彼をはじめて見た時、嵐がきたのだと思った。

「どうもー! 俺、(ろつ)(ぽん)()駿(しゆん)(すけ)です! 美岸利(みぎり)高校から転校してきましたー! 好きなものは野球、趣味は野球、入りたい部活は野球部です。制服はまだ間に合ってませーん。よろしくおねがいしまーす」

 夏休み終わって二学期二日目。私のクラスに転校生がやってきた。
 転校生といえば黒板に名前を書くのかな、なんて思ったけれど。彼はそんな間なく、すらすらと自己紹介をしている。

 彼の第一印象は『賑やか』だった。快活であることは伝わっているから、クラスに馴染むのは早いだろう。

「六本木くんの席は()()さんの後ろね」

 夏休み前まで教室に空席はなかった。私は教室中央列の一番後ろ、だったのに。登校した時から私の後ろに一つ、席が増えていた。それは彼のために用意されたものだろう。

 最後尾は私から転校生に変わる。最後尾はプリントの回収などで席を立つことが多いから少しほっとしたような、けれど急に後ろに人が座るというのは緊張する。壁だと思って気ままにしていた授業中が息苦しくなりそうだと思った。

 六本木くんはクラス中から向けられる好奇の目に臆さず、ニコニコ笑顔で弾むように歩いていく。数名高校の臙脂色の制服の中で、浮いているライトグレーのジャケット。波をかきわけ、はっきりと目立つそれは異物なのに、彼はひどく楽しそうだった。

「牟田ちゃん、だよね」

 後ろの席に彼が座って、それからまもなく声をかけられた。
 振り返り、見る。野球野球と騒いでいたくせ坊主ではない。髪は束になり、光の反射を見るにしっとりした質感かもしれない。ヘアワックスとかスプレーでかためているような。野球部らしさは、スクールバッグ代わりのスポーツバッグだけ。

 その六本木くんの第一声が『牟田ちゃん』であって。初対面の女の子を『ちゃん』付けで呼ぶ軽薄さに、声は一瞬ほど出ず。

「牟田です」

 控えめに呟くのが精一杯だった。

「ねえねえ牟田ちゃんって部活やってるー? 学校案内してよ」
「……」
「俺、昼飯持ってきてないんだ。購買ってある? おすすめの食べ物とかあったら教えてよ」
「……」

 周囲に声をかけたかったのかもしれない。彼の席の周囲といっても両隣は誰もいないし、後ろにはロッカー。前に私がいるだけの状況だ。

 私はうまい返答が思いつかなかったからと、質問を受け流すことにした。
 だって私に話しかけたって面白くない。あと数時間もすれば彼もそれに気づくはず。



 ホームルームが終わって次の授業がはじまるまで5分ほどの時間が空く。早々に教科書とノートを取り出し、終わったらかばんから取り出して本を読む。そんな時に。

「ねーねー、牟田ちゃーん」

 後ろから、声。

「聞いてるー?俺、学校のこと色々と教えてほしいんだけどー」

 私の返答がないことに気づいているのかふて腐れた調子だった。

 しかし学校のことを何も知らないままというのは不便かもしれない。
 今日が始業式であるなら半日で終わるけれど、彼は二学期二日目からの転校なので普段通りに授業は行われる。お昼ご飯を持ってきていないのなら大変だ。購買の場所を伝えた方がいいのかもしれない。

 意を決して彼の方を見るべく振り返ろうとして――でもそれは横から割り込んできた言葉に遮られた。

「やめやめ。そいつ喋んねーから楽しくねーぞ。ぜんぜん喋らない根暗女なんだよ。学校のことなら俺が教えてやるから」

 こいつ、という言葉が示すのは私のことだとすぐにわかった。
 
 振り返ろうとしていたのはやめて俯く。気にしない気にしないと心中で呪文を唱えて再び文庫本を手に取る。けれど綴られている文字は少しも頭に残らない。意識は後ろの席に向けられていた。


 それからしばらくして授業が始まった。
 出席確認をしていた先生は、六本木くんの名前に辿り着いたところで顔をあげた。

「このクラス転校生がいたのね。六本木くん教科書ある?」
「ないでーっす」
「予備の教科書持ってくればよかったわね。じゃあ――前の席の牟田さん。彼に教科書を貸してあげて。牟田さんは隣の席の子と一緒に使ってね」

