◆
タクシーを使って帰宅した幸之輔を、津田が出迎えた。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん」
「なんだ、まだ起きていたのか。休んでいてもいいと連絡したはずだが」
「坊ちゃんとお嬢様の世話をすることが、わたしの仕事であり生きがいですから。それに、直接お渡ししたいものもありましたので」
津田は一枚の封筒を幸之輔に手渡した。
「よく日焼けした女の子がいらして、これを坊ちゃんに渡しておいてほしいと頼まれました。ただのお礼の手紙だけど学校で渡すと人の目があるから、と仰ってましてね、まるで何かに言い訳するかのようでしたよ」
含んだ笑みを浮かべる津田を睨んでから封筒に目を落とすと、差出人の欄には『小川陽路』と記載があった。
「確かに受け取った。……それにしても津田、楽しそうだな」
「それはもう。坊ちゃんが人気者だと、わたしは嬉しいのですよ。女性に好かれる性質はお父様譲りですかねえ。……それでこの子、坊ちゃんとはどういう関係ですか? 家まで来る度胸のある女の子は、滅多にいませんからねえ、相当坊ちゃんに……」
津田は使用人としての心がけは大変殊勝ではあるのだが、付き合いが長い分、遠慮がないのが困りものだ。
「うるさいぞ。それより、寧々はまだ起きているな?」
「ええ。先程お飲み物を運んだ際には、読み物に耽っていらっしゃるようでした」
今日中に寧々と話したかった幸之輔は津田の返事に安堵し、自室に戻るより先に寧々の部屋に向かった。
「ただいま。遅くなってすまない。今日は何かあったか?」
椅子に座って本を読んでいた寧々は、ゆっくりと本を閉じた。
「いいえ、特にございません……申し訳ございません」
「今日、早速三島先生に会って来た」
寧々は顔を上げて、幸之輔の瞳を見据えた。
「……先生の抱えていらっしゃる問題は、解決できましたか?」
寧々から幸之輔に質問をしたのは、寧々が引きこもるようになってから初めてのことだ。
「ああ、彼はもう迷うことはない。安心しろ」
「そうですか……それなら良かったです。お忙しいところ迅速にご対応をいただき、ありがとうございました。……あ」
頭を下げた寧々の視線が、幸之輔が手に持っていた封筒に移った。
「ああ、これは寧々に渡すものではなく、俺が津田から預かったものだ」
「あ、いえ……差出人が小川さんだったので、驚きまして」
「寧々は小川陽路を知っているのか?」
「ええ、と言ってもわたしが一方的にですが……。彼女は中学三年生の都大会で優勝している、陸上界では有名な選手ですから」
「……ああ、そうか。お前は昔、陸上部だったな」
寧々は引きこもるようになるまでは、体を動かすことが好きな少女だった。
中学へ進学した寧々は陸上部へ入ったが、学業をはじめ茶道に華道、ピアノなどの習い事と並行して続けることは難しく、また、家同士での付き合いも次第に増えて放課後に拘束されることも多くなってきたため、部活を辞めざるを得なくなったのだ。
「寧々は今でも、陸上をやりたいと思っているのか?」
「いいえ。今はもう未練はございません」
「……何かやりたいことはないのか?」
寧々の担当医である山田先生曰く、もし寧々にやりたいことがあるなら、快方への大きな一歩になるとのことだ。
「……ないといえば、嘘になります。ですがまだ、口に出すほどの勇気も覚悟も足りていません」
寧々は少し目を泳がせて、小さく呟いた。寧々の明確な意思こそ確認できなかったものの、「まだ」という言葉に幸之輔は可能性を感じた。
寧々は以前より確実に、少しずつではあるが胸中を見せるようになってきた気がする。
「そうか。お前が自分から話してくれる日を、待っている」
頷いた寧々の目元がほんの少し緩んでいるように見えたのは、錯覚ではないはずだ。寧々の心が快方に向かっているのであれば、これほど嬉しいことはない。
寧々の力になれることがあればなんでもしてやりたいと思ったものの、具体的にどうすればいいのかはわからなかった。そこで、同性かつ常にフラットな立場を主張し、辛辣な意見を言うのにも歯に衣着せぬエイミーならば、何か参考になる意見が聞けるかもしれないと考えた。
幸之輔にとって相談するという行為は不慣れであるし、弱みを見せるようで気が引けるが、愛する寧々のためなら苦にはならない。
次にエイミーに会ったら聞いてみようと決意した。
しかし翌日も、その次の日も、エイミーの姿を見ることはなかった。
エイミーは携帯電話を持っていない。物語の改変をする際はいつだって幸之輔の近くにいたエイミーに、幸之輔は何の疑問も抱かなかった。常に人の目を集める幸之輔だからこそ、近くにいる他人の存在に麻痺していたのかもしれない。
だから彼女が普段どこで何をしているのか、幸之輔は気にしたこともなかったのだが、エイミーと出会って以来こんなに顔を見ない日が続くのは初めてだった。
はじめはこんな日もあるのかと気に留めなかった幸之輔だが、さすがに一週間も続けば多少は気にかかった。
幸之輔は学校帰りに、エイミーのマンションに寄ってみることにした。
渡されていた合鍵でオートロックを解除しようとしたが開かず、不思議に思いつつもインターホンで呼び出してみると、
「……どちら様でしょうか?」
エイミーではない女性の声が返ってきた。
「……恐縮ですが、ここはエイミーさんのお宅ではないのでしょうか?」
幸之輔は極めて冷静に訊いてみた。テレビ付インターホンから見る幸之輔の外見と、彼が努めて出した柔らかな口調に少しは警戒を解いてくれたのか、女性は先程よりも穏やかな声で答えてくれた。
「エイミーさん、ですか……? 我が家には心当たりのないお名前ですね」
「……そうですか。もし差し支えなければ、奥様はいつ頃このマンションに越してきたのか、教えていただけますか?」
「ええと……もう二年以上前になりますね……おそらく、お部屋をお間違いかと思いますよ」
「……お時間を取らせてしまい、申し訳ございませんでした。失礼いたします」
女性に謝罪し、その場を離れた。マンションを出る前にエイミーの部屋のポストを確認してみると、そこにはごくありふれた苗字が記載されていた。
なぜか、エイミーの痕跡が消えている。存在自体、なかったことになっている。
この状況を推理してみた幸之輔は、ある一つの可能性に至った。
『風立ちぬ』を改変した際、幸之輔はエイミーに降りた代償を確認していないが、もし主人公と節子を心中させたその代償が、エイミーの命を奪うことだったとしたら?
