃんのハート温暖化!? グッバイ氷河期!」
「んなわけないです。やりとりするのも面倒なんです」

 どうせまた生徒会室の隣に行くんだろうし。とぼとぼ歩いて行くと、廊下の向こうから吹奏楽部の生徒が歩いてきた。譜面をコピーしてきたのか、紙の束を持っている。
 彼女は私を見るなり、駆け寄ってきた。

「蜂須先輩! あの……」

 名前が知られているのは私が吹奏楽部に入っていたから。でも今は辞めているから彼女が話しかける用事はないと思う。私はぶっきらぼうに「なに」と低い声音で聞く。その一年女子はあからさまな私の不機嫌に臆さず、こちらを正面から見据えて言った。

「部活、戻ってこないんですか?」

 それを聞かれるのは、何度目だろう。
 頬の筋肉は強ばっていて、でもそれを無理矢理引き上げて笑う。

「戻らないよ」
「でも、先輩が抜けてから……」
「私、吹奏楽部を辞めたから」

 強めに返すと、その女子生徒は黙りこんだ。私の言葉を反芻して理解できたのか、一礼した後に去った。

「……いいの?」

 やりとりを眺めていた八街先輩が口を開いた。

「戻りたいなら戻ればいいのに」
「いいんです」
「僕専用女神の蜂須ちゃんがそういうなら、僕は構わないけども」

 そして歩き出す。少し遅れて私も八街先輩を追いかけた。

「……やりたいことができる時期って、わずかだからね」

 八街先輩の独り言だったと思う。けれど、聞こえてしまったから私は何も言えなくなる。
 やりたいことができる時期がわずかなのはわかっているけれど、許されないのだから仕方なくて。

 生徒会室の隣。その教室を使うのはほぼ八街先輩だけとなっていた。けれど前の生徒会室に置いてあったような私物はやはりなく、知らない人がこの教室を見ても、八街先輩がここを使っていたと気づかないのだろう。

 今日も参考書を眺めながら八街先輩は言う。

「それで。どうして蜂須ちゃんは部活をやめたんだっけ?」
「……別に」
「あれれ。こんなに蜂須ちゃんをお慕いしている僕にも話せない?」


 隠すような内容ではないけれど。
 私はひとつ間を置いて、それからゆるゆると語る。人に話したところで戻ることのない、どうせなら忘れてしまいたい話だ。

「テストの点が悪くて、親に反対されたんです」

 数名高校吹奏楽部は全国大会出場経験のある強豪で、その分練習時間も長い。体力作りのため運動部と同じように走りこみをし、放課後も真っ暗になるまで練習漬け。朝練だってある。家に帰れば疲れて寝てしまったり、家でも練習してみたり。
 そんな日々が続き、元から勉強は苦手なのもあってみるみるうちに成績が落ちていった。見かねた両親が、トランペットを取り上げた。
 吹奏楽部をやめること。何度訴えても許されず、ついに退部届を出すしかなかった。

「……なるほどねえ。蜂須ちゃんあんまり頭よくないもんなあ」
「学年トップの人に言われると傷つきますね」
「そりゃ、僕は勉強しか取り柄がないから。あっはっは」

 勉強ができるだけ、すごいと思う。
 本当は吹奏楽部を続けたかった。先輩たちから受け継いだバトンを、綺麗な形で後輩に託したかった。

 でも、もうやめてしまったから。

「ねえ、蜂須ちゃん。手を出してよ」

 八街先輩に言われて、その通りに手を出す。
 すると、手のひらにぽんと何かが乗った。ひやりと冷たい金属の感触。よく見れば、トランペットのチャームがついたキーホルダーだった。

「プレゼント」
「え? もらっていいんですか」
「蜂須ちゃんに何かプレゼントをしたくてね。朝早く五十嵐くんの家に押しかけて買い物に付き合ってもらったんだ。さらに偶然三崎くんを発見したから彼も捕まえてね。いやあ、楽しい買い物だった。おかげでいいものが見つかったよ」
「わざわざ……私のために……」