 教科書を、貸す?
 人に貸すことにためらいはないけれど。先ほどの野球部男子との会話があったから気まずくて。

 そこでふと思い立った。
 購買の場所をメモに書いてしおり代わりとして教科書に挟めば、どのページから授業が始まるかもわかる。

『学校の地図です。購買はここです』

 ノートの端をちぎって走り書きをし、教科書に挟む。それからおそるおそる振り返った。けれど目を合わせるのは怖いから、視線は斜め下。机の角の方を見ていた。

「……っ、あ、あの、」
「え? なあに? 教科書貸してくれるの?」

 彼の机に置いて戻るのが精一杯だった。うまく喋れない。声が出ない。振り返ることさえ緊張する。

 それは彼だけの話じゃない。野球部の子が言ったように、私は喋らない根暗女なのだ。
 クラスの子と親しくなるなんて難しい。相手が男子でも女子でも喋るのが怖い。同じ吹奏楽部の子は色々と気にかけてくれるけれど、私はそれについていくのが精一杯で。

 はっきりと喋ることが苦手な私は、いつの間にかクラスでひとりぼっちだった。

 憂鬱だ。本当に。

 後ろから、肩にトントンと何かが当たった。叩くというよりも柔らかく撫でるような、そういう優しさで。
 何事かと振り返れば、六本木くんだった。何やら丸めた紙を持っていて、それで私の肩を叩いたらしい。

「読んで」

 先生に聞こえない小さい声で彼が言った。筒のように丸まった紙を受け取って、机に隠しながら開く。

 『教科書貸してくれてありがとう。購買のことも教えてくれて助かる!』

 最後には可愛らしいニコニコの絵文字が書いてあった。
 ともかく。懸念していた購買事情はこれでクリア。この先六本木くんと関わることもない。

 そう思っていた。

***

 翌日のこと。
 六本木くんは恐ろしい速さでクラスに馴染んでいく。特に男子生徒とはすぐに打ち解けたようで、休憩時間や休み時間のたび六本木くんの席に生徒が集まった。

 本を読みながらもつい後ろの席に聞き耳を立ててしまう。

「なあ六本木、お前どこからきたんだっけ?」
「美岸利島ってとこ。知ってる?」

 六本木くんの返答を聞いた男子生徒は笑った。

「島ってことはやっぱ田舎? 人少ない? こっちに来た方がお店たくさんあるし、引っ越してきてよかったじゃん」

 質問攻めであるけれど、男子生徒の声音は美岸利島を嗤っている。その男子生徒は田舎を見下していたのかもしれない。

 一瞬ほど、六本木くんはどんな反応をするのかと気になった。

「あはは。やっぱ都会だよなー」

 けれど、蓋を開けてみれば杞憂に終わった。乾いた笑いとあっさりした反応。男子生徒が美岸利島を見下していることは彼にとって何事もなかったのかもしれない。


 先生がやってくる気配を感じ取って男子生徒が自席に戻っていく。
 六本木くんの周りに誰もいなくなって、それから。

「……はあ」

 ため息が聞こえた。それは私でも隣でもなく、真後ろから。
 六本木くん、疲れているのかもしれない。気になって様子を伺う。

「……あ。牟田ちゃん? どうしたの?」
「っ、な、んでも……」

 すぐに顔をそらしてしまったけれど、元気そうには見えなかった。六本木くんの表情を曇らせたのは、美岸利島の話だろうか。思いつくけれど聞くことなんてできやしない。『なんでもない』の一言さえうまく言えないような私だから。

 うまく言えないなら――手紙だ。再びノートを千切り、綴る。

『元気ないけど大丈夫?』

 うまい言葉が思いつかずあっさりとしたものになってしまった。それを折りたたみ、後ろの席に置く。

 それから数分も経たぬうちに、くしゃくしゃに丸めた紙がぽとりと落ちてきた。それは肩から転がってスカートで止まった。六本木くんからの返事だ。

『大丈夫。気づかってくれてありがと』

 またニコニコの絵文字が書いてある。私は再びペンを握り、手紙を綴る。

『私は美岸利島って素敵な場所だと思うよ』

 手紙を書いて、また返事が返ってきて。
 クラスの誰も知らない。私と六本木くんの文通が始まった。

***

 授業が終わっても、次の授業がはじまるとまた手紙のやりとりがはじまる。

『牟田ちゃんって部活入ってる?』
『吹奏楽部だよ』
『そうなんだ。ちなみに俺は野球部に入るよ!』
『前の高校でも野球部だったの?』
『うん。弱小チームだったけど、楽しかった。数名高校の野球部って強いんでしょ?』
『今年は地区大会決勝で敗退したよ。甲子園一歩手前だったから大騒ぎ』

