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 飯田鉄鋼の社長との会食を終えた幸之輔は、クラウンの後部座席に座りながらノートパソコンを叩いていた。

「飯田社長は魚料理を好むと言っていた。次に会食するならば『銀の庭』を予約しておくように」

「かしこまりました、幸之輔様。今日もさぞお疲れでしょう。少し休まれては? 差し出がましいようですが、ここ数日の幸之輔様の業務量は、学生の範疇を超えていらっしゃるかと存じます」

 運転手兼使用人の男が、バックミラー越しに幸之輔を見て労いの言葉をかけた。日頃から疲れを顔に出さないよう気をつけてはいるのだが、さすがに一週間連続で遅くまで仕事をしているためか、隠しきれなかったようだ。

 寧々の拒絶を受けて以来、少しでも時間があれば暗然としてしまい、自分が自分でなくなるような恐怖から、幸之輔は一分一秒も無駄のないよう予定を入れるようにしていた。

 ここ数日は特に忙しかったため、疲れ目のせいか液晶が霞んで見える。書類作成は後回しにして、ここは素直に運転手の忠告に従うことにした。

「では少し休むことにする。だが、俺宛に電話が来たら起こしてくれて構わない」

 ノートパソコンを閉じ、なんの気なしに窓の外を見る。都内有数の繁華街を走る車の中からは、夜にもかかわらず大勢の人々が街を歩いていた。

 彼らを見ながら目を瞑ろうとした瞬間、着物姿の女が視界に入った。

 胸にざわつきを覚えて振り返ると、彼女の姿はすでに小さくなっていた。

「車を止めろ!」

 考えるより先に口にしていた。運転手は驚いたようだったが、幸之輔の命令は絶対である。車を左側に寄せ、ハザードランプを点滅させて駐車した。

「近くのコインパーキングに車を停めて、少し待っていろ。すぐ戻る」

 そう言って幸之輔は弾かれたように車から飛び降り、彼女を見かけた場所まで走った。しかしここは人の流れが多い交差点だ。当然、彼女の姿も雑踏の中に消えていた。

 幸之輔はもう一度足を動かし、彼女が進んだと考えられる方向を中心に探して回った。ネオンがあるといっても、太陽はとっくに沈んでいる。目が疲れているせいもあり、視界が悪くて仕方がない。

 さらに、大都会という名にふさわしい人口密度が幸之輔の邪魔をする。この人ごみの中で一瞬だけ見かけたひとりの女を見つけ出すことは、容易ではなかった。

 彼女を探し回る幸之輔の胸に、一つの疑問が生じる。

 なぜ俺は、こんなことをしている?

 幸之輔は自問自答した。確率も、効率も悪く、そこに意義はない。幸之輔が生産性のないことに時間をさくなど、通常なら考えられないことだった。

 己の気持ちに理解が追いつかないまま、足を動かし続けた。

 冬空の下で走り回って、軽く汗をかき始めた頃。奇跡か運命か、ついに幸之輔は見失った後ろ姿を発見した。

 彼女に近づいていくにつれ、胸が高鳴っていく。手の届く距離までたどり着くと、

「エイミー!」

 幸之輔は思わず彼女の手を取り、声をかけた。

 しかし振り向いた彼女は、

「……ひ、人違いだと思いますが……」

 困惑の表情を浮かべつつ、幸之輔に見とれている様子で答えた。

 その顔も、その声も。

 幸之輔が期待していた彼女のものとは、まるで違っていた。

「……すみません、失礼いたしました」

 落胆を女性に悟られないようにして、人違いを謝った。よく見れば年だってエイミーより断然上に見える。着物の女性というだけで反応した自分が、ひどく滑稽に思えた。

「いえ、気にしていませんよ。早く彼女さんと会えるといいですね」

 女性は穏やかな声色で、見当違いなことを口にした。

「……彼女? いや、違いますよ。そんな関係ではありません」

「違うのですか? それは大変失礼しました。思いつめた表情をしていらしたから、てっきりあなたの大切な人なのかと……」

 女性の発言は幸之輔にとって到底理解が及ばないものだったが、顔に出すのは無礼だと思い、最後まで丁寧に接して女性と別れた。そろそろ戻らねばと思っているタイミングで、運転手から幸之輔の身を案じる電話がかかってきた。

「下手に動くとすれ違いになる。俺が行くから、お前は待機していろ」

 そう指示を出し、幸之輔は来た道を戻っていった。幸之輔が歩いていると、いつものようにすれ違う人々の視線を感じた。普段なら気にならないはずの不躾な視線が、今日はやけに不愉快に感じられた。

 らしくない行動をしてしまったからだろうか、気が立っているようだ。早く車に戻ろうと歩を速めると、前方に人が避けて歩く場所があった。

 不思議に思いつつ、さっさとその場を通り過ぎようとした幸之輔は、その原因を視認して思わず足を止めた。

 そこには、車に轢かれた子猫の死骸があった。様相から判断するに、死後それほど時間は経っていないだろう。

 見てしまった以上、このまま放置しておくのも気分が悪い。幸之輔は子猫の死骸を抱き上げ、近くの小さな公園まで行き、埋めてやった。

「来世では事故になど遭わないよう、気をつけて生きるんだな」

 手についた土を払って立ち去ろうとすると、

 ――子猫を冷たいコンクリートの上からここまで運んで埋めてあげたことは、貴方にしては褒められる行動ですが……もう少し優しい言葉をかけられないものですか? 動物に対しての接し方からも、性格の悪さが露呈していますよ。