 キーホルダーを矯めつ眇めつ眺めているうちに、八街先輩の視線は参考書へと戻った。

「……ありがとうございます」
「どういたしまして――それが本物だったら吹いてもらえたのになあ。残念だ」

 少し悩んでかばんにつける。キラキラと光るトランペットのチャーム。トランペット風なだけであって細部の作りは微妙に違う、大きさだって当然異なる。でも本物のトランペットを構えた時みたいな、ドキドキがあった。

「それ。僕みたいでしょ?」
「え? トランペットですよ、八街先輩とぜんぜん違いますけど」
「ひどいなあ。それを見るたびに僕を思い出してくれても――」
「感謝はしてますけど、それは嫌です」

 辛口で返しているけれど、そこまで嫌じゃない。
 こうして八街先輩と二人でいる時間は、なんだかんだ楽しくて。

 どうしてだろうと考えた時、両親との会話を思い出した。

『これ以上成績が下がるなら、部活をやめるって約束したわね?』
『……はい』
『吹奏楽部、やめなさい。高校は大事な時期なんだから』
『……わかりました』

 反論できず、言われるがままにやめた部活。退部届を書いても提出しても、消化不良で残っているから吹奏楽部の子と会うのが辛くなる。辞めた本当の理由だって、八街先輩にしか話していない。

 でも。八街先輩には思っていることを素直にぶつけられる。どれだけ厳しいこと冷たいことを言っても、彼は食いついて離れないから、安心して話せるのだと思う。
 変な言動する人だけど、一緒にいる時自然体でいられるんだ。

「……ねえ。お願いがあるんだけど」
「なんですか? 変なお願いなら嫌ですよ」
「僕に『がんばれ』って言ってくれない?」
「は?」

 変なお願い事をするものだと思った。
 私は首を傾げ、でも言うだけならタダだしな、なんて軽い気持ちで口を開く。

「がんばれ」

 すると八街先輩はにっこりと微笑んだ――けれど一瞬で終わって、いつものだらりとした顔に戻る。

「ああー。僕の女神蜂須ちゃん尊すぎ……いまの録音すればよかった……声まで可愛いとかどうなってるの」

 変な方向に妄想をはじめた八街先輩を置いて、スマートフォンを手に取る。
 ロック画面には日付が表示されていて、それは『1月』。

「……初詣、行かなかったな」

 ぼそりと呟くと八街先輩が言った。

「じゃあ一緒に行こうよ」
「休みの日ぐらい解放してくださいよ」
「そう言わずに。僕、一月最終週に神社行く予定だから行こうよ」

 まあ少しぐらい、初詣ぐらいなら。


 家に帰ると、私宛のチラシがいくつも届いていた。
 この時期になるとやけに増える、駅前の塾だとか通信教育だとか。今からでも遅くないって書いてあるのがなんとも腹立たしい。もう遅いってのに。

「……あ」

 そのチラシを眺めて、ふと気づく。

「……センター試験じゃん」

 センター試験、大学入試。
 八街先輩も挑んでいるのだろうか。参考書を読んでいたから、きっと大学受験するのだと思う。

 ぜんぜん気づいていなかった。先輩もそのことを言わなくて。

「がんばれって、もっと言えばよかった」

 かばんを見れば、あのトランペットのチャームがきらきら光っていた。

***

 一月末日。
 その日は、学校近くの神社に現地集合だった。待ち合わせ時間より少し早めに向かうと、すでに八街先輩が着いていた。

「お。マイハニーは時間を守るタイプだね」
「……褒められているんだろうけど、マイハニーってのが余計だから複雑ですね」
「はは。蜂須ちゃんったら照れ屋さん」

 初詣シーズンはとっくに過ぎていて、神社は閑散としている。境内には『節分用豆配布はこちら』と書いた看板もあった。

「初詣……ではないですねえ、時期的に」
「いいんだよ、気持ちが大事だから」

 八街先輩はのんびりと歩き出す。私もその隣に並んだ。

「しかし蜂須ちゃんの私服はなんて可愛らしい。きっと昨日は『初デートに何を着ていこうか迷っちゃう、眠れなーい』となっていたことだろう。うん」
「安心してください。爆睡してました」
「でも服装は悩んだだろう?」
「いえ特に」
「……はー。今日も塩対応のツンデレハニーだ」

