◇
退院してきた寧々は、相変わらず幸之輔との接触を拒んだ。
今や寧々の部屋に入室出来るのは唯一、使用人の津田だけとなっていた。信頼を受けている津田は今日も、食事を持って寧々の部屋の扉を叩いた。
「お嬢様、津田です。夕食をお持ちしました」
「……入って」
寧々の細い声を確認してから、津田は扉を開けた――隣に、ひとりの男を連れて。
「お兄様……どうしてここに……」
「津田に一枚噛んで貰った。俺が命令したんだ。彼女を責めるのは筋違いだぞ」
津田は寧々に向かって腰を九十度に折り、その場を去って行った。
幸之輔と寧々はしばらく沈黙を続けたが、寧々は兄の目を見ようとしなかった。
「……お前に、謝りたいことがある」
幸之輔の言葉に寧々は顔を上げ、驚愕を隠し切れない表情を見せた。
それもそのはずだ。幸之輔が謝るなんて、今まで一度もなかったことなのだ。
「……これを読ませて貰った」
『魔法の万年筆』が書かれたノートを見せると、寧々は目を丸くした。
「俺が、旭寧々の可能性を掻き消すようにして生きてきたことを……許してほしい。すまなかった」
幸之輔は深く頭を下げた。目を閉じれば今でも、寧々が引きこもるきっかけになったあの日の表情が思い出せる。
今なら、あの表情の意味もわかる。あれは、寧々が幸之輔に勝るものはないのだと何もかもを諦め、将来への光を失った瞬間だったのだ。
「俺は旭家の跡取りである以上、何もかもが一番でなければいけないと考えていたし、お前の誇りである兄でいなければとも思っていた。だから学業も運動も習い事も、読んだ漫画の数ですら、俺は寧々より上回っている必要があると考えていた。だから俺は……俺が心掛けてきたことで、お前の向上心や将来への希望を奪っていることに、気がつかなかったんだ。お前は俺を憎んでいるだろうが……どうか、許してくれないか?」
人に対して謝るという行為は、屈辱的なことだと思ってきた。だが実際には、許してもらえなかったことを想像したときの恐怖の方が勝ることを知った。
寧々はしばらく何も言わなかった。この時間が幸之輔には、永遠のように長く感じられた。
「……自分が一番優れていると言い切る、その強気な発言が自惚れではない……というのが、お兄様の恐ろしいところですね」
顔を上げた幸之輔は、寧々が少しだけ口元を緩ませたのを見た。
幸之輔は寧々が嫌味を口にするのを初めて聞いたが、今の言い回しで寧々がエイミーの作者であることを確信した。
「驚きました。以前までのお兄様なら、自分に非があるなんて考えもしないで生きてこられたでしょう? それがお兄様の強さでもあり……苦手なところでもありました」
「お前のことを世界で一番大切にしている自信があったのに、俺はお前の苦しみに何一つ気がつかなかった、情けない話だ」
自嘲気味に幸之輔が口にすると、寧々の表情は途端に影を帯びた。
「……情けないのはわたしの方です。わかっていたのです。お兄様より秀でたものが何もない事実こそあれ、お兄様を怨むのは筋違いだということは。……だけど、わたしは弱かった。お兄様を憎まずには、プライドを保っていられなかった。だからわたしは自作の小説を書き、物語に自分を重ね、都合の良いように物語を作り上げた。そのくせ、物語の中でお兄様を消した罪悪感に耐えられなかった。……笑いますか? 現実でお兄様を超えられないわたしが、物語の中で貴方の存在を消してしまう弱さを」
「……笑わないさ。フィクションの世界とは大抵、現実を忘れて理想を楽しむものだ。俺に罪悪感を抱いているならば、それはお前の優しさ以外に理由はない」
幸之輔の言葉を聞いた寧々は、引きこもるようになってから初めて、自分から幸之輔に近づいた。
「一度だけ、言わせてください……お兄様の、馬鹿」
寧々の潤んだ瞳と柔らかい微笑みを見たとき、身内贔屓ではなく、寧々は世界一の美少女であることを幸之輔は再確認した。
「こうして寧々の笑った顔が見られるなら、馬鹿にされるのも悪くないな」
