私には恋愛感情が欠如している。

 この結論に至ったのは高校に入学してしばらくのこと。違和感は小学校高学年の頃から抱えていたが、なかなか認められず16歳になった。

 何事も"ある"ことより"ない"ことを証明する方が難しい。

 この言葉は私の不明瞭さを明確に表していた。

 違和感を覚えたきっかけは修学旅行で同じ部屋になった女の子たちと恋バナをしたとき。
 高学年にもなると好きな人がいたり彼氏がいたり、そんな存在はいなくとも恋に恋する子ばかりだったため、話に花が咲いた。クラスの〇〇くんがかっこいい、俳優の××のような彼氏が欲しい、少女漫画のような恋がしたいとみんなが口々にいう中、私は一人置いてきぼりになっていた。
 みんなの言葉に共感が出来ない。
 突然異世界に放り込まれたような感覚に襲われた。
 そんな私の様子に気づいた友達にいまいちピンとこないと伝えると「千早(ちはや)ちゃんはまだまだ子供なんだね~。そのうち分かるようになるよ!」と笑われた。子ども扱いされたのはムッとしたけど、友達の言った通りそのうち自然と分かるようになると思った。
 でもいつになってもそんな気配がなかったから、みんなの話についていけるように積極的に恋愛ドラマを観たり少女漫画を読んだりラブソングを聴いたりした。

 その結果、恋愛感情がどういうものなのか創作物を通して理解できたけど──何一つ共感できなかった。

 物語を読み始めれば続きが気になるし登場人物の幸せを願わずにはいられないけど、ずっとファンタジーものに触れている気がするのだ。なにもかもが非現実的。私とは無関係の世界にいる人の生活を盗み見る感覚。ただの一度も私と重ねてみることはなかったし、意図的に想像することすらできなかった。あくまでも私は傍観者であり続けた。

 残ったのは恋愛小説を読むという習慣だけ。

 周りと孤立しないように、変な目で見られないように、私の歪さを悟られないように、ただひたすら恋愛とは何なのかを脳裏に刻み込んでいく。

 だがこの"恋愛感情を学習している"様こそ私の歪さの象徴だった。

 まるで感情を知らないロボットが人間を理解しようと努力しているよう。ドラマでは大概が人間と愛を育むことでハッピーエンドを迎えるが、私の場合は恋愛感情が芽生える奇跡的な瞬間が訪れない。
 そういう意味では私はロボットよりも感受性の乏しい存在なのかもしれない。そもそも人間の三大欲求のうちの一つが欠けている時点で不良品に分類されるのかもしれない。そう考えるとたまらなくなる。

 慢性的な頭痛と睡眠不足のせいですっかり心身ともに疲れ切った私は高校受験に失敗し、二次募集があった商業高校に入学する羽目になった。
 ちょうどその時期にニュースやSNSで性的マイノリティが注目され始めた。興味本位で調べてみたところ私に当てはまるものがあり、そこでようやく自身に恋愛感情がないことを認めた。

 なんだ。私だけじゃなかったのか。

 そのことに安堵したと同時に、何かがプツリと切れた。

 私は人と関わるのをやめた。

  ◆

 恋は自分と同じ温度をもつ人とするべきだ。いくらお互いを想い合っていても熱量が違うといつかは破綻する。だからそもそも人に恋愛感情を抱けない私では物語のヒーローやヒロインのように人を幸せにすることができない。

 これらは恋愛小説や少女漫画などを通して私が悟ったことだ。

 そして人は恋愛と友情を天秤にかけた際、恋愛を選ぶ人が一定数いるということも、そこで友情を選ぼうが年を取り家庭を築けばそっちを優先するようになるということも知った。
 いくら今が充実しようと何十年もたてば一人になる。
 どうせみんな離れてしまうのなら、私は最初から一人でいい。
 そう思うのにふとした瞬間、漠然とした不安に襲われる。
 気を紛らわすために人からの告白に応えようとしたこともあったけど、結末は見えているので断り続けた。運命のいたずらか私はそこそこモテたのだ。