 本当は服装選びに時間がかかったし、スカートだってお気に入りのもの。それを明かせば八街先輩が調子に乗りそうだからやめておいた。

「ほら。お参りしましょ」
「ああ……ちょっとの雑談も許されず、さくさくと進んでいく……」

 ぼやいていた八街先輩だったけれど、いざ拝礼となると顔つきは変わった。
 お辞儀を二回して、拍手を二回して――両手を合わせて願いごとを頭に思い浮かべるはずが、これといった願いごとは浮かばない。ここで吹奏楽部に戻りたいなんて言っても難しいだろうし、今さら成績があがっても部活に戻れないし。

 だから八街先輩のことを願った。
 大学合格できますように。入りたい大学に合格して、八街先輩のやりたいことができますように。

 唱え終わって顔をあげると、まだ八街先輩は目を瞑っていた。相当長いお願いごとだ。
 それを遮りたくないので黙って見守る。少し経ってから、ふ、と八街先輩が顔をあげた。

「……じゃあ次は絵馬でも」
「初詣シーズンじゃないのにあるんですか?」
「あるある。じゃあさっそく行こう。蜂須ちゃんはいる?」
「私は特に。願い事とかないんで」

 八街先輩は颯爽と歩いて行き、絵馬を1ついただいた。黒のサインペンを借りてきて、近くの机で書く。

「何書くんですか?」
「キャー、のぞきよ。蜂須ちゃんが僕の大事なものをのぞきにきてる!」
「誤解を生む言い方やめてください。じゃあ、離れて待ってますから」
「うん。待っててね」

 冗談めかして言っていたけれど、願いごとを見られたくなかったんだろう。
 先輩は何も言わないけれど大学受験があるからそのことを書くのかもしれない。神社に来たいと言い出した理由もそれだと思っていた。だから邪魔しないよう、少し離れた位置で待つ。

 その間におみくじを引こうかと思った。
 おみくじも何種類かあり、どれにすべきか迷ってしまう。おみくじ棚とにらめっこをしていると絵馬をかけ終えた八街先輩が戻ってきた。

「おみくじ引くんだ?」
「はい。初詣って言えばこれじゃないですか。八街先輩も引きます?」

 すると八街先輩は首を横に振った。

「僕はいいよ。いま、凶なんて引いたら立ち直れない。意外とメンタル弱いから」

 そういうものかと納得して、私もおみくじを引くのはやめた。

 二人で神社を出る。この後の予定は特にないので解散だ。
 デートとかそういうものじゃないってわかっているけれど。服を選ぶのにかかった時間より会う時間の方が短いことが悲しくて。でも引き止める勇気はでなかった。

「……あのさ、」

 引き止めたいけれどと逡巡していると、おずおずと八街先輩が切り出した。

 もしかすると彼も同じ気持ちを抱いていたのだろうか。もう少しこの時間が続けばいいと願っていたのか。そう期待したけれど。

「……いつも蜂須ちゃんを追いかけ回してごめん」

 紡がれたのは予想とは違う、悲しい言葉。

「これで最後だから。今まで君と一緒にいられて本当に楽しかった」
「え……最後って、どういう……」
「生徒会の仕事を手伝ってくれたり放課後に話したり、君に拒否されるのも君を追いかけるのもぜんぶ楽しかった。君は……本当に嫌だったかもしれないけど」

 どうしてそんな、真面目なトーンで話すの。
 いつもみたいにマイハニーだのマイスイートだの言ってよ。

「やりたいことができる時期ってわずかなんだ。少ししかないんだ。だから、最後に」

 八街先輩は私のかばんを指さした。その指は、今日のためにスクールバッグからショルダーバッグへとお引っ越しした、トランペットのチャームがついたキーホルダーに向けられている。

「僕は蜂須ちゃんがやりたいことをできるよう、願ってる」
「……っ、それは」
「二年前の学校祭。トランペットを吹く君に一目惚れしてから今日まで、ずっと追いかけてきた。またあの音色を聞きたかった。でも時間切れだ」

