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「これ、返す。ありがとう」

 三日後の放課後、浅木くんのクラスに顔を覗かせると、ちょうど帰り支度をしているところで、声をかけた。

「もう読んだんだ、速いね」

 浅木くんは感心しながら、本を受け取る。

「土日挟んだから」
「さすが、図書室に入り浸ってるだけある」

 浅木くんが私のことを覚えていることが意外だった。

 そんなに頻繁に行っていただろうかと思いながら、私は浅木くんが本をカバンに入れるところを見守る。

「どうだった?」

 何気ない質問に、私はすぐには答えられなかった。

 妙な間を作ってしまったことで、浅木くんは不思議そうに見上げる。
 けれど、気付いたらしい。

「相馬さん、今からヒマ?」

 立ち上がりながら提案され、私は頷いた。

「少し、一緒に帰ろうか。僕、電車通学だから、駅に向かっていい?」
「え、うん……」

 そう言って教室を出る浅木くんの背中を追う。

 私のことなんて忘れているんじゃないかと錯覚してしまうようなスピードで、浅木くんは私の前を歩いていく。

 廊下、昇降口、校門。
 私の目に人は映っているのに、その声はどこか遠くで聞こえている感覚だ。

 目の前にいる浅木くんに、全意識が集中していく。

 なんだか、親を見つけた雛鳥にでもなった気分。

「答えは見つかった?」

 どこまで歩くんだろうと思ったちょうどそのとき、浅木くんは少し振り向いて言った。

 気付けば、周りに同じ学校の生徒はいなくなっていた。

 私は早歩きをして、浅木くんとの距離を縮める。

「……無性愛者」

 浅木くんに聞こえたか不安になるような声量だったけど、浅木くんは「そっか」と軽く相槌を打った。

 無性愛者(アセクシャル)

 恋愛感情も性的感情も抱かない。
 その感情よりも友情を強く抱くから、ときどき相手との意識的距離感を間違える。

 私の恋愛観は、それに近かった。

 ただ、あの物語で、無性愛者は他人の恋愛シーンにまで嫌悪感を抱くなんて、どこにも書いていなかった。

 これは私だけなのだろうか。

 そう悩んで、たくさん考えた。

 そしてたどり着いたのは、自分をその立場に重ねていたから、という理由。

 物語の世界でしか触れてこなかった恋人関係というものは、私にとってはファンタジーの世界。
 でもそれが親友を通して、現実の世界にやってきた。

 次は、私だ。

 無意識にそう思ったんだろう。
 だから“キモチワルイ”なんて言葉が出てきてしまった。

 どこまでも普通の枠に当てはまらない私は、なんなのだろう。

「……まあ、本当にそうなのか、わからないけどね」

 考えを巡らせていると、自分を見失ってしまいそうで、適当に取り繕った。

 今の仮説は筋が通っているのに、まだ否定しようとするなんて。

 そんな私を、心の中で嘲笑う。

「それならそれで、いいんじゃない? 人との付き合い方に正解なんてないだろうし。ただ自分が納得できる形が見つけられたなら、十分でしょ」

 唐突に、浅木くんが同い年の男子には見えなくなった。

「浅木くん……人生何周目?」

 私のファンタジー発言に、浅木くんは乾いた笑い声をこぼした。

「僕も答えがほしくて、似たような本を片っ端から読んだだけだよ」
「答え……」

 浅木くんの悩み。
 ずっと気になっていて、触れられなかったこと。

 今なら、教えてくれるだろうか。

 そんな考えが過ぎったけれど、やっぱり聞く勇気なんてなかった。

「そう、答え。ぐちゃぐちゃで、もやもやした感情の正体というか、輪郭が少しだけ捉えられる感じ。それがわかって、気持ちが楽になったと思わない?」
「まあ……少しは」

 曖昧に言葉を濁した私を、浅木くんは不思議そうな目をして見てきた。

 聞いても、いいのかな。

「……浅木くんの答えって、なに?」
「僕? 僕は同性愛者」

 あまりにもすんなりと教えてくれたから、拍子抜けしてしまう。

 驚いて浅木くんを見るけど、視線は合わない。
 浅木くんはただ、沈もうとする太陽を眺めている。

「中学のとき、周りの話題についていけなくなったことがあってさ。どの子が可愛いか、とかそういうやつ。なにそれ、全然わかんねーって思いながら、ずっと、輪の中にいたくて、作り笑いばっか浮かべてた」

 当時を思い出している浅木くんの横顔に、どう声をかければいいのか、わからなかった。
 ただ静かに、浅木くんの過去に触れていく。

「だんだんその時間が本当に苦痛の時間になって、僕は普通じゃないのかなって悩んでいたら、相馬さんに貸した本を見つけたんだ。ほら、書いてあったでしょ? “普通の恋ができない人たちへ”って」

 唐突に投げかけられて、私は頷く。
 すると、浅木くんは苦笑した。

「あれを見つけたとき、僕のための本だって思ったんだよね。そんなわけないのに」

 私もあの言葉を見たとき、同じように感じたところがあるから、バカにすることはできなかった。

「……だけど、読むのが怖くて、読めなかったんだ。あの本を読んで……自分が普通じゃないってわかったらどうしようって」

 その恐怖心は、わかるところがあった。

 みんなのように、気軽に触れ合うことができない。
 みんなみたいに、誰かと思いを通わせることもできない。

 そんな普通ではない自分を受け入れるのは、簡単なことではなかった。

「でも、読んだんだよね?」
「一ヶ月くらい放置してたけどね」
「浅木くんも、そこで答えを見つけたの?」

 一度踏み込んだからだろうか、聞くことに抵抗がなくなっていた。

「いや。一回では受け止めきれなかった。あの本に手を伸ばしておきながら、それでも僕は普通でいたかったから」

 普通でいたい。
 だけど、普通じゃない。

 その葛藤は私の知るものと同じだろうけど、気軽に“わかるよ”と言っていいのか、迷ってしまう。

「だけど、実際にいいなって思った人が、同性だった。そこまで来て、ようやく認めたよ。僕はみんなとは違う存在なんだって」

 その諦めの表情は、見覚えがあった。

 去年の、授業でのグループ分け、クラスマッチ、文化祭、体育祭。
 協力して活動するとき、決まってその目をしていた。

 私よりも明確に他人との境界線を作っているなとは思っていたけど、そんな理由があったなんて……

「それからはもう、助けを求めるように本を読んだんだ。当然周りの誰にも言えないし、ネットで見ず知らずの人に素直になる勇気もなかったから」
「……凄いね」

 私はそれしか言えなかった。
 浅木くんは不思議そうに私を見る。

「私は、自分自身と向き合う勇気がなかったから」
「でも相馬さんは、自分で答えを見つけて、受け止めた。僕にはない強さを持ってる」

 自分ではそう思わないけど、浅木くんが言うと、本当の私は強いのかもしれないと錯覚しそうになる。

「ありがとう……」

 脈絡もなくそう言うと、浅木くんは優しく微笑んでいた。