 一人一人の恋に終止符を打つたびにどんどん心がすり減っていく。

 私は一体何なのだろう。何も成せないくせに、人から好意をもらい、それと同じくらい傷つけている。私は私が怖い。

 無意識に単行本を持つ手に力がこもり、本が少し変形したところでハッと我に返った。途端にあたりが騒がしくなる。
 そうだ、今は昼休みだった。すっかり一人の世界に入っていた。
 時計を確認するとそろそろ5限目が始まりそうだったので本を片付けようとしたところ、とん、と机に手をつかれた。

桜庭(さくらば)さん」

 机に置かれた手から腕、顔へと視線を上げ硬直する。
 私に話しかけてきたのは清水(しみず)(かおる)。クラス、いや学年全体でカッコいいと騒がれている男子生徒だ。確かに整った顔をしていると思うけど、私にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。

「放課後、ちょっと屋上に来てくれない?」

 今日は早く帰って恋愛小説の続きを読まなければならなかった。でも孤立している私がクラスのキラキラ男子の誘いを断れるはずがなかった。



「桜庭さんって彼氏いる?」
「いない」

 条件反射で即答した。
 いきなり人を放課後屋上に呼び寄せる時点で嫌な予感しかしなかったけど、開口一番に訊かれたのが彼氏の有無。

 これはつまり⋯⋯"そういうこと"なんじゃ⋯⋯。

 今後の展開を想像しただけで、重しを吊るされたかのように心が重たくなった。ここでやらかしたらクラスの人気者を振った身の程知らずの女というレッテルを張られるだろう。想像しただけでも背筋が凍る。
 だがどう対応したら波風を立てずに済むだろうと逡巡する前に、清水薫が第二の矢を放った。

「彼女は?」
「……いない」

 まさかの質問に反応がワンテンポ遅れた。彼氏に次ぎ彼女の有無も訊いてくるとは、そういう人にも理解がある時代になってきたからかな。生憎私はどちらも一生作れないけど。
 いきなり変化球を投げてきた清水薫はというと、妙に納得した様子でへらっと笑った。

「あーやっぱり? 告白断りまくってるって噂になってたもんね~」

 お願いだからいきなり変化球を投げるのはやめてほしい。そんなこと初めて知った。でもクラスで孤立してるくせに告白を断りまくっていたら噂にもなるか……と納得はした。
 とはいえさっきから意図の分からない発言に振り回されている気がする。陽キャの人って皆こんなに唐突なことばっか言うのかな。
 怪訝な顔をしている私に気づかないのか、清水薫は一寸の迷いもなく自身を指差した。

「じゃあ俺はどう?」
「ごめんなさい」
「はは、即答! だよね、そう来るよね。だって──桜庭さんも俺と同類だもんね?」

 清水薫が意味ありげに笑みを深めた。
 怖い。美形の笑顔が狂気になるなんて知らなかった。心臓がどくどくと跳ねる。死刑宣告を待つ罪人のように彼の次の言葉を待った。
 彼の端正な唇がおもむろに開かれる。

「桜庭さんってあれでしょ? アセクシャル」

 その単語を出た途端、ひゅっと喉が鳴った。サァァと血の気が引いていく。

「なんで、」

 誰にも言ったことはないのに。それを悟られないように恋愛について本やインターネットで知識をかき集めていたのに。
 なんで一度も関わったことない彼がいとも簡単に言い当てられたのか、訳が分からない。

「んー、同類センサー的な?」

 ――え?

