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魔法の万年筆・あとがき
旭家が所有している、都心の一等地にある一棟の建物。
幸之輔はエイミーとの再会と離別の舞台を、都会のネオンが煌びやかに輝く様子を見渡せるこのビルの屋上に決めた。
最初はエイミーのことを物語改変の代償を引き受ける要員としか思っていなかったから、彼女のことを深く知ろうとはしてこなかった。
だからどうして、彼女にこれほど固執しているのか自分でも理解ができなかった。
ただこれはもう、理屈の類ではないことを今の幸之輔は知っていた。
もう一度会いたいと思った。それだけで十分だった。
幸之輔は胸ポケットから万年筆を取り出し、冷たいコンクリートの上に置いた。
そして、誰もいない屋上の星空の下で静かに問いかけた。
「……やっと君の正体に気がついたよ、エイミー。君は寧々が書いた小説『魔法の万年筆』の主人公、メグミだ。君はこの物語の結末を変えたくて、わざわざ次元を越えてここまでやってきたのだろう?」
幸之輔が呟くと、物語を改変するときと同じ光が万年筆から溢れ出し、あっという間に幸之輔を内包する空間を作り上げた。
『魔法の万年筆』のストーリーが映像となって流れている空間の中で、幸之輔は人影が歩いてくるのを見た。
目を瞑っていても、誰なのかがわかる。
近づいてくる人影は、やがて明確な輪郭を持って彼女の姿を作り上げた。
艶やかな黒髪に、灰色の瞳。エイミーの姿は何もかもが別れの前と同じだったが、対峙するふたりの間には決定的な違いがあった。
幸之輔はいつものように冷静な瞳で彼女を見つめ、エイミーは穏やかな微笑を浮かべながら、幸之輔を見つめている。
「……そんなに、わたしに会いたかったのですか?」
久々に耳にするエイミーの声に胸が詰まった。
「センスの悪い万年筆だけ置いていかれても、困るからな」
照れ臭さから視線を逸らし、エイミーの足元に置いてある月明かりに照らされた万年筆を指差した。
「……なぜ、『エイミー』だったんだ?」
「単純なことです。偽名を考えた際、メグミを漢字にするなら『恵美』だと想像しましたが、そのまま『エミ』と読むのもセンスがないかと思い、エイミーにしました」
「……いや、どちらにせよセンスはない。そもそも、偽名を名乗る必要はなかったのではないか?」
「そういうことを言っているから、わたしの正体に気づくのも遅れるのですよ。遊び心が足りないと言われたことはありませんか?」
「……話を戻す。君から万年筆を託された日にも訊いた質問を、もう一度繰り返そう。未来を変える手段――万年筆は、元々君の手の中にあった。物語の結末を変えたいという目的がはっきりとしているなら、どうして自分の手でやろうとしなかった?」
幸之輔の右横には、姉を失った後悔で崩れ落ちるメグミの映像が流れている。エイミーはそれを見ながら、足元の万年筆を拾い上げた。
「……わたしは、怖かったのです。わたしがわたしの物語を改変するならば、あまりにもわたしに都合よく改変してしまうでしょう。それは物語の破綻を意味します。だからこそ、貴方のように恐ろしく冷静で、残酷で、客観的に物事を見ることが可能な人に、書き換えてほしかったのです」
「……作者である寧々に接触しなかったのは、それが理由か?」
「理由の一つです。そもそも、ほとんどご自宅から出て来ない寧々様と自然に知り合いになるのは、難しかったのです」
「では、俺と君が組んだのは偶然ではなく、必然だったということか」
「珍しいこともあるものです。貴方の言い回しにしては……嫌いじゃないですよ」
幸之輔はゆっくりと、エイミーに近づいた。
「しかし俺は、君の望みを百パーセント叶えたわけではない。『魔法の万年筆』の改変は俺ではなく、寧々自身が行った。君にとって、満足のいく結末になったのかはわからない」
「……ということは、寧々様は今も物語を書くことを続けていらっしゃるのですね?」