 何を言ってるの。まるでこんな言い方をしたら、お別れみたいな。
 そんなわけない。きっとまた、学校で先輩は追いかけてくる。放課後廊下を歩いていたら私を呼ぶ。

「はいはい。いつもの斜め上トークですね」
「うん。どう受け止められてもいいよ――ありがとう。蜂須ちゃんに出会えてよかった。君が好きだったよ」

 また、私をからかおうとしているに違いない。神妙な顔をしていた八街先輩のそれも、きっと演技じみたものだから。
 これはお別れの挨拶なんかじゃない。そう思わせて、学校で話しかけてくるに違いない。

 だから、引き止めなくたってまた会える。




 そう思っていたのは私だけで。

「あれ、知らなかったの? 三年生は自由登校だよ」

 初詣後、三年の教室に行こうとした時、友人の(さん)()(せつ)()は言った。

「……は?」
「2月はぜんぶ自由登校だから。あとは卒業予行と卒業式ぐらいしか来る日ないと思う」
「なにそれ……知らなかった」

 駆け出し、三年生の教室に向かう。
 自由登校なんて言ったって、きっと、あの変人は来てるはず。

 でも。三年生の教室はどれもがらりと空いていて、探している人の姿もなく。

「……あ」

 しんと静かな廊下。振り返ってもいない。私を呼ぶ人はいない。

 こうしていなくなれば、寂しくてたまらない。
 無理矢理生徒会室に引っ張られて嫌だった日々。放課後付き合わされてうんざりしたこと。初詣での言葉。

 遊びでもからかいでもなく。あの人は本気でお別れを告げたんだ。

 どうして、あの場で気づかなかったのだろう。
 正面から彼の言葉を受け止めればよかった。からかっている、なんて流さずに。

 彼の話をちゃんと聞いていたのなら、その時引き止めることができた。
 これでお別れなんて嫌だと伝えれたのに。

「……マイハニーだっけ」

 ぽつりと呟いてみる。今はその言葉が懐かしくてたまらない。
 八街先輩は『僕は君よりもカレンダーに詳しい』と言っていた。彼はタイムリミットが迫っていることを知っていたのだろう。私は、ぜんぜん気づかなくて。


「……あら?」

 落胆しながら廊下を歩いていると、美術室から派手な髪色の男子生徒が出てきたところだった。男子生徒、でいいんだと思う、たぶん。
 名札には『五十嵐(いがらし)』と書いてある。その名はとても有名で、八街先輩と並んで変人と呼ばれた人だ。

 彼は私を見るなり、「んー?」と顔を覗きこみ、何やら目を瞬かせていた。

「あんた、もしかして噂の蜂須ちゃん?」
「はい? 噂?」
「あー、噂って言っても話しているのは一人だけどね」

 その一人が誰なのか、すぐわかった。
 八街先輩だ。というのも五十嵐先輩は、八街先輩の数少ない友人だから。

 その五十嵐先輩は、ピンクの紙袋をかばんから取り出した。

「これ、預かってきたの」
「え……」
「あんたもよく知ってるでしょ、八街よ――もう聞いてよ。あの変人野郎の家に荷物届けに行ったの。そしたら私が明日登校するって聞くなり、『二年の蜂須ちゃんに渡してほしい』なんて言い出したのよ。んもー、私はメッセンジャーじゃないっての」

 オネエ口調でぼやく五十嵐先輩を無視して、紙袋を開ける。
 中に入っていたのは、絵馬だった。

「……『蜂須ちゃんが、自由に好きなことをできますように』って」

 受験があるのに。
 絵馬は一つしかいただいていないのに。

 彼が願うことは大学合格ではなく、私の自由。

「あんたも大変よねえ。変人に愛されちゃって」

 絵馬を手に取って呆然としている私の前で、五十嵐先輩が大あくびを一つ。「じゃあね」と手を振って去っていくその背。
 これが、最後のチャンスだと思った。

「五十嵐先輩、待ってください」

 これが、私が八街先輩と話せる、最後のチャンス。

***

 嫌がる五十嵐先輩から聞き出したその場所は、閑静な住宅街。白い外壁と青い屋根の一戸建てだった。

「ここが……八街先輩の家」

 土曜の昼間となれば、八街先輩以外のご家族も家にいるわけで。突然後輩のそれも女子生徒がやってくるなんて驚かせてしまうだろう。

 それにセンター試験終わって前期試験はまもなく。集中していたい追いこみ時期だ。そこに前連絡なしで私がやってくる、なんて妨害になるかもしれない。

 インターホンを押そうとして、ためらう。
 会いたい気持ちはあれど動くのは難しいのだと今になって知った。廊下で『蜂須ちゃん』と声をかけていた八街先輩は、平然としていたけれど裏では勇気を振り絞っていたのかもしれない。