「……お兄様、やはり少し変わりましたね。何かあったのですか?」
「ああ。お前の作り出したメグミというキャラクターに、教えられたことがあってね」
幸之輔はそう言って寧々の頭を撫でたが、彼女はもう幸之輔の手を振り払おうとはしなかった。
「だから寧々。もう一度、メグミが主人公の物語を書いてくれないか? お前の書く物語が読みたいんだ」
一度は寧々が手放したノートを、もう一度彼女に差し出した。しかし寧々は戸惑いの色を顔に浮かべて、受け取ってはくれなかった。
「……嫌か?」
「……わたしの書いた物語を読んでお兄様が喜んでくれたのは、まぐれです。もう一度わたしが、お兄様を満足させられるものが書けるとは……とても思えません」
「どんな話でもいい。どんな結末でもいい。登場人物の性格が変わっていても構わない。頼む、俺とメグミを、もう一度会わせてくれ」
架空の人物に必死になる幸之輔の言葉を、寧々はどう受け止めただろうか。俯いた寧々からは心情を読み取ることはできなかった。
幸之輔は決して強要せずに、寧々の返事を待った。
「……わかりました。時間はかかるかもしれませんが……必ず書き上げると、約束します」
しばし逡巡した後、寧々はノートを受け取った。滅多に見せない幸之輔の熱意が、彼女の心を動かしたようだった。
「ありがとう。心から礼を言う」
「自信はありませんが……お力になれれば幸いです」
「寧々はもっと、自分に自信を持つべきだ。お前は世界で一番美しい、俺の妹なのだから」
「……前から言おうと思っていましたが、そういう言葉を口にするのは恥ずかしいので止めてください。困ります」
言葉こそ辛辣であったものの、寧々と普通に会話をしていることが嬉しかった。
「ところで寧々。紙を一枚くれないか?」
寧々がノートの最後のページを一枚破って幸之輔に手渡すと、幸之輔は胸ポケットから一本のペンを取り出した。
幸之輔が取り出したのは万年筆ではない。あくまで普通の、シャープペンシルだ。
「俺も一つ物語を書いてみようと思うのだが、書き方が全くわからなくてね。寧々、教えてくれるかい?」
寧々はゆっくりと瞬きをして、少しだけ悔しそうな顔を見せた。
「……お兄様が物書きをはじめたら、あっという間に世の中に名を轟かす小説家になるでしょうね。先にあんなことを言いましたけれど、わたしの唯一の趣味であり、夢としているものすら奪われることを考えると……やはりどうしても、わたしが未熟ゆえ……胸に靄がかかってしまいます」
「何を言う。そんな心配は懸念にも程がある」
幸之輔は頭を掻き、自嘲気味に笑った。
「どうやら俺は、人の心の機微なんてものをまるでわかっていないようなんだ。それは寧々が身をもって実感しているだろう? そんな俺が、不特定多数の一般人に受け入れられる物語を書くことができると思うのか?」
「あ……」
寧々は意表を突かれたとでも言わんばかりに、目を見開いた。
「……彼女と出会った俺が物語に関わろうとしたのは、寧々の考え方を変えられるような、人に影響を与える物語を作りたいという意図があったからだ」
エイミーと契約を結んだのは、読書量の多い寧々に間接的に接触し、引きこもりを脱するための力になりたかったためだ。
唐突な意味不明の告白に、寧々は小首を傾げて幸之輔を見ていた。
「だが、今は違う。俺は寧々を笑わせられる物語が一つ書ければ、十分なのだと気がついた。だから、お前は何が好きで、何を嫌い、どんな物語を望むのか、たくさん話して教えてほしい。俺はこの知識を総動員して、お前のために一冊の物語を捧げようと思う」
「わたしのための物語、ですか……?」
幸之輔は深く頷いた。寧々はその言葉を抱き締めるようにそっと胸に手を当てて、
「……わたしに都合の良い、わたし好みの物語ですね? ……ではまず、主人公は兄のいる女の子にしていただけますか?」
ほんの少しの恥じらいと、からかいの意味を含めて。
それは本当に可愛い、妹の明るい笑顔だった。