 やりとりがしばらく続いて、そして。

『牟田ちゃんはクラスの子と喋ったりしないの?』

 その質問になんて答えればいいのか、迷った。

 本当のことを言えば――憧れる。
 こうして手紙のやりとりをしているだけで楽しいのだから、向き合って話せばもっと楽しいだろう。六本木くんだけじゃなくてクラスのみんなと、話してみたかった。

 声が出ないわけじゃない。大きな声だって出せる。でもみんなみたいに面白いことが言えない。私が語るものはすべてつまらないんじゃないかって怖くなる。
 期待外れなことを言ってしまったら。面白いことを言えなかったら。発する言葉に失礼がないか、頭の中で確かめているうちに相手は動き出す。『牟田はつまらない』『根暗女』という結論を残して。

 友達なんていなくたっていいと思っているけれど、本当は憧れるんだ。友達と話したい。クラスに馴染みたい。

『一人でだいじょうぶ』

 シャープペンシルの先。灰黒色の芯にぽたりと落ちる。それが涙だと気づいた時には、紙にじわりとしみこんでいった。一瞬にしてふやけて、乾いてもその紙はよれているだろう。
 こんな手紙、渡せるわけない。ぐしゃぐしゃと丸めてポケットに隠す。周りに気づかれぬよう、目元を拭った。



 授業が終わって休み時間。扉側が騒がしい。また男子たちが騒いでいるのかもしれないと気にとめず、かばんから文庫本を取り出した。

「牟田さん」

 声をかけてきたのは同じクラスの()(がわ)ななみさん。見ると小川さんは扉方面を指さして言った。

「吹奏楽部の連絡だって。隣のクラスの()()()さんが呼んでるよ」

 入り口にいるのは隣のクラスで同じ吹奏楽部の日都野さんだった。といってもあまり話したことはない。相手は気遣って話してくれるけれど、私がうまく答えられなくて。

「あ…………はい」

 教えてくれてありがとう、って言うことができなくて。そのうちに小川さんは自席の方へと戻ってしまった。
 それもまた、小川さんから見れば『お礼も言えない牟田さんはつまらない』となるのだろうか。ちゃんと言えばよかった。後悔と共に唇をかみしめる。

 入り口に行く。日都野さんは私を見るなり手を上げて微笑んだ。

「今日の部活はお休みだって」
「……は……い」

 ありがとうってたった五文字なのに。文字にすれば簡単なのに。声にできず、流れていく。私はいつも言えないままで。

 変わりたいのに、できない。

 日都野さんが去って、私は教室に戻る。
 ポケットに手を入れると、さっきの手紙が入っていた。ぐしゃぐしゃに丸めたその手紙をゴミ箱に捨てる。あんな涙の跡がついていたら渡せない、だからもういい。

 黒板前、男子たちが騒ぐ横を通り過ぎて自席に戻る。バスケ部や野球部の男子生徒たちが一ノ瀬くんの席に集まって、楽しそうに盛り上がっていた。

 その中に、六本木くんの姿もあった。

「牟田ちゃん?」

 声をかけられても、六本木くんの顔を見れない。こんな情けない私を、少しでも見られたくなかったから。

 自席に戻って本を読む。本を壁のように立てて読み、教室の喧噪を遮った。



 次の授業が始まってしばらくして、六本木くんからの手紙がきた。

『牟田ちゃん、どうしたの? 元気ないよ』

 彼から見ても私は落ちこんでいるように見えたのだろう。反省しながら返事を書く。

『大丈夫』
『もしかして、俺がさっき変なこと聞いたから落ちこんじゃった?』
『違うよ、大丈夫』

 手紙はぱったりと止まって、しばらく後ろの席から届くことはなかった。
 六本木くんからの手紙が来なくなると少し寂しい。授業に集中しないといけないってわかっているけれど。