「ああ。楽しそうに書いている」
エイミーは感慨深げに目を閉じて、静かな声で呟いた。
「……わたしにとっては、それだけで十分です。わたしの望みは叶えられました」
満足そうに微笑むエイミーを見た幸之輔は、その表情を見られただけでも自分自身を肯定されたような充実感を得た。
「……寧々が書き直した『魔法の万年筆』は今日の夕方完成したが、まだ改変はされていない」
エイミーが手に持っている万年筆は、よく見るとキャップがきちんと閉まっていない。
物語の改変は、キャップが閉じられたときに開始される。
幸之輔を見上げたエイミーの灰色の瞳には、覚悟と離別の情が映し出されているように思われた。
「おそらく、わたしはわたしでなくなるでしょう」
「だろうな。だが、物語が変わるということはそういうことだろう?」
「はい。ですが、最後に一つだけ我儘を申し上げてもいいでしょうか?」
「言ってみろ」
エイミーは一度目を瞑り、胸に手をあてた。
「どうか貴方だけは……今のわたしのことを、覚えていてください」
エイミーの単純で切実な願いに、幸之輔は誠意を持って答えた。
「俺は君を、絶対に忘れない。この瞼に、心に、君を鮮明に焼きつけておくことを約束しよう」
「……そんな女心を掴む台詞、貴方らしくないですよ」
そう言ってエイミーは柔らかな笑みを零し、幸之輔の胸を締め付けた。
「物語の中から出てきた少女だなんて、そんな非現実的な話、普段の俺なら絶対に信じない。だが……」
幸之輔はそっとエイミーの頬に触れた。エイミーは怪訝な顔をするでもなく、されるがままじっと幸之輔の瞳を見つめている。
「今なら君が現れた理由もわかる。救われたのは君だけじゃない。俺もだったんだよ」
自分の傲慢さと人が持つ弱さを知り、ほんの少しだけでも他人に優しくすることを覚えた。
万年筆で誰かの人生に影響を与えてきたと思っていた幸之輔は、いつの間にか自分も変わっていたのだった。
幸之輔は万年筆を持つエイミーの手に、自らの手を重ねた。
「……君が笑っていられる物語になっていることを、祈っている」
そう口にして万年筆のキャップを指先で押すと、エイミーの背後から幸之輔の知らない映像が大量に飛び出してきた。
映像内の少女は瓦礫の中でも笑っていて、周りの人間と手を取り合い、前へ歩いていく姿が印象的だった。
その映像は今までのように改変する一部の映像に上書きされるわけではなく、『魔法の万年筆』という物語が作り出した、すべての映像に上書きされていった。
ふたりを取り囲む空間が、作り変えられていく。
目まぐるしく変貌する背景と共に、エイミーの体は神々しく光り、変化していった。
彼女の長く美しかった黒髪は肩上のショートボブに変わり、どこかミステリアスだった雰囲気は消え、明るく活発な少女を思わせる容貌に変わっていた。
寧々の心の変化が彼女の書く物語の変化を手伝い、彼女が投影した主人公の姿形、そして性格まで変えたのだろう。
幸之輔は光に包まれながら変化していくエイミーの姿を、瞳に焼きつけるように見ていた。
彼女の最後の願いを叶えるために、視神経、大脳、細胞を駆使して、彼女を記憶に刻み付けることを意識した。
言葉は蛇足になる。
感情を露わにすることは、彼女の再出発への枷になる。
幸之輔は何も言わないまま、彼女と物語の変化を見届けたのだった。
光が収束された今、目の前にいる少女はもう、幸之輔が知っているエイミーではなかった。
少女は活発そうな猫目で幸之輔を見上げるようにして、はつらつとした笑顔で言った。
「――幸之輔、本当にありがとう!」
その言葉を最後に、ふたりのいた空間から『魔法の万年筆』の映像は消え、エイミーは幸之輔の前から姿を消した。
現実に戻ってきた幸之輔はひとり、星空を見上げて小さく息を吐いた。
彼女を連れ去った光が、雪のように幸之輔に降り注ぐ。
暖かな光の一粒を手のひらで握り締めた幸之輔は、彼女の前では一度も言えなかった感謝の言葉を、初めて口にしたのだった。