 気づかなかった。
 そういった感情まで、追いかけるまで私は気づかなかったのだ。

 やっぱり、勇気を出してインターホンを鳴らそう。
 もう一度指を伸ばした時、後ろから声がした。

「……蜂須、ちゃん?」

 なじみのある声に振り返る。
 そこにいたのは、コンビニの袋を提げた八街先輩だった。



 もし私が勇気を出してインターホンを鳴らしていても、家に誰もいなかったらしい。八街先輩はそう笑って、私を家にあげてくれた。
 その家は外観どころかリビングや廊下も綺麗で、私のような女子高生にも調度品の豪華さが伝わってくる。玄関なんてぴかぴかに磨かれていた。
 案内されて八街先輩の部屋に入る。これまた普段の変人っぷりから想像もつかないシンプルな部屋だった。男子高校生の部屋というより、何もない部屋というのに近い。生徒会室で使っていたような極彩色のクッションは、きっとこの部屋に似合わないだろう。

「……ま、お坊ちゃんってやつで」

 これまたお高そうな花柄のティーカップに紅茶を入れて、八街先輩が戻ってくる。

「普段のイメージと違ってて、びっくりしました」
「家ではね。僕は道を逸れてはいけない優等生だから」

 マイハニーだの女神だの言っていたと思えない、品のいい私服を着て、カップに口をつける。振る舞いまで学校と異なっていた。

「家では抑圧されているから学校では好き勝手楽しく過ごしてきたよ。変人なんて言われても楽しくて仕方なかった」
「先輩が『やりたいことができる時期はわずか』って言ってたのは、そういう意味もあったんですね」
「うん。高校卒業したら、僕は敷かれたレールを歩くだろうから」

 吹奏楽部を辞めることになってふて腐れていた私に、先輩は『もう一度トランペットを吹かないの』と言ってくれた。
 それは、先輩自身がやりたいことできる時期は少ししかないと知っていたから。

 寂しそうな顔をして、高校生活は終わったかのように話す。
 でも私は、まだ終わりたくない。

「……これ。届けにきました」

 水色の紙袋に入れてリボンをつけたプレゼント。差し出すと八街先輩は嬉しそうにすっと目を細めた。

「開けていい?」
「どうぞ」

 袋から取り出したのは絵馬。でも先輩が書いたやつじゃない。神社にもう一度行って、私の願いごとを書いてきた。

「……こ、これって」

 私が絵馬に書いたものを見て、八街先輩が息を呑んだ。その頬が少し赤い気がして、でも私も同じぐらい顔が赤くなっているかもしれないからそっぽを向く。

「トランペット、また吹きますから。だから早く大学合格しちゃってください」
「……あ、ああああ……僕の女神様蜂須ちゃん本当に女神だった! 幸せの過剰供給……」
「一緒に過ごしているうちに私まで変人になっちゃったみたいで。八街先輩に会えないと寂しいんです」
「デレがきた! ツンデレのデレがいまきてる!」

 八街先輩は立ち上がり謎のガッツポーズを取っていた。
 緊張しそうな八街先輩の家でも、こうして二人でいれば学校の時と変わらない。その変人モードが懐かしくて、妙に落ち着く。

「いま蜂須ちゃんに好きとか言われたら爆発する……散る……」
「入試前に物騒なこと言わないでください」
「あれかな! 合格したら、『マイダーリン八街先輩、大好きです』なんて言ってくれちゃう!?」
「……一部だけ裏声使って謎再現するのやめてください。ご提案は善処しておきます」

 その通りに言うかはわからないけども。
 八街先輩は両手で絵馬を握りしめて、本当に幸せそうにしていたから。私まで嬉しくなってしまう。

『好きな人が大学合格して、私の演奏を聴いてくれますように』

 願いごとが、叶いますように。