 一瞬耳を疑った。

「まぁ俺の場合はゲイなんだけど」

 彼の言葉はあっさりと空気に飲み込まれた。あまりに自然にカミングアウトするから、意味を理解するまでに時間がかかった。

「……そんなこと私に打ち明けてもよかったの?」
「うん。だって桜庭さんにはこんなこと話せる友達いないじゃん」
「………」

 ぐうの音も出ない。
 調子づいた清水薫はなおも続ける。

「ってことでさ、高校卒業したら同棲して収入が安定したあたりで結婚しない?」
「ごめん、ほんっっとーーーーに意味が分からない」

 これが清水薫との出会いだった。

  ◆

「今日デートだから帰り遅くなるわ」
「んー頑張って。行ってらっしゃい」

 玄関で靴を履く薫にリビングから手を振る。「デート頑張れ~」というエールを込めて。

「行ってきまーす」

 薫がガチャリと鍵をかけたところで私も身支度に取り掛かった。


 薫との衝撃的な出会いから早8年、私たちは24歳になった。高校卒業後、それぞれ別の企業に就職し社会人2年目にして同棲に踏み切った。そして私たちの関係は一応婚約者ということになっている。そう、"一応"。

 婚約者ではあるのだが、お互いに恋愛感情が一切ない。強いて言うなら共闘関係、だろうか。もちろん共通の相手は一般社会。

 一緒に暮らしてはいるが基本各々の部屋で過ごすし、自分の部屋で寝る。食事もタイミングが合ったときだけ一緒に摂る感じだ。

 初対面で求婚してきたときはやばい人だと思い即刻断ろうとしたけど、彼の事情を聞いたら突っぱねられなくなった。

 薫は小さい頃から「素敵なお嫁さんを見つけて幸せになってね」と両親に言われ育てられたらしい。だが彼が惹かれるのは男性ばかり。そこで自身がゲイであることを理解したのだが、両親にカミングアウトなんてできなかった。ある日テレビのワイドショーで性的マイノリティについて触れられていた際、彼の母が「へぇー、今ではこんなのが流行っているのね。知らなかったわぁ。でも薫は違うわよね?」と悪気なく言ってきたから。

 その言葉がどれだけ彼を傷つけただろうか。
 人伝に聞いた私でも胸が引き裂かれそうになったのだ。彼の辛さは計り知れない。
 悪意を持ったことよりも何気なく言われたことの方が時には鋭利なナイフに変貌するのだ。
 その刃は今も彼に刺さっているのか、私は聞くことができない。彼の母親の言葉は無知な一般社会を的確に表していた。

 そしてちょうどそのタイミングで告白を断りまくっている私の噂を聞き、もしかしてと思い声をかけたのだと言う。あのときは飄々(ひょうひょう)とした態度だったが、内心は藁にも縋る思いだったのだろう。
 私が言うのも変な話だけどいいチョイスだった。

 現に彼は恋人と逢瀬を重ね、私は一人を謳歌している。

 もう少し年齢が上がって結婚すれば子どもはどうするのかと両親から詮索されるようになるが、私が子どもを身ごもりにくい体質ということにして切り抜けるつもりだ。元々薫が現れなければそう嘘をついて独身を貫くつもりだったので抵抗感はなかった。

 一生をかけて周りを騙すことになるが、自身の性的指向を晒すより、こっちの方がずっと息がしやすかった。



「上手くいった」
「おめでと」

 互いにビールの入ったジョッキを握りしめ乾杯した。
 薫の恋路がうまくいったときは決まって祝杯を交わす。うまくいかなくてもお酒を片手に彼の話を聞く。
 お酒好きというのは数少ない薫との共通点なのだ。時間が合えばこうして宅飲みをしている。
 嬉々としてのろけ話をする薫はいつまでたっても子供みたいだ。そんな一面をほほえましく思う反面、泣きそうになる私がいつもいる。

 ――薫の気持ちを真に理解できないからかな。

 ズキズキと痛む胸を隠すようにグイっとビールを飲み干した。

「今度家に呼んでいい? 千早にも紹介したい」
「いいよ。日にち決まったらまた言って」

 以前、薫が私と同居していることを打ち明けたら「本当はバイセクシャルじゃないのか」と疑われ、ひどい振られ方をしたことがある。1年半付き合った恋人だった。私が彼の恋路を邪魔したのだ。それにもかかわらず薫は私に八つ当たりすることはなかった。