 まもなく授業終了のチャイムが鳴ろうという頃。
 ぽとり、と転がってスカートに落ちる手紙。今までで一番長文の手紙だった。

『もしクラスで喋る子いないなら俺と話そう。もし牟田ちゃんがうまく喋れないなら手紙でいいよ』

 そして。

『みんなと喋りたいけど勇気が出ないなら、俺が手伝うよ。みんなと話せるように変わろう』

 変わる。
 その文章は、私の心に刺さって。
 クラスのみんなと打ち解けずに抱えた気持ちを、彼はどうして見抜いたのだろう。怖くなって六本木くんの方を覗き見る。

「あ」

 目が合った瞬間、彼はふわりと微笑んだ。
 唇は弧を描き、それに合わせて目も細まる。目元の皮膚も引っ張られるように動いて、文字通り満面の笑みがそこにあった。

「やーっとこっち見てくれた」

 授業終了のチャイムが鳴って、我に返る。教卓の方を向いてお辞儀をしても心臓が急いていた。駆け足の鼓動は、チャイムの音よりも早くて。

 先生が去って、生徒たちが動き出す。六本木くんも立ち上がり友達の席へ向かおうとしたのだろう。私の机の横を通り過ぎる時。

「また、授業中に」

 私だけに聞こえる声。はっとして見上げれば、六本木くんは唇に人差し指を当てたいわゆる『内緒』のしぐさをしていた。

 私たちだけの秘密。授業中の手紙交換。
 その後は本を読んで時間をつぶそうとしたけれど、逸る鼓動はなかなか落ち着いてくれなくて、学校生活の変化を感じ取って集中できなかった。

***

『牟田ちゃんが変われるように、クラスのみんなと馴染めるように、俺も手伝うよ。一緒に練習しよう』

 
 六本木くんがその手紙を渡してきた翌日から、練習は始まった。
 私が変わるために。その第一歩が――

「牟田ちゃん、おはよ!」

 相手の目を見て挨拶する。いきなり難題だ。
 登校して教室に入るなり、待ち構えていた六本木くんがこちらを見て声をかける。

「え、と」

 しどろもどろになって声が出ない。けれど六本木くんはニコニコと笑顔を絶やさぬまま、私が挨拶するのをじっと待っていた。

「……おはよう、ございます」

 言い終えると、六本木くんは微笑んで、それから。

「よくできました! 俺以外のクラスメイトにも言えたらいいんだけど。少しずつ練習していこう。ゆっくりでいいからさ」

 六本木くんにとっては、もどかしいのかもしれない。
 でも私にとっては大きな一歩で、『よくできました』の言葉が胸にしみこんで温かい。つまらないとか面白くないとか、そんな風に言われなかったという安心感。嬉しくて、口元が緩んでしまいそうだから俯いた。


 授業が始まるとさっそく手紙が回ってくる。先生の目を盗んでのやりとりだ。

『牟田ちゃん、もっと自信持てばいいのに』

 手紙というのは不思議なもので、言いづらいことも書けてしまう。抱えていた気持ちを少しずつ、文字に記していく。

『私が話すと、つまらないって言われるから。怖いの』
『そんな風に言うやつは無視! 悪口言うやつは無視していこう! 自信持って。大きい声出すの苦手とかある?』
『大きい声は出せると思う。話すことが怖いだけ』
『部活ではどうしてるの?』
『なるべく喋らないようにしてる。だから部活もあんまり楽しくないの』

 すると、手紙はしばらくの間を置いて。

『いいきっかけがあればいいんだけどなー』

 口が3の形になった可愛らしい顔文字つきで返事が届く。そうしてその日は終わった。

***

「それでは数名祭に向けてのグループ分けをします」

 転機はホームルームの時間にやってきた。数名祭とは今月行われる学校祭のことだ。

 どのクラスも『学年演劇』と『クラス出店』に分かれることが決まっているけれど――私はどちらでもいいと思っていた。クラス出店はコスプレ喫茶で、学年演劇はシンデレラをやるらしい。どちらを選んでも私は裏方だ。舞台に立つことはない。

 人が少ない方を選べば、クラスのみんなに迷惑をかけないはず。そう考えていた時だった。
 後ろからぐい、と手を掴まれる。そして。

「はいはーい! 六本木と牟田は、演劇やりまーっす」

 高々とあがるその手が自分のものだと認識するのに時間がかかった。
 私の手を無理矢理掴んで挙げさせた犯人は楽しそうに言う。

「これ、チャンスだよ。一緒に頑張ろう」

 六本木くんはそう言っているけれど、私は怖くてたまらない。だってクラス中が私たちを見ている。あの根暗女が自ら手をあげて演劇をやると言っているのだから。無言の圧力を感じて、きゅっと目をつむる。

