遠くて、近い。

   ◆

 休日明けの月曜日、私は登校後、教室ではなく図書室に向かった。
 そこは逃げ場に適していると言った彼なら、図書委員の仕事がなくてもここに来るだろうと思ったからだった。
 今日は図書委員の人のほうが先に来ていたようで、鍵は開いていた。
 だけど、浅木くんは見当たらない。
 貸出カウンターの前にある机について少しすると、彼、浅木くんが姿を現した。

「浅木くん」

 私が呼びかけるのと、浅木くんが私のほうを見るのはほとんど同時だった。
 浅木くんは私と向かい合う席に座る。

「これ、返すね。ありがとう」
「もう読んだんだ」

 浅木くんは感心しながら、机の上に差し出した本を受け取った。

「土日挟んだから」
「テスト週間なのに?」
「……休憩がてら読んだから、大丈夫」
「さすが、図書室に入り浸ってるだけある」

 浅木くんは小さく笑った。
 浅木くんが私のことを覚えているなんて、少し意外だ。もっと、他人に淡白な人だと思っていたのに。
 もしくは、覚えてしまうくらい、私が頻繁に図書室に来ていたとか。
 でも、そんなに頻繁に行っていたかなと思いながら、私は浅木くんが本をカバンに入れるところを見守る。

「それで、どうだった?」

 本を読んだ感想を聞くのは普通の流れなのに、私はすぐには答えられなかった。
 自分の中で言葉がまとまっていなかったのもあるけど、すぐ近くに聞いている人がいることで、話すのには抵抗があった。

「ちょっと出ようか」

 そんな私の心理に気付いたのか、立ち上がりながら提案され、私は頷いた。
 浅木くんは、私が椅子を片付けるのも待たずに、図書室を出た。
 私のことなんて忘れているんじゃないかと思ってしまうようなスピードで、浅木くんは私の前を歩いていく。
 置いていかれないように歩くなんて、なんだか、親を見つけた雛鳥にでもなった気分だ。
 そして浅木くんが足を止めたのは、屋上に出るドアの前だった。

「答えは見つかった?」

 浅木くんは階段を登っている途中の私を見ながら、静かに聞いてきた。
 ここだったら、答えてもいいだろうか。
 でもまだ、それが正解だと決まったわけじゃない。
 それでも、あの本をおすすめしてくれた浅木くんなら、どんな答えでも受け入れてくれるような気がした。

「……無性愛者」

 浅木くんに聞こえたか不安になるような声量だったけど、浅木くんは「そっか」と軽く相槌を打った。

 無性愛者。アセクシャルとも言うらしい。
 どんな相手でも、恋愛感情も性的感情も抱かない。その感情よりも友情を強く抱くから、ときどき相手との意識的距離感を間違える。
 私の悩みは、それに近かった。
 ただ、あの物語で、無性愛者は他人の恋愛シーンにまで嫌悪感を抱くなんて、どこにも書いていなかった。
 これは私だけなのだろうか。
 そう悩んで、たくさん考えた。

 そしてたどり着いたのは、自分をその立場に重ねていたから、という理由。
 物語の世界でしか触れてこなかった恋人関係というものは、私にとってはファンタジーの世界のようで。
 でもそれが、親友を通して身近なものに変わった。
 次は、私の番。
 無意識にそう思ったんだろう。
 だから、“キモチワルイ”なんて言葉が出てきてしまった。
 いろいろ考えて、そんな結論に至った。

「ま、まあ、本当にそうなのか、わからないけどね」

 浅木くんも無言のままで、わずかに不安を抱いた。
 だから愛想笑いを浮かべて誤魔化そうとしたけど、浅木くんはなにか考えた様子を見せながら、「いや……」と呟いた。

「相馬さんが、それが自分の答えだって思ったなら、それでいいと思う。人との付き合い方に正解なんてないだろうし。ただ自分が納得できる言葉とか答えが見つけられたなら、十分なんじゃないかな」

 落ち着いて話す姿を見ていたら、浅木くんが同い年の男子には見えなくなってきた。
 むしろ、ものすごく年上の人に諭されているような感覚だ。

「その言葉が見つかっただけで、“普通”の枠からはみ出てしまった自分にも名前がついて、少しは息がしやすくなったんじゃない?」

 そう問われても、すぐには頷けなかった。
 “普通”からはみ出していると認めることで、私は本当に息がしやすくなったのかな。
 だけど、私はみんなの輪から外れてしまったんじゃなくて、別の輪に入っていたんだと思うと、たしかに居心地の悪さは減っているような気がする。
 私ですら気付いていない、私の感情の機微を見抜くなんて。

「浅木くん……人生何周目?」

 思わずそう言うと、浅木くんは乾いた笑い声をこぼした。

「僕も納得できる答えがほしくて、いろいろな本を片っ端から読んだだけだよ」

 それだけで今の考え方に至ったのなら、やっぱり同じだけの時間を生きてきたとは思えない。
 しかしながら、そうしてしまうくらい、過去の浅木くんは悩んでいたのだろう。
 その悩みが気になるけど、今なら教えてくれるだろうか。