 清水薫は強い人だった。

 今度こそ長続きしてほしい。

 だから私の気持ちなんてどうでもいい。薫が幸せな顔をするたびに独りぼっちになっていく気がする、私の孤独感なんて。

「薫ってさ、彼女側? 彼氏側?」

 気を紛らわすためにそう口にした。

「千早がそういうの訊いてくるの珍しいね。どっちっぽい?」
「彼女」

 何気甘え上手な所があるから。

「残念。彼氏側」
「へぇ」

 確かに包容力あるもんね。私の買い忘れが多かったりドジってゴミ箱ひっくり返したりしてもちょっと馬鹿にするだけで怒らないし。

 3杯目を飲み始めたところで観ていたバラエティー番組が終わり、夜のニュースが始まった。政治家が資金を横領していた事件、人気俳優の結婚、最近の若者の流行――なんてものには微塵も興味ないが、チャンネルを変えるためにリモコンを操作するのが面倒くさくてそのまま垂れ流しにする。
 この時点でだいぶ酔いが回っていたんだと思う。だから話題が同性婚を巡る裁判に切り替わったときに、

「もし将来同性婚できるようになったらさ、私と離婚するの?」

 そんな疑問が口をついて出た。薫がジョッキを置いた音で我に返る。
 そして私が発言を取り消す前に薫が口を開いた。

「え? しないけど?」

 あっさりと答えを出す彼に面を食らった。

「何で?」

 薫は彼女のことが大切ではないのか。好きな人とは結婚して一緒になりたいのではないか。
 そうまくしたてそうになったのを唇をかんで耐える。

 私の心情を察してか、薫の声のトーンが落ち着いた。

「千早のこと好きだから。……まぁ人としてだけど」

 自分で言っておいてちょっと照れないで欲しい。
 いつもならそう突っ込むのに、言葉が喉につっかえて出てこない。

「お前は彼女でも友達でもないけど、家族なみに特別だとは思うよ。実際に婚約してるし」

 『特別』という単語を聞いた途端、私は言葉を失った。それと引き換えに鼻の頭が熱くなる。

「……あー、やっぱ今のなし。さすがにクサすぎ──え、何で泣くの」
「~~~だって」

 涙が溢れてくるんだから仕方ない。何でかなんて、私が知りたい。
 ぐしゃぐしゃの頭でなんとか言葉を組み立てる。

「私、薫のこと、恋愛対象じゃない」
「うん」
「ドキドキしないしキュンってしないし、ぽわぽわーってならない」
「知ってる」
「……でも」

 自分でもなんで急にこんな話をしたのか分からない。薫はもっと訳が分からないだろう。それでも私の話を聞いてくれる。
 そういうところが本当に――。

「好き、なんだと思う。人として」
「……そう」

 薫が静かに頷いた。
 その瞬間、心の渇きが癒えるを確かに感じた。

 私は恋愛感情を抱けない。だから私も誰も傷つけないために一人になるしかないと思っていた。

 それでも私はずっと、独りが寂しかったんだ。

 周りから浮かないように恋愛を学習したのも、漠然とした不安に襲われてたのも、薫ののろけ話を聴くたびに心が沈んだのも、全部それが根幹にあるからだった。

 薫は恋人のように涙を拭ったり頭を撫でたり抱き締めたりすることもなく、ただティッシュを差し出してきた。これで涙を拭けということか。なんとも薫らしい。

 薫がいてよかった。

 薫のおかげで私は人を好きになることができた。

 そこに恋愛感情がなかろうと、人と家族になれることを知った。

 たったそれだけで私は救われたの。

  ◇

「今日もデート?」
「うん。だから夕飯はいらないよ」
「りょーかい。じゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」

 私は今日も笑って彼を見送る。いつものように「頑張れ~」というエールを込めて。
 彼が玄関の扉を開けたとき、さわやかな風が舞い込んだ気がした。

 私たちは交わらない。

 身体も感情も嗜好も何もかも全部。

 でも、お互いがお互いの最良のパートナー。


〈了〉