「……牟田さん、いいの?」

 そんな私に声をかけたのは小川さんだった。

「六本木くんが無理矢理手を挙げさせたように見えたから……もし嫌なら、何とかするから教えてね」

 遠い席に座っている小川さんは、私のことを心配してここまで来てくれたらしい。その配慮に感謝しつつ、私は後ろをちらりと見る。

 変わろうって言ってくれた。クラスで喋る子がいなかったら、文通でもいいから話そうと言ってくれた。挨拶できた時『よくできました』と褒めてくれた。

 だから、もう少しだけ六本木くんを信じたい。

「……頑張ります」
「わかった。でも何かあったら相談してね」
「あ……あの、」

 手を強く握りしめる。
 勇気を出して。挨拶する時のように。相手の顔を見て。自信を持って。

「……ありがとう。小川さん」

 すると小川さんは驚いたらしく目を見開いて、でもふっと柔らかく微笑んだ。

「初めて名前呼んでくれた」
「……そ、その、ごめんなさ……」
「牟田さんと話せて嬉しいよ」

 私は一歩踏み出せたのだろうか。
 小川さんとの会話が終わって一息ついた時後ろから手紙が落ちてきた。

『よくできました! 俺、感動したよ! このペースで、みんなと話せるようになっていこう!』

 振り返って手紙を書いた主を見る。六本木くんは嬉しそうな顔をしてピースサインをしていた。

***

 数名祭に向けての慌ただしい日々が始まった。

 学年演劇担当になった生徒集まっての顔合わせ。台本配布。役者くじびき。生徒は、必ず一つは希望の役を選ばなきゃいけない。くじびきをして当たった生徒が演じ、外れた生徒は裏方に回る。つまるところ、役が当たるかは運であって。

「俺はさー、格好いい役がよかったんだよ。王子様とか」

 役決めや裏方作業の分担が終わって、それぞれの個人作業に入った頃。その昼休み、私は六本木くんと向かい合って、台本の担当箇所にマーカーで印をつけていた。右手には蛍光ペン。

「牟田ちゃんの希望役提出、俺が書いたじゃん? シンデレラに丸つけて」
「……私は裏方でよかったのに」

 少しずつ慣れてきて手紙でなくても六本木くんと喋れるようになってきた。とはいえ相手の顔を見て話すのは勇気がいるし、自信のなさは声量に表れてしまうから、騒がしい教室だと相手にうまく伝わらない。
 六本木くんは私のそういうのを把握しているようで、耳を澄まして聞いてくれるし、返答が来るまでじっと待っていてくれる。

「牟田ちゃん似合うと思ったんだよ。んで俺が王子様役! ってのが理想だったのにさー、はあ」

 ため息をつきながら六本木くんがマーカーを引くのは魔法使いの台詞。王子様役に丸をつけたつもりが一つずれて魔法使いになってしまったらしい。
 王子様役は私のクラスの一ノ瀬くんで、一ノ瀬くん的にはシンデレラ役が別の子になると思っていたようだ。わかりやすいほどがっかりしていて、なんだか申し訳ない。

「シンデレラ……私じゃない方が……みんな喜んだと思う、けど」

 シンデレラ役のくじびきをして当たったのは私だった。となれば当然ざわつくわけで。
 あの喋らない根暗女がどうして、と皆の視線が刺さったことを覚えている。六本木くんだけは笑顔で拍手をしていたけれど、今も私以外の人がシンデレラをやればよかったのにと思ってしまう。

「いいの! これが一歩踏み出すチャンスだから――よーし、台詞に印もつけたし、ちょっと読んでみる?」
「……自信ない」
「自信はこれから作るもの。さ、練習しよ」

 言われて台本を開く。ピンクのマーカーを引いたシンデレラの台詞は、主役ということもあって量が多い。これを覚えられるのか不安になった。

「……『おかあさま、わたし、舞踏会に行きたいの』」

 うまく声が出ない。ぼそぼそと喋るだけ。

 これじゃ期待外れかもしれない。不安から六本木くんを見上げる。

「上手だよ! 前から思ってたけど牟田ちゃん綺麗な声してるんだから、もっと自信持って大きな声で喋っていいと思う」
「……う、ん」
「じゃあ次。魔法使いと会う場面やろ。俺も台詞あるし!」

 ぱらぱらとページをめくって、魔法使いとシンデレラが出会う場面。魔法がかかってシンデレラの姿が変わるシーンだ。

「『私は魔法使い。シンデレラ、お前は舞踏会に行きたいのかい?』」
「……『はい。わたしも、舞踏会に行きたいのです』」
「『そのためにはお前が変わらなきゃいけないよ。お前が望むなら願いを叶えてやろう』」
「『わ、たしは……』」

 そこでシンデレラは『変わりたい』と願う。そして魔法使いは願いを叶えて、ドレスや馬車を用意するのだけど――変わりたい、その一言がうまく出ない。

「牟田ちゃん?」

 まるで。魔法使いは六本木くんだ。
 手紙で私とやりとりをして、変わろうよと提案してくれた心優しい魔法使い。その魔法使いは呪文を唱えて、でも私は――シンデレラになれるのだろうか。