「……浅木くんの答えって、なに?」
「僕? 僕は同性愛者」

 あまりにもすんなりと教えてくれたから、拍子抜けしてしまう。
 私にとっては勇気のいる告白だったけど、浅木くんにとっては、それが普通なのだろう。
 でも、浅木くんとは視線が合わない。

「相馬さんもなんとなくわかると思うんだけど……中学に上がると、周りの話題って恋愛ごとが多くなってて。誰が可愛いとか、独占したいとか。僕はそういう感情を、女子に対して抱くことができなかったんだ」

 当時を思い出している浅木くんの横顔を見ていると、どう声をかければいいのか、わからなかった。
 ただ静かに、浅木くんの過去に触れることしかできないけれど、今はそれが正解のような気がした。

「僕は変なんだ、どうしてみんなと同じように……普通にできないんだろうって、ものすごく悩んだし、自分を責めた」

 その気持ち、とてもよくわかる。
 みんなと違う。
 それが悪いわけではないと頭で理解していても、そんな単純なことでもない。
 あっさり割り切れるなら、きっと私たちは、悩んだりはしないだろうから。

「だんだんその時間が本当に苦痛の時間になってきたころ、あの本を見つけたんだ。あれ、帯に書いてあったでしょ? “普通の恋ができない人たちに贈る”って」

 言葉では答えられなくて、私は首を縦に振った。

「あれを見た瞬間、これは僕のための本だって思ったんだ。……そんなわけないのにね」

 苦笑する浅木くんに、なんて言うのがふさわしいのか、わからない。
 私が言葉に迷っている間に、浅木くんは視線を落とした。

「……だけど、買ったのはいいものの、すぐには読めなかった。僕は普通じゃないんだって思ってても、普通から外れていることを認める勇気がなかったから」

 その恐怖心は、なんとなく共感できる気がする。
 みんなのように、気軽に触れ合うことができない。みんなみたいに、誰かと思いを通わせることもできない。
 そんな、普通ではない私を認めるのは、簡単なことではない。
 浅木くんに借りた本を読み終えても、まだ受け入れきれていない部分があるのもたしかだ。

「でも、読んだんだよね?」
「まあ、ね」
「浅木くんも、そこで答えを見つけたの?」

 浅木くんの答えもまた、私の道標になるのかもしれない。
 話を聞いていくうちにそんなふうに感じて、最初の、聞いてもいいだろうかという迷いは、いつの間にか消えていた。

「そうだな……見つけたと言えば、見つけたのかな。同性愛者も普通の恋愛なんだって知ることはできたから」

 そう言う割には、浅木くんの表情は暗いように見えた。
 そうだよね。答えを見つけたって、スッキリするわけではないんだ。

「それでもやっぱり……僕は普通じゃないんだなって思い知らされることもあって」

 普通だけど、普通じゃない。
 そう語る浅木くんは、どこか諦めたような表情をしている。
 この顔、なんだか見覚えがある。
 授業でのグループ分け、クラスマッチ、文化祭、体育祭。集団で協力して活動するとき、決まってその目をしていたような気がする。
 あのときは、ただ他人と居ることが苦手というか、本当にひとりで行動したい人なんだとしか思わなかったけど、今の話を聞いたら、印象が変わってくる。
 みんなの輪から外れていると自覚してしまったら、どうやってその輪に入っていたか、わからなくなってしまったんだろう。
 そう思ったけど、これは私の話で、浅木くんは違う感じ方をしているのかもしれないと思ったら、気軽に「わかるよ」なんて言えなかった。

「それからはもう、助けを求めるように本を読んだんだ。当然周りの誰にも言えないし、ネットで見ず知らずの人に素直になる勇気もなかったから」
「……すごいね」

 浅木くんの行動力に思わず言葉をもらすと、浅木くんは不思議そうに私を見てきた。

「私は……自分自身と向き合う勇気がなかったから」

 私が周りとは違うことは、薄々感じていた。
 だけど、自分が何者なのかを知ろうとはしなかった。
 だからこそ、ちゃんと自分と向き合い続けた浅木くんが眩しく見えた。
 それなのに、浅木くんは首を傾げている。

「でも相馬さんは、自分で答えを見つけて、受け止めたでしょ?」

 そう、だろうか。
 私自身は、まだ受け止めきれてはいないと思うけど……

「それは、僕にはない強さだ」

 強く肯定されると、本当の私は強いのかもしれない、なんて思わされる。
 お互いに次の言葉を考えていたら、チャイムが鳴った。
 浅木くんは先に階段を降りていく。

「浅木くん、ありがとう」

 その背中に声をかけると、浅木くんはなにを言っているのだろうかと言わんばかりの目をしたけれど、優しく微笑んで、去っていった。