退院してきた寧々は、相変わらず幸之輔との接触を拒んだ。
今や寧々の部屋に入室出来るのは唯一、使用人の津田だけとなっていた。信頼を受けている津田は今日も、食事を持って寧々の部屋の扉を叩いた。
「お嬢様、津田です。夕食をお持ちしました」
「……入って」
寧々の細い声を確認してから、津田は扉を開けた――隣に、ひとりの男を連れて。
「お兄様……どうしてここに……」
「津田に一枚噛んで貰った。俺が命令したんだ。彼女を責めるのは筋違いだぞ」
津田は寧々に向かって腰を九十度に折り、その場を去って行った。
幸之輔と寧々はしばらく沈黙を続けたが、寧々は兄の目を見ようとしなかった。
「……お前に、謝りたいことがある」
幸之輔の言葉に寧々は顔を上げ、驚愕を隠し切れない表情を見せた。
それもそのはずだ。幸之輔が謝るなんて、今まで一度もなかったことなのだ。
「……これを読ませて貰った」
『魔法の万年筆』が書かれたノートを見せると、寧々は目を丸くした。
「俺が、旭寧々の可能性を掻き消すようにして生きてきたことを……許してほしい。すまなかった」
幸之輔は深く頭を下げた。目を閉じれば今でも、寧々が引きこもるきっかけになったあの日の表情が思い出せる。
今なら、あの表情の意味もわかる。あれは、寧々が幸之輔に勝るものはないのだと何もかもを諦め、将来への光を失った瞬間だったのだ。
「俺は旭家の跡取りである以上、何もかもが一番でなければいけないと考えていたし、お前の誇りである兄でいなければとも思っていた。だから学業も運動も習い事も、読んだ漫画の数ですら、俺は寧々より上回っている必要があると考えていた。だから俺は……俺が心掛けてきたことで、お前の向上心や将来への希望を奪っていることに、気がつかなかったんだ。お前は俺を憎んでいるだろうが……どうか、許してくれないか?」
人に対して謝るという行為は、屈辱的なことだと思ってきた。だが実際には、許してもらえなかったことを想像したときの恐怖の方が勝ることを知った。
寧々はしばらく何も言わなかった。この時間が幸之輔には、永遠のように長く感じられた。
「……自分が一番優れていると言い切る、その強気な発言が自惚れではない……というのが、お兄様の恐ろしいところですね」
顔を上げた幸之輔は、寧々が少しだけ口元を緩ませたのを見た。
幸之輔は寧々が嫌味を口にするのを初めて聞いたが、今の言い回しで寧々がエイミーの作者であることを確信した。
「驚きました。以前までのお兄様なら、自分に非があるなんて考えもしないで生きてこられたでしょう? それがお兄様の強さでもあり……苦手なところでもありました」
「お前のことを世界で一番大切にしている自信があったのに、俺はお前の苦しみに何一つ気がつかなかった、情けない話だ」
自嘲気味に幸之輔が口にすると、寧々の表情は途端に影を帯びた。
「……情けないのはわたしの方です。わかっていたのです。お兄様より秀でたものが何もない事実こそあれ、お兄様を怨むのは筋違いだということは。……だけど、わたしは弱かった。お兄様を憎まずには、プライドを保っていられなかった。だからわたしは自作の小説を書き、物語に自分を重ね、都合の良いように物語を作り上げた。そのくせ、物語の中でお兄様を消した罪悪感に耐えられなかった。……笑いますか? 現実でお兄様を超えられないわたしが、物語の中で貴方の存在を消してしまう弱さを」
「……笑わないさ。フィクションの世界とは大抵、現実を忘れて理想を楽しむものだ。俺に罪悪感を抱いているならば、それはお前の優しさ以外に理由はない」
幸之輔の言葉を聞いた寧々は、引きこもるようになってから初めて、自分から幸之輔に近づいた。
「一度だけ、言わせてください……お兄様の、馬鹿」
寧々の潤んだ瞳と柔らかい微笑みを見たとき、身内贔屓ではなく、寧々は世界一の美少女であることを幸之輔は再確認した。
「こうして寧々の笑った顔が見られるなら、馬鹿にされるのも悪くないな」