「……大丈夫。自信持って」

 心中の不安を見抜いたように、対面の彼はふわりと笑った。

「この劇が終わったら、牟田ちゃんはもう変わってる。みんなと話せる。友達もできる」

 台本を握る手に、重なる手。それは私ではない温かさをしている。
 六本木くんの手は、私よりも少しだけ、大きい。

***

 数名祭は少しずつ迫り、それに合わせて私たちの準備も進んでいく。読み合わせから体育館ステージを借りての通し練習まで進んだ。
 六本木くんは出番の少ない魔法使い役だけど、出番が終わっても舞台袖で私が終わるのを待っていてくれた。

「次は今よりも大きな声で言ってみよう」
「うん、わかった」

 通し練習が一回終わったら、六本木くんは必ずよかったところや悪かったところを言ってくれて。

「大丈夫だよ。自信持って」

 最後は必ずその台詞が出てくる。
 その言葉は私に力を与えた。次はもう少しだけ、大きな声で。そう思わせる不思議な呪文。

 台詞は一度覚えたら変わらない。練習を繰り返すうちにうまく言えるようになっていく。

「『おかあさま、わたし、舞踏会に行きたいの』」

 体育館に響く、声。
 舞台袖を見れば六本木くんがピースサインをしてこちらを見ていた。それからノートに大きな文字を書いてこちらに向ける。

『今のバッチリ! よくできました!』

***

「牟田さん。衣装合わせするからこっちに来て」

 数名祭に向けて準備中の放課後。日都野さんが私を呼んだ。
 日都野さんは衣装係の担当だ。私は日都野さんと共に隣の教室に入って着替える。

 シンデレラということで青いドレスだった。その隣には王子様の衣装や魔法使いのローブもある。六本木くんの衣装合わせもこれから行うのだろう。

「前年の先輩たちが作った衣装だから、サイズをちょっと直すだけなんだけど――」

 衣装に袖を通す。艶々した生地、しかも水色。こんなの似合わないと思っていたけれど。

「ばっちり、似合ってるよ」

 着終えた私を見て日都野さんは満足そうに頷いていた。細かなサイズの修正も終わってあとは脱ぐだけだ。

「最初はね、シンデレラ役が牟田さんになったから心配だったけど、こんなに上手なんて知らなかったよ。私、びっくりしちゃった」

 その話をして日都野さんの顔を見た時に思い出した。
 王子様役に選ばれた一ノ瀬くんが落ちこんでいて、その理由がわからずあたふたしていた時に、六本木くんがこっそり教えてくれたのだ。

