「セキーっ!」
 呉羽の叫びは、広場の人混みの中であってもよく響くが、今日ばかりは甲斐がなかった。
 中央の広場で、呉羽はひとり肩を落とす。
 はぐれないようにしよう。そう約束したというのに、結局はぐれてしまった。途中まではよかったのだ。ただ、訓示が終わり、人々が境内の外に向かって流れ出してしまい、その際にはぐれてしまったのだ。なので、いまセキが、境内にいるのか、市に出ているのかさえも、分からない状態であった。
「はあ、約束したのに、はぐれちゃうなんて……」
 途方に暮れていると、広場の隅で、琵琶を弾く老人を見つけた。周りに人はいない。どうやらひとりのようだ。
「ねえ、おじいさん。こんなところで何をしているの?」呉羽は老人に声をかける。みすぼらしい格好で、無精ひげを蓄えた彼は、ゆっくりと呉羽の方を見る。
「なんだ、お嬢ちゃん。何か用か?」
 老人のわりに、明朗で聞き心地の良い声だった。
「ううん、用ってほどではないけれど、何をしてるのかなって……」
 あ、琵琶を弾いているのは分かりますよ。呉羽は慌てて付け足した。
「これか、これはな、弾き語りだよ。物語の」
「へえ」呉羽はつぶやく。「どんな物語なの?」
「とある『永夜の民』の話さ。わしがまだ老いが止まってなかった頃に、とある人に聞いた、悲しい話だ」
 説得力のない、虚空のような表情で答えた。
「……おじいさん、『永夜の民』なのに、悲しみが分かるの?」
「もうわからないさ。だが、昔の名残か、たまにわかるんだ。『ああ、むかしは、これを悲しみと呼んでいたのか』とね」
「……そう、なんだね」驚いた。老いが止まった『永夜の民』が、感情の一部を思い出せるだなんて。
「ねえ、よかったら聞かせてよ」
 老人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、目をしょぼつかせる。「構わんが、つまらんかもしれんぞ」
「ううん、それでもいいの。わたし、待っている人がいるし、いい退屈しのぎになるでしょう?」
 呉羽がそう言うと、老人は琵琶を構えなおす。
「じゃあ、聴いてもらおう。これは、とある孤独な『永夜の民』と、ひとりの少女の物語——」

♢ 

『生きていてごめんなさい』
 とある青年は、毎日のようにそう言って、弱音ばかり吐いていた。
 青年は、『永夜の民』でありながら、災いを呼ぶ存在と巫女王様に予言されてしまい、『有夜の民』からも、同じ『永夜の民』からさえも蔑まれ、石を投げられ、笑われた。
 いつしか青年は、『生きていてごめんなさい』が口癖になって、月で一番の卑屈者になっていた。
 青年は、泉へと赴いた。そう、舞を舞った姫君が、『永夜の民』となった泉。
 そこで青年はひとり、『月の女神』に願いをかけた。
『孤独でいることは、もういやだ。だれでもいいから、僕の友達になってください……!』
 そんな青年が、少女と出会ったのは、その泉のすぐそば。
 従者の服を着て生き倒れていたところを、青年が助けたのが始まりだった。
 少女もまた、孤独だった。
 そんなふたりは、いつの間にかとても仲の良い関係になっていた。
 だが、少女は、人ではないという方が、納得してしまうほどの美貌の持ち主。そのうえ、無邪気な性格と、優しい声と笑顔で、多くの人から愛された。
 どうして、こんな自分とも仲良くしてくれるのだろう。自分を引き立て役にしているのだろうか。
 不安に思う青年を、少女は優しく抱きしめた。
『わたしは、あなたのことが大切だよ』
『あなたは、この世界で、誰よりも素敵な人だよ』
 青年は、少女の腕の中で涙をこぼした。
 いつしか青年は、少女のことをすきになっていた。
『ねえ、もし永遠になれるのなら、君は、永遠を選ぶ?』
 少女とずっと一緒に居たいと思った青年は、彼女に訊ねた。
 だが、少女は、
 『わたしは、罪を犯したから』
 そう悲し気に言うだけで、答えてくれない。
 青年は、わかっていた。少女に断られてしまうことぐらい。
 なら、いまこの瞬間を大切にすればいいと、青年は誓った。
 しかし、悲劇は起こった。