「……ありがとう、エイミー」
魔法の万年筆・あとがき
旭家が所有している、都心の一等地にある一棟の建物。
幸之輔はエイミーとの再会と離別の舞台を、都会のネオンが煌びやかに輝く様子を見渡せるこのビルの屋上に決めた。
最初はエイミーのことを物語改変の代償を引き受ける要員としか思っていなかったから、彼女のことを深く知ろうとはしてこなかった。
だからどうして、彼女にこれほど固執しているのか自分でも理解ができなかった。
ただこれはもう、理屈の類ではないことを今の幸之輔は知っていた。
もう一度会いたいと思った。それだけで十分だった。
幸之輔は胸ポケットから万年筆を取り出し、冷たいコンクリートの上に置いた。
そして、誰もいない屋上の星空の下で静かに問いかけた。
「……やっと君の正体に気がついたよ、エイミー。君は寧々が書いた小説『魔法の万年筆』の主人公、メグミだ。君はこの物語の結末を変えたくて、わざわざ次元を越えてここまでやってきたのだろう?」
幸之輔が呟くと、物語を改変するときと同じ光が万年筆から溢れ出し、あっという間に幸之輔を内包する空間を作り上げた。
『魔法の万年筆』のストーリーが映像となって流れている空間の中で、幸之輔は人影が歩いてくるのを見た。
目を瞑っていても、誰なのかがわかる。
近づいてくる人影は、やがて明確な輪郭を持って彼女の姿を作り上げた。
艶やかな黒髪に、灰色の瞳。エイミーの姿は何もかもが別れの前と同じだったが、対峙するふたりの間には決定的な違いがあった。
幸之輔はいつものように冷静な瞳で彼女を見つめ、エイミーは穏やかな微笑を浮かべながら、幸之輔を見つめている。
「……そんなに、わたしに会いたかったのですか?」
久々に耳にするエイミーの声に胸が詰まった。
「センスの悪い万年筆だけ置いていかれても、困るからな」
照れ臭さから視線を逸らし、エイミーの足元に置いてある月明かりに照らされた万年筆を指差した。
「……なぜ、『エイミー』だったんだ?」
「単純なことです。偽名を考えた際、メグミを漢字にするなら『恵美』だと想像しましたが、そのまま『エミ』と読むのもセンスがないかと思い、エイミーにしました」
「……いや、どちらにせよセンスはない。そもそも、偽名を名乗る必要はなかったのではないか?」
「そういうことを言っているから、わたしの正体に気づくのも遅れるのですよ。遊び心が足りないと言われたことはありませんか?」
「……話を戻す。君から万年筆を託された日にも訊いた質問を、もう一度繰り返そう。未来を変える手段――万年筆は、元々君の手の中にあった。物語の結末を変えたいという目的がはっきりとしているなら、どうして自分の手でやろうとしなかった?」
幸之輔の右横には、姉を失った後悔で崩れ落ちるメグミの映像が流れている。エイミーはそれを見ながら、足元の万年筆を拾い上げた。
「……わたしは、怖かったのです。わたしがわたしの物語を改変するならば、あまりにもわたしに都合よく改変してしまうでしょう。それは物語の破綻を意味します。だからこそ、貴方のように恐ろしく冷静で、残酷で、客観的に物事を見ることが可能な人に、書き換えてほしかったのです」
「……作者である寧々に接触しなかったのは、それが理由か?」
「理由の一つです。そもそも、ほとんどご自宅から出て来ない寧々様と自然に知り合いになるのは、難しかったのです」
「では、俺と君が組んだのは偶然ではなく、必然だったということか」
「珍しいこともあるものです。貴方の言い回しにしては……嫌いじゃないですよ」
幸之輔はゆっくりと、エイミーに近づいた。
「しかし俺は、君の望みを百パーセント叶えたわけではない。『魔法の万年筆』の改変は俺ではなく、寧々自身が行った。君にとって、満足のいく結末になったのかはわからない」
「……ということは、寧々様は今も物語を書くことを続けていらっしゃるのですね?」
「ああ。楽しそうに書いている」