『内緒だけど。一ノ瀬は隣のクラスの日都野さんがよかったんだってさー。あいつ、日都野さんのこと好きなのかなー?』

 一ノ瀬くんは、日都野さんにシンデレラを演じてほしかった。きっと日都野さんも――

「……根暗でつまらない私がシンデレラで……ごめんなさい」

 心が沈んでいく。やっぱりやるべきじゃなかった。
 変われるわけがない。私は根暗で、つまらない子だから。

「え? どうして――」
「私で……ごめんなさい!」
「牟田さん、待って!」
 
 ドレスを脱いで、教室を出て行く。怖くて日都野さんの方を見ることはできなかった。



 通し練習中の教室に戻ると、六本木くんがこちらにやってきた。

「どうしたの? なんか暗い顔してるけど」
「……あ、わ、わたし」

 シンデレラ役をやめたい、と言えたらいいのに。
 本番は迫っているから、他の人に役を代わってもらう余裕はない。私がやらなきゃいけない。

 でも。心が沈んで、うまく前を向けない。

「急に怖くなっちゃった? 大丈夫だよ、牟田ちゃんならできるから」

 六本木くんは励ましてくれるけれど、みんなは違う。
 どうしてあんなやつが主役にって思っている。私じゃない子がシンデレラをやればよかったと嗤うのかもしれない。

 私に、ガラスの靴は似合わない。

***

 そうして数名祭当日になった。
 体育館のステージで各学年ごとに演劇が披露される。一年生は最初だ。

 シンデレラの衣装は途中で変わる。最初はボロボロに汚れたエプロンをつけた家政婦姿だ。衣装を着て、舞台袖で準備する。

「牟田ちゃん緊張してる?」

 気づくと隣に魔法使いのローブを着た六本木くんが立っていた。私は静かに頷く。

「大丈夫大丈夫。ここまでたくさん練習してきたんだからさ、自信持って行こう」
「……でも、わたしは……」

 自信を持ってと言われても前は向けなくて。俯く私の肩を六本木くんが叩く。

「俺を信じて」

 その言葉と共に演劇開始のブザーが鳴る。まもなく幕が上がる。私はステージの、指定の位置に向かった。

 いざ幕が開いて、最初に思ったことは眩しいということだった。
 体育館は真っ暗になっていて光はすべてステージに集っている。真っ暗な観客席は、前列しか生徒の顔が見えず、奥の方はただの闇。でもその闇から視線が向けられているのがわかる。
 息を吸う音、吐く音、喋る声。しんと静かになった体育館にそれは響き、その静寂と暗闇からの視線は緊張に変わって降りかかる。

「『お……かあさま……』」

 あれほど練習した台詞が、掠れた。
 声が震えて、うまく話せない。

「『わたし、舞踏会に行きたいの』」

 練習していた時よりも小さな声。私のその様子は観客席にも伝わったようで前列から「何喋ってるんだ?」「聞こえねー」などの不満の声があがった。

 早く、幕が下りてほしい。
 こんなつらい演劇、やらなければよかった。

 後悔がにじんで泣きそうになる。せめて劇が終わるまでは頑張らないと。
 そのうちに場面は進んで――そして。

「『私は魔法使い。シンデレラ、お前は舞踏会に行きたいのかい?』」

 魔法使いに扮した六本木くんがステージに出てくる。

「『はい。わたしも、舞踏会に行きたいのです』」
「『シンデレラ。お前は――』」

 そこまで言いかけて、六本木くんは言い淀む。
 まさか台詞を忘れちゃった? と不安になったけれど、すぐに六本木くんの唇が動く。けれどそれは想定外の台詞で。

「『つまらない子でも根暗でもない。大丈夫、もっと自信を持っていい』」

 台本にない台詞。はっとして見れば、六本木くんは真剣な顔をしていた。

「『周りが馬鹿にしたものを、君だけは素敵だと言ってくれた。君は自信がないというけれど、そんな君に助けられた人もいる』」

 突然のアドリブに混乱していたけれど、六本木くんが話しているものが何のことか、それだけはすぐにわかった。
 たぶん、六本木くんの故郷。美岸利島のことだ。男子生徒たちが馬鹿にしていたそれを私は『素敵だと思う』と手紙に書いたから。

 六本木くんは穏やかに目を細め、こちらに手を伸ばす。

「『変わろう。君がこれから前を向けるように』」

 私の前に立つのは六本木くんのようで、でも魔法使いだと思った。

 これはチャンスだと背中を押してくれたのも、『よくできました』と褒めてくれたのもいつも六本木くんだった。この人が来て、変わろうと立ち上がることができたんだ。

「か……変わりたい!」

 それは大きな声で、体育館にびりびりと響く。シンデレラの台詞なのか私の言葉なのか、わからなくなっていた。
 しっかりとその手を取る。魔法使いは微笑んだ。

「『変わろう。きっと舞踏会はいい場所だよ』」

 そこでいったん幕は下りて、従者やネズミ役の子たちが幕の前で小劇を披露する。その間に私はドレスに着替える。ドタバタの準備時間だ。

 慌ただしくドレスを着てステージに戻る。もうすぐ小劇が終わって幕が開く。その時、ステージから舞台袖に移動する六本木くんを見つけた。

「あの、さっきの……その……」

 その背を呼び止める。六本木くんは振り返って、それから。

「よくできま……っ、その、衣装……」

 言いかけて口ごもる。視線をこちらに向けたままじっと固まってしまった。

「……六本木くん?」
「へ? あ、いやいや……なんでもない……」

 何か失礼なことをしてしまったかと不安になったけれど、固まっていたのは数秒だけで、またいつもの笑顔に戻る。

「よくできました! そのドレス、めっちゃ似合うよ。だから自信持って!」

 魔法使いではなくいつもの六本木くんに戻って、励ましてくれる。その優しさがじわりと胸に染みて温かい。

 変わる。友達と話したり、クラスに馴染んだりできるように。
 私は六本木くんの目をじっと見て、微笑んだ。

「私、もう大丈夫。頑張ってくるね」

***

 学年演劇が終わって、控え室に戻る。一年演劇控え室に割り当てられた教室には小道具など様々な荷物が置いてあって、その中心に生徒たちが集まっていた。

「牟田さん! 劇、すっごくよかったよ。おつかれさま!」

 私が教室に入るなり、やってきたのは日都野さんだった。

「衣装合わせの時ちゃんと話せなかったけど……私、牟田さんがシンデレラ役決まって嬉しかったの。これをきっかけに、牟田さんと仲良くなれるかもしれないって思ったから」
「仲良くって……わ、私と……?」
「うん。同じ部活だし、仲良くなろう。牟田さんとたくさん話してみたかったの。友達になりたくて」