 少女は、ひとりでいるところを、襲われ、殺されてしまった。
 災いをもたらす青年が、幸せになることがおもしろくない『永夜の民』の仕業だった。
 青年が見つけたときにはもう、少女は事切れていた。
 少女の傍らには、一本の扇があった。それは、少女が生前、大切な人からもらったものだと言って、大事にしていたものだった。
 その扇を抱え、青年は泣き叫んだ。月が、彼の涙で沈んでしまうほど。
 そして、青年はいまでも待っている。
 少女がまた、この世に生まれ変わるのを。



 老人は最後の一言を歌い終え、締めくくるように弦を弾いた。
「……とっても、悲しいですね」
 その余韻が喧騒に掻き消え、完全になくなって、やっと呉羽は声を出すことができた。老人が語った素晴らしい物語に、拍手を贈りたかったが、手放しに賛辞を贈れるような内容ではない気がした。
「ああ、そうだな」老人は頭を乱暴に掻く。「わしも、初めて聞いたときは、そう感じたさ。いまは何も感じんがな」
「それ、本当のお話なの?」
 呉羽は身を乗り出す。
「多分な」老人はぶっきらぼうに答えた。「いまとなっちゃ、誰も覚えてないさ。この話をしてくれたあの人も、いま生きてるのかもわからねえ」
「え? でも……」
『永夜の民』は死なないんじゃ。そう言いかけたところで、
「おい! いたぞ、あいつだ!」
 少年の怒号が、中央の広場に響き渡り、その場のすべての視線を集めた。
 どけ、どけ、と、声の主であろう少年が、検非違使を引き連れてやってきた。その後ろには、老齢の祭祀官の男もいた。
 彼らを引き連れてきた少年に、呉羽は見覚えがあった。誰だったか、思い出せない。
「な、なんでしょうか?」
「とぼけるな! お前、ツキモノに触れたのに、なんでツキモノになっていないんだ!」
「……」
 思い出した。この少年は、昨日、慈鳥を虐めていた少年のひとりだ。
 胃のあたりが熱を失い、総身が冷える思いがした。それと同時に、周りにいた人々がどよめく。
「ツキモノに触れた?」
「やつらの気に触れたのに、なぜあいつは人の姿のままなんだ」
「ま、まさか……」
 ——こやつは、『有夜の民』だ!
 祭祀官の声が轟く。
 それは、呉羽の正体がばれた瞬間だった。
 人々は、ある者は逃げ出し、ある者は気を失い、ある者は呉羽に石を投げつけ、ある者は呉羽に罵詈雑言を吐いた。その視線はいずれも軽蔑と恐怖を孕んでいた。
 いつもの比ではない迫害に、呉羽はひどく困惑すると同時に、戦慄した。
 ——いやだ、いやだ。やめて、やめて……。
「やっぱりそうだった! ツキモノに話しかけ、その気に触れた化け物が!」
 少年はまた、呉羽に罵声を浴びせる。しかしそれも、周りの人々からの罵詈雑言の一部となり、掻き消えた。隣で話を聞かせてくれた老人は、驚いたまま固まっていた。その場から這うように移動して、老人から距離を取る。このままでは、老人にも石が当たってしまうかもしれない。
「やだ、やめてよ!」力一杯叫ぶが、迫害は止まらない。「どうしてこんなに『有夜の民』を虐げてくるの? わたしも、あなたたちも、もとは同じ寿命を持つ人間だったのに! いまが特別だとか、完璧だとか、そんなの関係ない。これじゃあ、あなたたちを『永夜の民』にした『月の女神』も可哀そうよ!」
 呉羽の、こんな時でも澄み切った声は、怒号と罵詈雑言で溢れた広場を埋め尽くした。
 それに気圧され、辺りは一瞬静まり返った。だが、ひとつ、ふたつとまた、罵詈雑言が重なり、大きな怪物と化す。
「どうしたもこうしたもあるものか!」
 叫んだのは、呉羽を『有夜の民』と言った祭祀官だった。ほとんどしわがれた声で、祭祀官は罵声を浴びせる。
「『月の女神』が可哀想だと? 知ったような口をききおって。いいか? 『有夜の民』と言うのは——」
 その時、祭祀官は初めて呉羽の目を見た。祭祀官の目は、(うろ)のように黒く、からっぽだった。
「我ら『永夜の民』から、永遠を剥奪し、ツキモノに変えてしまう化け物だ!」
「……え……?」
 呉羽は、深く絶望した。
 ——永遠の、剥奪……?
