◆
羅生門・あとがき
『羅生門』の改変が終わって新一が帰った後、幸之輔はすっかり冷えたコーヒーを飲みながら、差し替えられた『恩讐の彼方に』を読んでいた。
「……貴方に友達がいない理由がわかりましたよ。どうしてあんなに高圧的なのですか」
エイミーは子どもを咎める母親のような口調で、ローテーブルに苺のショートケーキを置いた。
「頂こう。……あれくらいで離れていくような人間であれば、友達になりたいとは思わない。彼にも言ったが、俺が友人として欲しいのは対等な立場の人間だ」
「ああ、そうでしたね。でも貴方は対等と言いながらも、最終的には一番にならないと気が済まないのでは?」
幸之輔は返事をせず、ケーキを口の中に放り込んだ。
「……貴方にも困ったものですね」
エイミーは深く追及してくることはせず、幸之輔の横に座った。
「さて、教科書に『羅生門』が掲載されないことによって、芥川龍之介の知名度は大きく下がるでしょう。この代償はどんなものになるのでしょうね」
「さあな。しかし、対象を不特定多数にするこのやり方では、誰にどんな変化を及ぼしたのかが非常にわかりにくいな。次からは対象を決めてから行動するか」
「そうですね。わたしも貴方の意見に賛成です」
エイミーがそう言った瞬間、彼女の体は何重にもぶれた。代償が降りてきたようだ。
「……良いタイミングで、代償が降りてきました。今回の代償は……『寿命を芥川龍之介と同じとする』だそうです。ということは、史実に基づけばわたしは三十五歳でこの世を去ることになりますね」
「と、いうことは……あと五年は生きられるということか?」
「まあ、失礼ですね。わたしはもっと若いですよ」
実年齢はどうせ訊いても答えないことを知っている幸之輔は、先程エイミーがそうしてくれたように口を閉ざした。カップに注がれた真っ黒なブラックコーヒーの表面に映る自分を見て、呟くだけだ。
「芥川の親友である菊池寛が弔辞を読んだような友情や、芥川賞を創設したような親切を、俺が君にすることは期待しないで欲しいね。君が払う代償を、基本的に俺はどうでもいいと思っているのだから」
「勿論、存じておりますよ。だからわたしは貴方を選んだのです」
幸之輔はフォークで苺を突き刺し、丁寧に口の中に運んだ。
程よい酸味を舌で味わいつつ、エイミーが満足そうに微笑むのを見た。
◆
幸之輔が家に帰るといつも、黒染めした白髪をきつく一つに縛った、五十代の女が玄関で待っている。
彼女は旭家の使用人・津田だ。毎日幸之輔を出迎える彼女は、幸之輔が生まれる前から旭家で家事全般を担当しているため、旭家とは長い関係にある。
津田は目尻の皺こそ目立つものの、その歳からは想像もできないバイタリティで仕事をこなす女で、幸之輔はもちろん、旭家の人間全般に信頼されている使用人であった。
「おかえりなさい坊ちゃん。今日はいつもより遅かったのですね」
「少し野暮用があってね。寧々はどうしている?」
「お変わりありません。お部屋に篭られております」
「そうか、わかった」
津田に鞄を預け、幸之輔は制服姿のまま三階にある寧々の部屋に向かった。
一番奥にある寧々の部屋の前に着き、ノックする。しかし返事が返ってくることはない。返ってきたことは、一度だってない。幸之輔は小さく溜息を吐いた後、「入るぞ」と一言声をかけ、静かな部屋に足を踏み入れた。
寧々というのは、幸之輔の二つ年下の妹のことだ。
幸之輔と同じ栗毛の癖毛を腰まで伸ばしている寧々の髪は、お洒落というよりは放置していると表現した方が正しいだろう。幸之輔よりも大きな瞳は長い睫毛にしっかりと守られていて、形の良い唇と美しい鼻筋を見た人が寧々をよくフランス人形のようだと例えるのも、実際にその目で彼女を見れば決して大袈裟な表現ではないよ理解するだろう。
室内は寧々好みの家財が揃えられているが、中でも彼女が特に気に入っているのは、母から譲り受けた英国製アンティークの机と椅子である。
今日もその椅子に腰掛け、机に向かって何やら書き物をしていた寧々は、幸之輔が部屋に入ると手を止めた。
「……ただいま、寧々。今日は何をしていたんだい?」
寧々は幸之輔の姿を捉え、瞬時に目を逸らした。そして無表情のまま、書きかけのノートを抽斗の中に仕舞って小さく答えた。
「……特に何もしていません。申し訳ございません、お兄様」
寧々は幸之輔に対して敬語を使う。旭家において、嫡男であり次期社長の座が約束されている幸之輔の地位は高く、分家の人間や旭グループの社員は大人であろうと幸之輔に敬語を使い、内心はともかく、幸之輔を敬う姿勢で接してくる。
しかし寧々が敬語を使いはじめたのはわりと最近のことである。それまでの寧々は子どもらしい無邪気な態度で幸之輔を慕い、幸之輔もまた慕ってくる可愛い妹を思いやる、仲のいい兄妹だったのだ。