 友達。
 憧れていたものが目の前にある。

 もう制服に着替えているからシンデレラのドレスは着ていない。でも魔法が残っている気がした。

「ほらほら! こっちでお疲れ様会しよう? みんな、牟田さんのシンデレラに感動して、その話ばかりしてたんだよ。主役はこっちに座って!」

 教室にいるみんな、日都野さん、一ノ瀬くん、そして六本木くん。
 みんなの視線が私に集まっているけれど、怖くない。

「みんな、ありがとう」

 声はもう震えていなかった。



 数名祭も終わった帰り道を六本木くんと一緒に歩く。

「そういえば明日から数名高校の制服なんだよ」

 六本木くんはそう言って笑った。

「俺だけ制服違うからなんか浮いててさー、これでみんなと一緒になれる」
「美岸利高校の制服も似合っていたけど、数名高校の制服もきっと似合うよ」

 臙脂色のブレザーは六本木くんによく似合うことだろう。今までの制服が見れなくなるのは少し寂しいけど、新しい制服を着たところを早く見てみたかった。

「俺、本当は転校なんてしたくなかったんだ」

 六本木くんはぽつりと呟いた。視線は自らの学生服にある。遠い故郷を思い出しているのかもしれなかった。

「俺、美岸利島が好きだったからさー、引っ越したくなくて。案の定野球部のやつに田舎を馬鹿にされるし。田舎暮らしだって悪くないっての!」

 苛立たしげに叫んだ後六本木くんは立ち止まる。視線は私へ。どうしたのかと思いきや、六本木くんは頭を下げた。

「演劇だの挨拶だの変わろうだの、牟田ちゃんを振り回してごめん」

 六本木くんは謝っているけれど――違う。私は六本木くんの方へ歩み寄って、言った。

「謝らないで。感謝してる。六本木くんのおかげで、変わることができたから」

 変わろうと言って、私に魔法をかけてくれたのは六本木くんだ。出会えなかったら、手紙のやりとりをしていなかったら、きっと私はうまく喋れないままだった。

「でもどうして、私に『変わろう』って言ってくれたの?」
「だって、俺の好きな場所を『素敵』だって言ってくれた子を放っておきたくなかった。つまらないとか根暗とか、そんな風に言われてるの嫌じゃん? 牟田ちゃんは字も声も綺麗だし、いいところがたくさんあるのに、一部だけを見て悪く言われるの俺は許せない」

 私たちは顔をあげて、それからお互いにはにかんで笑う。歩道で二人して頭を下げ合っているなんてなんだかおかしくて。

「本当にありがとう、六本木くん」
「いやいや俺じゃなくて牟田ちゃんの頑張りでしょ! これからも友達でいようよ」
「うん……えっと、駿輔くん」

 自己紹介の時、六本木駿輔って言っていたけれど。せっかく仲良くなったのだから名前で呼びたいと思った。けれど隣を歩く六本木くんの反応は予想外なもので。

「え……な、名前、俺の……?」
「友達になったら名前で呼び合うって思ってたけど……違った?」

 その顔が赤く見えたのは夕方のせいかもしれない。六本木くんはぶんぶんと首を横に振った。

「い、いや、いいと思う、思います! あー、なんかキュンっときた……これが青春……」
「きゅん?」
「こっちの話! 気にしないで」

 そして歩き出す。数名祭が終わって普段通りの学校生活になるけれど、それが楽しみでたまらない。
 一人で本ばかり読んでいた学校生活は変わって、友達と過ごす楽しい日々がはじまる。きっと。

「来年も一緒に劇やろうね」
「いいねー。俺、来年こそ王子様役やりたい!」
「魔法使いっぽい気がするけど……」
「やだー! 俺も主役がいいー! 牟田ちゃんがヒロインで!」

 一歩踏み出して変わる世界。私に魔法をかけてくれたのは六本木くんで、この魔法はまだまだ溶けそうにない。

 ううん違う。別の魔法に変わるのかもしれない。キュンとするような青い魔法に変わるのは、もうちょっと先のお話。