 それは、本当なのか。だとしたら、あの時あの少年がツキモノになったのは。——わたしのせい?
 そうだ、そうに決まっている。だって、『有夜の民』は永遠を剥奪し、『永夜の民』をツキモノに変えてしまう、化け物なのだから。
 呉羽の純粋で爛漫な思考と心が、一気に黒く塗りつぶされてゆく。石を投げつけられ、傷口からは血が流れる。そこから流れる血とともに、呉羽の中の、人としての自尊心が流れ出し、消失する。
 途切れることなく浴びせ続けられる罵詈雑言がうるさい。まるで、耳の中に蝉が卵を産みつけ、それが一気に羽化したように、脳内に響く。
 人々の方に目を向けると、見知った少女を見つけた。春だった。呉羽を軽蔑するでもなく、驚いた様子で、その場に立ち尽くしている。ひどく狼狽しているように見える。
 ——あの子はいま、何を思っているのだろう。
 失望しただろうか。自分が慕っていた人が、永遠を剥奪する化け物だと知って。真意は読み取れないが、当たらずしも遠からずなことを思っているのだろう。
 呉羽はうつむき、罵詈雑言と投げつけられる石を、当然のもののように受け入れる。まるで、寿命ある生物が、死を受け入れるように。
 消えてしまいたい。このまま泡沫のように、透明になって、消え去ってしまいたい。
 ——こんなわたしなんて、いっそ死んでしまった方がいいんじゃ……。
 呉羽の胸中を渦巻く絶望が、彼女を飲み込みかけた。その時だった。
「おや、こんなところにいたんですね」
 ひとりの青年の声が、呉羽の意識を呼び覚ました。その声を合図に、怒号も罵詈雑言も、ぴたりと止んだ。
 青年は、人混みをかき分け、呉羽の前にしゃがみ込む。そして、彼女の左右不揃いの瞳を見つめる。生気はなく、だがどこか純粋そうな瞳に、ぼろ布のようになった呉羽が写っている。
「セ、キ……?」
 赤い髪に、青い瞳。間違いなく、セキだった。
「まったく、はぐれないと約束したというのに、結局はぐれてしまいましたね。まあ、人が多かったので、しょうがないですが」
 まるで、この状況を、すべてなかったことのように話すセキに、呉羽はぽかんとする。
「さて、では行きましょうか。ここは何だか居心地が悪いです」
 流れるように手を取り、セキは立ち上がるが、当の呉羽は座り込んだまま。
「どうかしましたか?」
「なんで、なんで……」
 ——わたしといたら、セキもツキモノに……。
 涙を必死にこらえる呉羽に、セキは、文字通り少し微笑んで、
「くふふ、だって、私たちは〝ともだち〟でしょう?」
 そう答えた。
 その瞬間、いままで泡沫のように曖昧だった呉羽の輪郭が、その瞳から零れ落ちる涙によって描かれ、はっきりと形作られた。