「……お兄様、やはり少し変わりましたね。何かあったのですか?」
「ああ。お前の作り出したメグミというキャラクターに、教えられたことがあってね」
幸之輔はそう言って寧々の頭を撫でたが、彼女はもう幸之輔の手を振り払おうとはしなかった。
「だから寧々。もう一度、メグミが主人公の物語を書いてくれないか? お前の書く物語が読みたいんだ」
一度は寧々が手放したノートを、もう一度彼女に差し出した。しかし寧々は戸惑いの色を顔に浮かべて、受け取ってはくれなかった。
「……嫌か?」
「……わたしの書いた物語を読んでお兄様が喜んでくれたのは、まぐれです。もう一度わたしが、お兄様を満足させられるものが書けるとは……とても思えません」
「どんな話でもいい。どんな結末でもいい。登場人物の性格が変わっていても構わない。頼む、俺とメグミを、もう一度会わせてくれ」
架空の人物に必死になる幸之輔の言葉を、寧々はどう受け止めただろうか。俯いた寧々からは心情を読み取ることはできなかった。
幸之輔は決して強要せずに、寧々の返事を待った。
「……わかりました。時間はかかるかもしれませんが……必ず書き上げると、約束します」
しばし逡巡した後、寧々はノートを受け取った。滅多に見せない幸之輔の熱意が、彼女の心を動かしたようだった。
「ありがとう。心から礼を言う」
「自信はありませんが……お力になれれば幸いです」
「寧々はもっと、自分に自信を持つべきだ。お前は世界で一番美しい、俺の妹なのだから」
「……前から言おうと思っていましたが、そういう言葉を口にするのは恥ずかしいので止めてください。困ります」
言葉こそ辛辣であったものの、寧々と普通に会話をしていることが嬉しかった。
「ところで寧々。紙を一枚くれないか?」
寧々がノートの最後のページを一枚破って幸之輔に手渡すと、幸之輔は胸ポケットから一本のペンを取り出した。
幸之輔が取り出したのは万年筆ではない。あくまで普通の、シャープペンシルだ。
「俺も一つ物語を書いてみようと思うのだが、書き方が全くわからなくてね。寧々、教えてくれるかい?」
寧々はゆっくりと瞬きをして、少しだけ悔しそうな顔を見せた。
「……お兄様が物書きをはじめたら、あっという間に世の中に名を轟かす小説家になるでしょうね。先にあんなことを言いましたけれど、わたしの唯一の趣味であり、夢としているものすら奪われることを考えると……やはりどうしても、わたしが未熟ゆえ……胸に靄がかかってしまいます」
「何を言う。そんな心配は懸念にも程がある」
幸之輔は頭を掻き、自嘲気味に笑った。
「どうやら俺は、人の心の機微なんてものをまるでわかっていないようなんだ。それは寧々が身をもって実感しているだろう? そんな俺が、不特定多数の一般人に受け入れられる物語を書くことができると思うのか?」
「あ……」
寧々は意表を突かれたとでも言わんばかりに、目を見開いた。
「……彼女と出会った俺が物語に関わろうとしたのは、寧々の考え方を変えられるような、人に影響を与える物語を作りたいという意図があったからだ」
エイミーと契約を結んだのは、読書量の多い寧々に間接的に接触し、引きこもりを脱するための力になりたかったためだ。
唐突な意味不明の告白に、寧々は小首を傾げて幸之輔を見ていた。
「だが、今は違う。俺は寧々を笑わせられる物語が一つ書ければ、十分なのだと気がついた。だから、お前は何が好きで、何を嫌い、どんな物語を望むのか、たくさん話して教えてほしい。俺はこの知識を総動員して、お前のために一冊の物語を捧げようと思う」
「わたしのための物語、ですか……?」
幸之輔は深く頷いた。寧々はその言葉を抱き締めるようにそっと胸に手を当てて、
「……わたしに都合の良い、わたし好みの物語ですね? ……ではまず、主人公は兄のいる女の子にしていただけますか?」
ほんの少しの恥じらいと、からかいの意味を含めて。
それは本当に可愛い、妹の明るい笑顔だった。