線引きをされたその日のことを、幸之輔は今でも鮮明に思い出せる。
詳しい理由は今でもわからないが、その日は幸之輔が何かの賞を獲り、新聞に彼の名前が掲載された日だった。そのことを何気なく寧々の前で口にした際、彼女の瞳から光が消えた。以来、寧々は幸之輔との接触を避けるようになったのだ。
寧々は学校にも行かなくなり、必要最低限の用事以外は家から出なくなった。精神科医に相談した結果、ストレスが原因とのことだった。
具体的な解決方法を見つけられないまま、今日も幸之輔を筆頭に、旭家の人間は皆寧々の快方を祈っている。
「そうか、それならそれでいい。体に問題はないか?」
「特に問題ありません。お気遣いありがとうございます」
寧々は幸之輔との会話を拒否することもなく、訊かれたことは答える。だけど決して、本心で幸之輔と向き合おうとはしない。
「寧々の好きなベル・クラッゼのシュークリームを買ってきた。津田に渡しておいたから、食べてくれ。……そうだ寧々、シュークリームの中のクリームを零さずに食べる方法を、知っているかい?」
「慎重に食べることです」
「……いや、まあそうなんだが……シュークリームの上下を逆にして食べると、零れないらしいぞ」
「そうですか」
興味を示すわけでも愛想よく返事をするでもなく、寧々はいたって冷淡に答えた。そんな寧々に、幸之輔も踏み込むことはしない。
上辺だけの兄妹は今日もまた、幸之輔が一方的な愛情表現を見せるだけの、不毛なやり取りを行っている。
「……その本は面白いかい?」
幸之輔は、机の上に置いてあるハードカバーに視線をやった。寧々はしばし黙り込んだ後、静かにかぶりを振った。
「あまり、好みではありません。死人を生き返らせるなんて世の中の条理から逸脱した設定は、たとえ物語においてもナンセンスだと思います」
『注文の多い料理店』の改変で、登場人物の生死を変えてしまった幸之輔は、思わず苦笑いを浮かべた。
寧々は本の話なら幸之輔が相手でも本心を語ってくれる。そのことが嬉しくて、幸之輔はいつも寧々に本の話を振ってしまうのだった。
「そうか。ではまた、津田に新書のまとめ買いを命じておこう」
立ち上がった幸之輔を見ようとはせず、寧々は目を伏せた。
「ありがとうございます、お兄様」
羅生門・あとがき
『羅生門』の改変が終わって新一が帰った後、幸之輔はすっかり冷えたコーヒーを飲みながら、差し替えられた『恩讐の彼方に』を読んでいた。
「……貴方に友達がいない理由がわかりましたよ。どうしてあんなに高圧的なのですか」
エイミーは子どもを咎める母親のような口調で、ローテーブルに苺のショートケーキを置いた。
「頂こう。……あれくらいで離れていくような人間であれば、友達になりたいとは思わない。彼にも言ったが、俺が友人として欲しいのは対等な立場の人間だ」
「ああ、そうでしたね。でも貴方は対等と言いながらも、最終的には一番にならないと気が済まないのでは?」
幸之輔は返事をせず、ケーキを口の中に放り込んだ。
「……貴方にも困ったものですね」
エイミーは深く追及してくることはせず、幸之輔の横に座った。
「さて、教科書に『羅生門』が掲載されないことによって、芥川龍之介の知名度は大きく下がるでしょう。この代償はどんなものになるのでしょうね」
「さあな。しかし、対象を不特定多数にするこのやり方では、誰にどんな変化を及ぼしたのかが非常にわかりにくいな。次からは対象を決めてから行動するか」
「そうですね。わたしも貴方の意見に賛成です」
エイミーがそう言った瞬間、彼女の体は何重にもぶれた。代償が降りてきたようだ。
「……良いタイミングで、代償が降りてきました。今回の代償は……『寿命を芥川龍之介と同じとする』だそうです。ということは、史実に基づけばわたしは三十五歳でこの世を去ることになりますね」
「と、いうことは……あと五年は生きられるということか?」
「まあ、失礼ですね。わたしはもっと若いですよ」
実年齢はどうせ訊いても答えないことを知っている幸之輔は、先程エイミーがそうしてくれたように口を閉ざした。カップに注がれた真っ黒なブラックコーヒーの表面に映る自分を見て、呟くだけだ。
「芥川の親友である菊池寛が弔辞を読んだような友情や、芥川賞を創設したような親切を、俺が君にすることは期待しないで欲しいね。君が払う代償を、基本的に俺はどうでもいいと思っているのだから」
「勿論、存じておりますよ。だからわたしは貴方を選んだのです」
幸之輔はフォークで苺を突き刺し、丁寧に口の中に運んだ。
程よい酸味を舌で味わいつつ、エイミーが満足そうに微笑むのを見た。
◆