 幸之輔は立ち上がって振り向いたが、誰もいない。

 もう惑わされない。これは空耳だ。わかっていたことなのに、今隣に彼女がいないことに強い違和感を覚えて眉根を揉んだ。

 疲れているだけだ。俺は絶対に、胸によぎった気持ちを認めない。自分に言い訳するように言い聞かせ、運転手と合流するために踵を返した。

 走ったときにかいた汗が冷えてきて、冬の北風を余計に寒く感じる。風邪を引いてしまっては、隙間なく埋めたスケジュールに支障が出てしまう。早く帰って風呂に入り、体を温めて寝なくては。

 そんなことを考えながらふとベンチを見ると、若い男女がふたりで肩を寄せ合って仲睦まじくお喋りをしていた。体調管理もできない奴は愚かだと思っている幸之輔は、何を好き好んでこんな寒空の下で逢瀬し、愛を語る必要があるのか甚だ疑問に思った。

 だが同時に、己の行動にも疑問を持った。

 公園のベンチを見ただけで――いや、公園に足を踏み入れた瞬間から、無意識のうちに彼女の姿を探していた自分に気づいてしまったのだ。

 幸之輔は自嘲した。考えないようにしていたが、やはり寧々のことが堪えているのだろうか。どうやら心のどこかで、彼女の存在を求めているようだ。

「……もしここに君がいたなら、今の俺を見て何を言うだろうか」

 きっと穏やかに微笑みながら、幸之輔の癪に触るような暴言を吐くのだろう。

 それなのに、どうして俺は――

「……いや、俺の疲れが溜まっているだけだ」

 幸之輔は胸に生まれつつあった気持ちを頑なに認めず、何もなかったかのように公園を出ていった。

 そして運転手と合流したときにはもう、いつもの冷静で冷徹な旭幸之輔として振舞ったのだった。

          ◇

 幸之輔と寧々が一切の接触をしなくなって、月日が流れた。

 ある日、幸之輔が夕食を摂っている最中に津田によって告げられた報告は、フォークを持つ彼の手をとめた。

「……寧々が、倒れただと……!?」

「はい……坊ちゃんには言わないでほしいと、お嬢様からは口止めされていたのですが……坊ちゃんの気持ちを考えると、黙っているなんて……私にはできませんでした」

「……いつだ? 原因は?」

「今日の正午過ぎです。昼食を運びにお部屋に伺った際、立ち上がったお嬢様はそのまま倒れられました。すぐに病院へ搬送し、医師のお話を聞いてまいりました。原因は、過度なストレスによる不眠らしいです。大事をとって、三日間入院することになりました」

 ストレス。寧々が引きこもりになった原因でもある、精神の負担。

 病原体が体に存在するわけではないその診断結果は、これまでも幸之輔を長く悩ませ続けてきたのだが、ここに来てまた幸之輔を苦しめる原因となって襲いかかった。

「坊ちゃん、これを……」

 津田が持ってきたのは、一冊のノートだった。

「これはなんだ?」

「お嬢様の机の上に置いてあったものです。おそらく日記だと推測されることから、医師が精神状態を見るために内容を把握したいと言っていますが、使用人のわたしが勝手に中身を覗くのは無礼になりますので……内容をご確認いただけますか?」

「構わないが、日記ならば寧々の承諾を得るのが先ではないか?」

「……あの、わたしがこのノートを医師に見せていいかお嬢様に訊いたとき、お嬢様はもう必要ないから、誰にも見せずに捨ててほしいと仰いました。……そのときの様子が、明らかにおかしかったので、心配で」

 津田は目を伏せ、心から心配そうに呟いた。彼女の寧々を思う気持ちが本物であることを、幸之輔は疑っていない。

「……確かに、受け取ったぞ。すぐに確認する」

 立ち上がり部屋に戻ろうとした幸之輔に、津田は頭を下げた。

「お嬢様は難しい年頃です。偉大すぎる兄を敬い、憎む一方で、弱気な旭幸之輔は見たくないと思う矛盾も抱えていらっしゃいます」

「……憎むだと? ……寧々のストレスの原因は、俺だと言いたいのか?」

「……いいえ。ただ、わたしももう年ゆえ……口を滑らせました。忘れてください」

 津田はわざとらしく恭しい礼をして、幸之輔に白髪混じりの頭頂部を見せた。



 自室に戻った幸之輔はソファーに腰掛けながら、津田から受け取った寧々のノートを開いた。

 そこには寧々の日々の活動記録などなく、代わりに架空の登場人物たちの物語が記載されていた。

「これは……創作小説か……?」

 幸之輔は一枚ずつページを捲っていった。