『注文の多い料理店』でも青年ふたりが殺される結末に改変したが、代償が『猫の標的にされやすい』という軽いものだったため油断していた、幸之輔の完全な落ち度である。
いくらエイミーに気にするなと言われていたとしても、人の命を奪ったのであれば、幸之輔の責任は重大だ。
今までの幸之輔であれば、冷ややかに目の前の事実だけを見て、彼女はこうなることも覚悟の上で改変を託したのだろうと納得し、すぐに忘れることができただろう。
しかし春先からずっと近くで、憎まれ口を叩き叩かれてきた人間が突然いなくなったことで、幸之輔は初めて心に穴が空いたような気分を経験した。
突然現れ、非現実的な願いを幸之輔に託した謎の女、エイミー。
正体も本当の目的も何もわからないまま、彼女はさよならも言わずに、跡形もなく消えてしまった。
「……これだけ残ったのは、俺がまだ君の願いを叶えていないからか?」
エイミーから貰った万年筆だけが、幸之輔の胸ポケットの中で存在を主張していた。
タクシーを使って帰宅した幸之輔を、津田が出迎えた。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん」
「なんだ、まだ起きていたのか。休んでいてもいいと連絡したはずだが」
「坊ちゃんとお嬢様の世話をすることが、わたしの仕事であり生きがいですから。それに、直接お渡ししたいものもありましたので」
津田は一枚の封筒を幸之輔に手渡した。
「よく日焼けした女の子がいらして、これを坊ちゃんに渡しておいてほしいと頼まれました。ただのお礼の手紙だけど学校で渡すと人の目があるから、と仰ってましてね、まるで何かに言い訳するかのようでしたよ」
含んだ笑みを浮かべる津田を睨んでから封筒に目を落とすと、差出人の欄には『小川陽路』と記載があった。
「確かに受け取った。……それにしても津田、楽しそうだな」
「それはもう。坊ちゃんが人気者だと、わたしは嬉しいのですよ。女性に好かれる性質はお父様譲りですかねえ。……それでこの子、坊ちゃんとはどういう関係ですか? 家まで来る度胸のある女の子は、滅多にいませんからねえ、相当坊ちゃんに……」
津田は使用人としての心がけは大変殊勝ではあるのだが、付き合いが長い分、遠慮がないのが困りものだ。
「うるさいぞ。それより、寧々はまだ起きているな?」
「ええ。先程お飲み物を運んだ際には、読み物に耽っていらっしゃるようでした」
今日中に寧々と話したかった幸之輔は津田の返事に安堵し、自室に戻るより先に寧々の部屋に向かった。
「ただいま。遅くなってすまない。今日は何かあったか?」
椅子に座って本を読んでいた寧々は、ゆっくりと本を閉じた。
「いいえ、特にございません……申し訳ございません」
「今日、早速三島先生に会って来た」
寧々は顔を上げて、幸之輔の瞳を見据えた。
「……先生の抱えていらっしゃる問題は、解決できましたか?」
寧々から幸之輔に質問をしたのは、寧々が引きこもるようになってから初めてのことだ。
「ああ、彼はもう迷うことはない。安心しろ」
「そうですか……それなら良かったです。お忙しいところ迅速にご対応をいただき、ありがとうございました。……あ」
頭を下げた寧々の視線が、幸之輔が手に持っていた封筒に移った。
「ああ、これは寧々に渡すものではなく、俺が津田から預かったものだ」
「あ、いえ……差出人が小川さんだったので、驚きまして」
「寧々は小川陽路を知っているのか?」
「ええ、と言ってもわたしが一方的にですが……。彼女は中学三年生の都大会で優勝している、陸上界では有名な選手ですから」
「……ああ、そうか。お前は昔、陸上部だったな」
寧々は引きこもるようになるまでは、体を動かすことが好きな少女だった。
中学へ進学した寧々は陸上部へ入ったが、学業をはじめ茶道に華道、ピアノなどの習い事と並行して続けることは難しく、また、家同士での付き合いも次第に増えて放課後に拘束されることも多くなってきたため、部活を辞めざるを得なくなったのだ。
「寧々は今でも、陸上をやりたいと思っているのか?」
「いいえ。今はもう未練はございません」
「……何かやりたいことはないのか?」
寧々の担当医である山田先生曰く、もし寧々にやりたいことがあるなら、快方への大きな一歩になるとのことだ。