幸之輔が家に帰るといつも、黒染めした白髪をきつく一つに縛った、五十代の女が玄関で待っている。
彼女は旭家の使用人・津田だ。毎日幸之輔を出迎える彼女は、幸之輔が生まれる前から旭家で家事全般を担当しているため、旭家とは長い関係にある。
津田は目尻の皺こそ目立つものの、その歳からは想像もできないバイタリティで仕事をこなす女で、幸之輔はもちろん、旭家の人間全般に信頼されている使用人であった。
「おかえりなさい坊ちゃん。今日はいつもより遅かったのですね」
「少し野暮用があってね。寧々はどうしている?」
「お変わりありません。お部屋に篭られております」
「そうか、わかった」
津田に鞄を預け、幸之輔は制服姿のまま三階にある寧々の部屋に向かった。
一番奥にある寧々の部屋の前に着き、ノックする。しかし返事が返ってくることはない。返ってきたことは、一度だってない。幸之輔は小さく溜息を吐いた後、「入るぞ」と一言声をかけ、静かな部屋に足を踏み入れた。
寧々というのは、幸之輔の二つ年下の妹のことだ。
幸之輔と同じ栗毛の癖毛を腰まで伸ばしている寧々の髪は、お洒落というよりは放置していると表現した方が正しいだろう。幸之輔よりも大きな瞳は長い睫毛にしっかりと守られていて、形の良い唇と美しい鼻筋を見た人が寧々をよくフランス人形のようだと例えるのも、実際にその目で彼女を見れば決して大袈裟な表現ではないよ理解するだろう。
室内は寧々好みの家財が揃えられているが、中でも彼女が特に気に入っているのは、母から譲り受けた英国製アンティークの机と椅子である。
今日もその椅子に腰掛け、机に向かって何やら書き物をしていた寧々は、幸之輔が部屋に入ると手を止めた。
「……ただいま、寧々。今日は何をしていたんだい?」
寧々は幸之輔の姿を捉え、瞬時に目を逸らした。そして無表情のまま、書きかけのノートを抽斗の中に仕舞って小さく答えた。
「……特に何もしていません。申し訳ございません、お兄様」
寧々は幸之輔に対して敬語を使う。旭家において、嫡男であり次期社長の座が約束されている幸之輔の地位は高く、分家の人間や旭グループの社員は大人であろうと幸之輔に敬語を使い、内心はともかく、幸之輔を敬う姿勢で接してくる。
しかし寧々が敬語を使いはじめたのはわりと最近のことである。それまでの寧々は子どもらしい無邪気な態度で幸之輔を慕い、幸之輔もまた慕ってくる可愛い妹を思いやる、仲のいい兄妹だったのだ。
線引きをされたその日のことを、幸之輔は今でも鮮明に思い出せる。
詳しい理由は今でもわからないが、その日は幸之輔が何かの賞を獲り、新聞に彼の名前が掲載された日だった。そのことを何気なく寧々の前で口にした際、彼女の瞳から光が消えた。以来、寧々は幸之輔との接触を避けるようになったのだ。
寧々は学校にも行かなくなり、必要最低限の用事以外は家から出なくなった。精神科医に相談した結果、ストレスが原因とのことだった。
具体的な解決方法を見つけられないまま、今日も幸之輔を筆頭に、旭家の人間は皆寧々の快方を祈っている。
「そうか、それならそれでいい。体に問題はないか?」
「特に問題ありません。お気遣いありがとうございます」
寧々は幸之輔との会話を拒否することもなく、訊かれたことは答える。だけど決して、本心で幸之輔と向き合おうとはしない。
「寧々の好きなベル・クラッゼのシュークリームを買ってきた。津田に渡しておいたから、食べてくれ。……そうだ寧々、シュークリームの中のクリームを零さずに食べる方法を、知っているかい?」
「慎重に食べることです」
「……いや、まあそうなんだが……シュークリームの上下を逆にして食べると、零れないらしいぞ」
「そうですか」
興味を示すわけでも愛想よく返事をするでもなく、寧々はいたって冷淡に答えた。そんな寧々に、幸之輔も踏み込むことはしない。
上辺だけの兄妹は今日もまた、幸之輔が一方的な愛情表現を見せるだけの、不毛なやり取りを行っている。
「……その本は面白いかい?」
幸之輔は、机の上に置いてあるハードカバーに視線をやった。寧々はしばし黙り込んだ後、静かにかぶりを振った。
「あまり、好みではありません。死人を生き返らせるなんて世の中の条理から逸脱した設定は、たとえ物語においてもナンセンスだと思います」
『注文の多い料理店』の改変で、登場人物の生死を変えてしまった幸之輔は、思わず苦笑いを浮かべた。
寧々は本の話なら幸之輔が相手でも本心を語ってくれる。そのことが嬉しくて、幸之輔はいつも寧々に本の話を振ってしまうのだった。
「そうか。ではまた、津田に新書のまとめ買いを命じておこう」
立ち上がった幸之輔を見ようとはせず、寧々は目を伏せた。
「ありがとうございます、お兄様」