エイミーは感慨深げに目を閉じて、静かな声で呟いた。
「……わたしにとっては、それだけで十分です。わたしの望みは叶えられました」
満足そうに微笑むエイミーを見た幸之輔は、その表情を見られただけでも自分自身を肯定されたような充実感を得た。
「……寧々が書き直した『魔法の万年筆』は今日の夕方完成したが、まだ改変はされていない」
エイミーが手に持っている万年筆は、よく見るとキャップがきちんと閉まっていない。
物語の改変は、キャップが閉じられたときに開始される。
幸之輔を見上げたエイミーの灰色の瞳には、覚悟と離別の情が映し出されているように思われた。
「おそらく、わたしはわたしでなくなるでしょう」
「だろうな。だが、物語が変わるということはそういうことだろう?」
「はい。ですが、最後に一つだけ我儘を申し上げてもいいでしょうか?」
「言ってみろ」
エイミーは一度目を瞑り、胸に手をあてた。
「どうか貴方だけは……今のわたしのことを、覚えていてください」
エイミーの単純で切実な願いに、幸之輔は誠意を持って答えた。
「俺は君を、絶対に忘れない。この瞼に、心に、君を鮮明に焼きつけておくことを約束しよう」
「……そんな女心を掴む台詞、貴方らしくないですよ」
そう言ってエイミーは柔らかな笑みを零し、幸之輔の胸を締め付けた。
「物語の中から出てきた少女だなんて、そんな非現実的な話、普段の俺なら絶対に信じない。だが……」
幸之輔はそっとエイミーの頬に触れた。エイミーは怪訝な顔をするでもなく、されるがままじっと幸之輔の瞳を見つめている。
「今なら君が現れた理由もわかる。救われたのは君だけじゃない。俺もだったんだよ」
自分の傲慢さと人が持つ弱さを知り、ほんの少しだけでも他人に優しくすることを覚えた。
万年筆で誰かの人生に影響を与えてきたと思っていた幸之輔は、いつの間にか自分も変わっていたのだった。
幸之輔は万年筆を持つエイミーの手に、自らの手を重ねた。
「……君が笑っていられる物語になっていることを、祈っている」
そう口にして万年筆のキャップを指先で押すと、エイミーの背後から幸之輔の知らない映像が大量に飛び出してきた。
映像内の少女は瓦礫の中でも笑っていて、周りの人間と手を取り合い、前へ歩いていく姿が印象的だった。
その映像は今までのように改変する一部の映像に上書きされるわけではなく、『魔法の万年筆』という物語が作り出した、すべての映像に上書きされていった。
ふたりを取り囲む空間が、作り変えられていく。
目まぐるしく変貌する背景と共に、エイミーの体は神々しく光り、変化していった。
彼女の長く美しかった黒髪は肩上のショートボブに変わり、どこかミステリアスだった雰囲気は消え、明るく活発な少女を思わせる容貌に変わっていた。
寧々の心の変化が彼女の書く物語の変化を手伝い、彼女が投影した主人公の姿形、そして性格まで変えたのだろう。
幸之輔は光に包まれながら変化していくエイミーの姿を、瞳に焼きつけるように見ていた。
彼女の最後の願いを叶えるために、視神経、大脳、細胞を駆使して、彼女を記憶に刻み付けることを意識した。
言葉は蛇足になる。
感情を露わにすることは、彼女の再出発への枷になる。
幸之輔は何も言わないまま、彼女と物語の変化を見届けたのだった。
光が収束された今、目の前にいる少女はもう、幸之輔が知っているエイミーではなかった。
少女は活発そうな猫目で幸之輔を見上げるようにして、はつらつとした笑顔で言った。
「――幸之輔、本当にありがとう!」
その言葉を最後に、ふたりのいた空間から『魔法の万年筆』の映像は消え、エイミーは幸之輔の前から姿を消した。
現実に戻ってきた幸之輔はひとり、星空を見上げて小さく息を吐いた。
彼女を連れ去った光が、雪のように幸之輔に降り注ぐ。
暖かな光の一粒を手のひらで握り締めた幸之輔は、彼女の前では一度も言えなかった感謝の言葉を、初めて口にしたのだった。
「……ありがとう、エイミー」