「……ないといえば、嘘になります。ですがまだ、口に出すほどの勇気も覚悟も足りていません」
寧々は少し目を泳がせて、小さく呟いた。寧々の明確な意思こそ確認できなかったものの、「まだ」という言葉に幸之輔は可能性を感じた。
寧々は以前より確実に、少しずつではあるが胸中を見せるようになってきた気がする。
「そうか。お前が自分から話してくれる日を、待っている」
頷いた寧々の目元がほんの少し緩んでいるように見えたのは、錯覚ではないはずだ。寧々の心が快方に向かっているのであれば、これほど嬉しいことはない。
寧々の力になれることがあればなんでもしてやりたいと思ったものの、具体的にどうすればいいのかはわからなかった。そこで、同性かつ常にフラットな立場を主張し、辛辣な意見を言うのにも歯に衣着せぬエイミーならば、何か参考になる意見が聞けるかもしれないと考えた。
幸之輔にとって相談するという行為は不慣れであるし、弱みを見せるようで気が引けるが、愛する寧々のためなら苦にはならない。
次にエイミーに会ったら聞いてみようと決意した。
しかし翌日も、その次の日も、エイミーの姿を見ることはなかった。
エイミーは携帯電話を持っていない。物語の改変をする際はいつだって幸之輔の近くにいたエイミーに、幸之輔は何の疑問も抱かなかった。常に人の目を集める幸之輔だからこそ、近くにいる他人の存在に麻痺していたのかもしれない。
だから彼女が普段どこで何をしているのか、幸之輔は気にしたこともなかったのだが、エイミーと出会って以来こんなに顔を見ない日が続くのは初めてだった。
はじめはこんな日もあるのかと気に留めなかった幸之輔だが、さすがに一週間も続けば多少は気にかかった。
幸之輔は学校帰りに、エイミーのマンションに寄ってみることにした。
渡されていた合鍵でオートロックを解除しようとしたが開かず、不思議に思いつつもインターホンで呼び出してみると、
「……どちら様でしょうか?」
エイミーではない女性の声が返ってきた。
「……恐縮ですが、ここはエイミーさんのお宅ではないのでしょうか?」
幸之輔は極めて冷静に訊いてみた。テレビ付インターホンから見る幸之輔の外見と、彼が努めて出した柔らかな口調に少しは警戒を解いてくれたのか、女性は先程よりも穏やかな声で答えてくれた。
「エイミーさん、ですか……? 我が家には心当たりのないお名前ですね」
「……そうですか。もし差し支えなければ、奥様はいつ頃このマンションに越してきたのか、教えていただけますか?」
「ええと……もう二年以上前になりますね……おそらく、お部屋をお間違いかと思いますよ」
「……お時間を取らせてしまい、申し訳ございませんでした。失礼いたします」
女性に謝罪し、その場を離れた。マンションを出る前にエイミーの部屋のポストを確認してみると、そこにはごくありふれた苗字が記載されていた。
なぜか、エイミーの痕跡が消えている。存在自体、なかったことになっている。
この状況を推理してみた幸之輔は、ある一つの可能性に至った。
『風立ちぬ』を改変した際、幸之輔はエイミーに降りた代償を確認していないが、もし主人公と節子を心中させたその代償が、エイミーの命を奪うことだったとしたら?
『注文の多い料理店』でも青年ふたりが殺される結末に改変したが、代償が『猫の標的にされやすい』という軽いものだったため油断していた、幸之輔の完全な落ち度である。
いくらエイミーに気にするなと言われていたとしても、人の命を奪ったのであれば、幸之輔の責任は重大だ。
今までの幸之輔であれば、冷ややかに目の前の事実だけを見て、彼女はこうなることも覚悟の上で改変を託したのだろうと納得し、すぐに忘れることができただろう。
しかし春先からずっと近くで、憎まれ口を叩き叩かれてきた人間が突然いなくなったことで、幸之輔は初めて心に穴が空いたような気分を経験した。
突然現れ、非現実的な願いを幸之輔に託した謎の女、エイミー。
正体も本当の目的も何もわからないまま、彼女はさよならも言わずに、跡形もなく消えてしまった。
「……これだけ残ったのは、俺がまだ君の願いを叶えていないからか?」
エイミーから貰った万年筆だけが、幸之輔の胸ポケットの中で存在を主張していた。